イノセント・ハート
「ねぇ、佑って恋したことある?」
「…は?」
前の席に座っている少女、白江沙弥の突拍子もない質問に、篠崎佑は頭上にクエスチョンマークを浮かべることしかできなかった。
「だから、恋したことはあるかって聞いてるの」
沙弥は二度も同じことを言わせるなと言わんばかりに、溜息混じりに言った。佑は漢文を写す手を休め、面白いものを見つけた子供のような顔をした。
「なに? 沙弥にもようやく春が来たっていうあれですか?」
「そんなのじゃないわよ。ほら、女子ってそういう話よくしてるじゃない? それで今まで好きな人とかできたことないって言ったら、人生の半分以上損してる、そんなの青春じゃないって言われたのよ。あたしそういうこと興味なかったからよくわかないし……。だから佑に恋って何なのか教えてもらおうかと思ったの。あ、別に返答に期待してないから」
「期待してないなら聞くなよ……」
佑は文句を言いながらも沙弥への返答を考えた。しかし、いざ考えてみると佑も好きな人ができた覚えがなかった。もとより男子でそのような話をすることは少なく、何組の誰がかわいいとかそういった類がほとんどである。さらに沙弥と同じように浮いた話に興味がない佑にとって恋という言葉自体、物語の中にしか存在しないものだった。
「沙弥の期待に沿えないというかむしろ期待通りなのかはよくわからないけど、俺には理解できない部類の質問であることは確かだな。一つだけこれだけは自信を持って言えるぞ。俺にそんな事を聞くな」
佑は今まで読んだ恋愛小説や、テレビであった各シーンなどを思い返してみたが、「恋とは何か」なんて質問の答えを探しているとどこまでも迷走するような気がしたので、そうなる前に考えるのを止めた。
「なんだか期待通りすぎてつまらないけど安心した」
あはは、と沙弥は軽く笑い始ながらトレードマークであるポニーテールを弄る。
「今までずっとつるんできたからさ、佑だけ大人の階段上ってて、あたしはおいてけぼりにされてるなんて嫌だし。本音を言っちゃうと佑に先を越されるのが嫌なだけなんだけどね」
「その心配は要らないだろう。今のところ恋人になってもらう予定もなる予定もないからな。それに第一俺はそういうのが全く以てわからない」
佑はそこで話を切ると机の上のノートをシャーペンでさしながら言った。
「話はそれだけか? 次の時間の課題を終わらせておかないとまずいんだ」
「あ、ごめん。すごく邪魔してたみたいね。頑張ってねって言ってももうチャイム鳴りそうだけど」
と沙弥が言い終わると同時に始業のチャイムが鳴った。
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思春期になれば誰でもするという恋。女の子となれば理想の彼氏像や格好いい男子の話で盛り上がるのが普通だろう。しかし沙弥にはその感覚が理解できなかった。彼氏なんてそのうちできるものだと思っていたし、男子のどんなところが格好良くて、どんなところに魅かれるのかなんてさっぱりだった。自室のベッドで沙弥は胸の奥がモヤモヤするのを感じた。
「そういえば沙弥ってさ、よく篠崎と一緒にいるけど付き合ってるの?」
学校で沙弥が友達の惚気話を聞いていると、突然話を振られた。
「あーそれ私も思ってたんだよねー。篠崎君とやけに仲良さそうだし。それでそれで? 実際のとこどうなの? どこまで進んだの?」
「別にあたしと佑はそんなんじゃないよ。ただの腐れ縁の幼馴染っていうだけで」
「いや、それだけで十分フラグ立ってると思うけど」
沙弥がどうでもよさそうに言うと、間髪をいれずに鋭いツッコミが入る。
「人の話を最後まで聞きなさいよ。あたしと佑はただの幼馴染で、なおかつどっちも恋愛とかそんな感じのことに全く興味がないの。だから恋人とかそんな関係にはならないわよ」
「うっそだ~、女の子なのに恋愛に興味がないとかありえないよ。え、じゃぁ何、やっぱり私たちの惚気話つまらない?」
「いや、まず恋人のいない人に惚気ているあんたたちの性格がすごいよ。普通だったら誰でもつまらないって言うと思うよ。でもあたしは二人が惚気けてるとき、活き活きしててすごく幸せそうだからさ、そんな姿を見てるのもいいなーって思ってるよ。幸せのお裾分けしてもらってる感じがするし」
要は聞き手の受け取り方の問題なのだろう。それを好意的に解釈することも、嫌味だと曲がった捉え方をすることもできる。しかしこの二人はまた別の意図で沙弥に惚気を聞かせていた。
「いやぁやっぱり沙弥はいい子だねぇ。うちたちは沙弥だから惚気を聞いてもらいたかったっていうのがあるのよね」
「そうそう、沙弥さっき自分で言ってたこと、仮に百歩譲ってそれがホントだとするとさ、人生の半分以上損してるよ。そんなの青春してるって言わないよ。だから惚気でも聞かせてれば沙弥も恋人が欲しいって思うようになるかなーって思ったんだよね。私、沙弥の惚気一度でいいから聞いてみたいの」
なんとお節介な友人たちだろう。自分たちのしたいことをしつつも、その裏では沙弥に潤いのある青春を送らせようとしていたとは誰が気づいたものか。
「話が反れちゃったから本題に戻すけど、沙弥は篠崎のこと何とも思ってないの? はたからみれば雰囲気良いし、付き合ってるようにしか見えないよ?」
「さっきも言ったでしょ、あたしも佑もこういうことに興味がないって。それに仮にあたしが佑のこと好きだとしても、あたし自身がそのことに気付いてないというかよくわからないの」
