桃太郎 一
揺れ、揺りかごの上だろうか。恐る恐るまぶたを開いてみる、暗闇。私の世界はこの暗闇と不規則な揺れだけだ。時間の経過は分からない。ただ分かるのは、私には記憶があることだ。私はもう数えきれないほどこの暗闇に落とされた。これは生の喜びの始まりであり、絶望の始まりでもある。私は、狭く暗い空間の中で甘ったるい匂いに幼い鼻を委ねながら、もう一度眠ることにした。
パラパラと小雨の中、お婆さんは川で選択をしていた。川べりの木のもとで雨宿りをするか、翻って小屋へ帰るか、である。その選択は熟達した判断力によって容易く一途へとしぼられた。そして、空を見上げて、溜息をつく。
「帰りましょう、そのうち川の水も濁るでしょうし」
お婆さんは周りに置いてあった布切れや袴を素早く畳むか丸めるかして、底の深い竹かごへ入れた。
「よっこらせ、と」
ギシギシと乾いた痛みをもった膝を、気合で叱咤して、本降りにならないうちに帰ろうと踵を返すと、川の上流の方に川の景色にそぐわないものが存在しているのを感じた。はっとしたお婆さんがよく目凝らすと、それは、それはそれは大きな桃である。淡い赤が丸みの部分をじわじわと舐めるように広がっている熟した形の美しい桃である。お婆さんは年甲斐もなく好奇心は湧き踊り、それを手に入れたいという欲望がふつふつと起こってきているのを感じた。
「桃ッ!」
稗や粟の雑穀と小さな川魚、などしか食べ物らしい食べ物が無い身分である。あれほどまでに美麗な桃など生まれて初めて見たのである。お婆さんが対象物の名称を叫んで思い切り川の中へ突進するのも頷けないわけでもない。お婆さんは美麗な桃に惜しい気持ちを残しながら木の棒を突き刺した。あまりにも整いきった球形であるため、雨水に濡れていると掴みどころがないのである。
突然、凄まじい勢いで謎の突起物が、私の暗闇の世界と外界をつないだ。その突起物は私の右目すれすれで停止した。間一髪である。このパターンは二度ほど経験したことがある。一度目は後頭部まで貫通させて絶命した。二度目はかろうじて助かったものの、開けられた穴と棒の間から川の水が流入してきてあえなく窒息死である。これらの経験則から、棒が刺さるのは決して良い傾向ではない。そうこうするうちに水が入ってきた。待つのはただただ死であると私は直感した。私は生を授かってすぐさま襲いかかってきた死の危険に大した感情を持てなかった。いつものことである。どうせまた復活するのである。この程度の不運死、何度経験してきたことか、もう慣れに慣れてしまった。しかし、どれだけ死の訪れに慣れても、瞬間の激痛に慣れることはない。窒息死は魂が千々になり、水へ溶け去る恐怖である。そして、口が水で塞がれた。嗚呼。
やっとのことで陸に打ち上げられた巨桃からでるわでるわの汚い川の水。それを見たお婆さんは、持ち帰ることを躊躇った。流れでた汚い水の対照的な異様に甘い香りは、空洞、すなわち腐敗を示唆しているといやが上にも分かった。しかし、婆さんはお爺さんに見せてやりたいと思った。驚く顔が見たいのである。食べるか食べないかはお爺さんと相談して決めよう、と思った。
「やぁ大きいなぁ、大きい。食うのかい、これ。包丁はどこだい」
お爺さんは巨桃を見るやいなや、興奮した。これを食したいという欲望がふつふつと沸き起こっているのを感じた。
「食べるんですか、これ」お婆さんは苦々しい顔で言った。
「ああ、なにしろこれほどの大きさと形だぞ。きっと仏様のご利益があるに違いない。さぁ包丁をもってきてくれ、わしが切る」お爺さんは言った。
「何を言うんですか、見つけたのは私で、ここまで持ち帰ったのも私ですよ。私が切ります」
お婆さんは意地になっていた。腐敗の可能性で一時萎えた欲望が、お爺さんの物欲を目の前にしてまた復活したのである。お婆さんは素早く台所から包丁をとると巨桃の前で仁王立ちになった。
「いきますよ、お爺さん」
「ああ」
スッと、切れ込みが濃いピンクの桃の艶やかな肌に入った。あまい果実の臭気が待ち望んでいたかのように吹き出しお婆さんとお爺さんの顔面に付着した。二人は臭覚を虜にされ欲の塊になった。早く食いたい、我慢出来ない、と思うでもなく、刻み込まれた。包丁が中腹まで切り込まれたそのとき、お爺さんはあまりの臭気に自らを見失った。お婆さんが切っているその上に覆いかぶさるようになって、切れ込みから無理に桃をこじ開けようとしたのである。柔らかい桃はもろく崩れるように真っ二つになった。こじ開けられた桃から臭気が撒き散らされた。
お爺さんは喜びの雄叫びを上げた。お婆さんも抜け駆けされたことに腹を立て、包丁を放り出して泣いた。二人は桃を食った。それはそれは美味たるものであった。一口一口に覚醒させるものがあった。心臓が高鳴り、筋肉は収縮した。彼らはまるで、肉食獣のようであった。両手の口へ桃を運ぶサイクルはとどまることを知らなかった。二人は夜通し食った。朝になると、桃は皮さえ残さなかった。しかし、二人の欲望は尽きなかった。
お爺さんは再び雄叫びを上げた。それはすでにお爺さんではなく、長身で屈強な体つきをした一つの男であった。お婆さんは床に爪を立てた。それはすでにお婆さんではなく、豊満な肉体から肉欲を醸す一つの女であった。二人は欲のはけ口を血眼で探した。二人の目がそのとき合った。そして、二人は激しく体を求め合った。食欲は轟轟たる性欲へと昇華した。二人はひねもす交わりあった。生きる歓びとはこれであったか、二人は思った。
お婆さんであった女が男の子を生んだのはその一週間後であった。女の腹はさながら風船を膨らませるように膨らんだ。男の子を産むと、間髪入れずに乳房が倍ほどの大きさとなり、生まれた赤子へ豊かな養分を与える準備ができた。赤子は猿のように一心不乱に飲んだ。犬のように全てに噛み付いた。鳥のように小屋を走りまわった。男と女は神の恵みに感謝した。そして、この異様なほどの精気を持った息子を神の子だと思った。