「それじゃぁまず沙弥自信の気持ちを確かめなきゃね。今晩よく考えてみてそれでもわからないときは相談に乗るよ」
よく考えてみてと言われても、沙弥は異性を好きになったことがなく、その感情さえ知りえないものだった。
今日も沙弥と佑はいつものように一緒に帰っていたのだが、沙弥は学校での一件で佑のことを変に意識していた。佑の言動を気にしていた所為で他のことに対する注意力が散漫になり、何度も転びそうになった。その度に佑に助けてもらっていたのだが、支えるために触れた手も意識していまい、まさに挙動不審という言葉がぴったりな状態だった。
「佑に変なとこ見られた……。ていうか思いっきり笑ってたし。あの二人明日覚えてなさいよ」
帰りのことを思い出してしまい、あのお節介二人組に悪態をついたが、胸の奥のモヤモヤは消えない。これが異性を好きになる、恋をするということなのだろうか。
沙弥はしばらく抱き枕を抱きしめたままうーうー唸っていたが、
「寝よう……」
とつぶやくと電気を消してベッドに潜り込んだ。しかし沙弥が寝付いたのはベッドに入ってから三時間が過ぎた頃だった。
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昨日の二の舞になりたくないと思った沙弥は、翌朝いつもより早い時間に一人で登校した。教室には既にお節介二人組がこの時間に沙弥が登校してくることを予想していたかのように沙弥の机でダラダラしていた。
「うぃっす」
「おはよー」
二人は沙弥に気付くと手を上げて挨拶をした。
「うぃっす、じゃないわよ昨日大変だったんだからね。佑に変なとこ見られるし、夜寝れなくて寝不足だし」
沙弥は大きなため息を吐きながら席に着いた。それを見た二人は顔を合わせてニヤリと笑った。
「そういう反応をするってことは何かしら心境の変化があったということだよね、ね!」
「別にそんなのじゃないわよ。あんたたちが変な事言うから佑のこと変に意識しちゃっただけなんだからね。どうしてそんなにニヤニヤしてるのよ」
「だって、ねぇ。沙弥の反応が初々しいというか可愛いというか、とにかく思ってた通りの反応をしてくれたからね。沙弥もようやく青春し始めたのかなぁって思ったらさ、もうニヤけるのを止められないよ」
どうやら沙弥は二人の思惑にまんまとはまってしまったらしい。そのことに気が付いた沙弥は呆れたというより諦めがついたというようにため息をついた。
「何なの? あたしはどんな策略の渦に飲み込まれてるのよ」
「策略も何も沙弥が素直すぎるというか単純というか」
「沙弥っていい子だよね。もちろんいい意味で」
「はいはいどうせあたしは単純バカですよ」
沙弥は反対を向いて唇を尖らし頬杖をついた。拗ねたときの典型的なポーズである。
「ごめんごめん、沙弥ってついつい弄りたくなるの」
「そうなんだよ、弄れば弄るほどツンツンするからさ、もっと弄ってくれって言われてるみたいでつい……」
「はぁ……。結局二人はあたしと佑が付き合えばいいと思ってるんでしょ? わかったわよ、あたしが付き合ってくれって告白したらいいんでしょ佑に」
いくら沙弥が恋愛に興味が無いとはいってもさすがにここまで言われて気づかないほど鈍感ではない。こうなったらもうなるようになれとヤケになっていた。
「今から佑に言ってくるから結果報告を楽しみにしててよね!」
「俺がどうかしたのか?」
沙弥が高らかに宣言を立ち上がったとき、教室の入り口から佑が入ってきた。
「俺の名前が出てたけど何の話してたんだ?」
「ん~とねぇ、沙弥が篠崎君に大事な話があるんだって」
「そうそう、だから今から探しにいこうとしてたところなんだよ」
お節介二人組みが事の説明をさらりと言ってしまったので、沙弥はどう転がっても佑に告白しなければならなくなった。
「ゆ、佑! ああああたしが今から言うことに何も言わずにイエスと言って! いいわね!」
「まぁとりあえず落ち着けよ沙弥」
顔を真っ赤にしてテンパる沙弥を佑は笑いながら落ち着かせようとした。
「何も言うなって言ったでしょ!」
「はいはいわかったから早く言えよ」
沙弥は二度深呼吸をすると早口に言った。
「あたしと付き合って!」
なんとなくわかっていたがやはり告白されると恥ずかしいものだと思う。佑は少し間を置いて答えた。
「イエス」
佑は「ふぅ……」とため息をつくとお節介二人組みを見て言った。
「どうせおまえらが沙弥に何か吹き込んだんだろ? 俺がそれを止めるなんてことはしないけどさ、沙弥の意志に沿わないことはしないでくれよ。一応幼馴染だから心配するんだ」
そして沙弥を見るとオーバーヒートしたのか床に座り込んでいた。
「おい沙弥、お前もムキになってやったんだろ? 俺は沙弥と付き合うことになんら問題ないけど、他の男だったらどうするつもりだったんだよ」
「……うじゃなきゃしなかった」
「なんて言ったんだ? 声が小さくて聞こえなかった」
「佑じゃなきゃ告白しなかったって言ったの! 他の男なんてどうでもいいわよ! てか佑以外の男子なんて良く知らないし。もういいでしょ、あたしと佑が付き合って万事解決! もうこの話は終わり!」
気がつけば教室中の視線が二人に集まっていた。
「やっとくっついたかー」
「お幸せにね~」
「でもこれからが長そうだよな」
「だよな、白江ツンデレだし」
佑が沙弥の顔を見ると、沙弥は顔を逸らしてボソっと呟いた。
「こっち見ないでよバカ」