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不合格から始まる聖医の絆 ―踏切を越えた先、異世界で命を繋ぐ―  作者: ねこあし


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第3話 「紋章の啓示」

 街の門が近づいてくる。


 石造りの城壁は、近くで見ると想像以上に高かった。十メートルはあるだろうか。表面には蔦が這い、長い年月を経てきたことを物語っている。


 門の両脇には、槍を持った衛兵が二人。胸当てと兜を着けた、いかにもファンタジー世界の兵士といった出で立ちだ。


「緊張してる?」


 セリアが振り返って尋ねてきた。


「少し……」


 正直に答えると、セリアは微笑んだ。


「大丈夫よ。私たちがついてるから」


 門に近づくと、衛兵の一人が槍を横に構えた。


「止まれ。身分証明を提示せよ」


 低い、威圧的な声。


「冒険者ギルド所属、セリア・ブライトブレードです」


 セリアは腰の袋から、金属製の札を取り出した。陽光を受けて、銀色に輝いている。


 衛兵は札を手に取り、じっくりと確認する。裏面の紋章まで念入りに調べた後、頷いた。


「よし、通れ。……その娘は何者だ」


 鋭い視線があかねに向けられた。あかねは思わず一歩後ずさりする。


「森で魔物に襲われているところを救助しました。身分証明はまだありませんが、私が保証します」


 セリアの声に、迷いはなかった。


 衛兵はあかねを上から下まで見回した。その視線が、あかねの制服――いや、今は借りている服に注がれる。


「見慣れない服装だな。どこの出身だ?」


「遠い東の国です」


 エルミナが横から助け舟を出した。


「旅の途中で襲われたのです。気の毒に」


「……そうか。だが、三日以内にギルドで正式な身分証明を取得すること。それまでの責任は、そこの冒険者が負うものとする」


「承知しています」


 セリアが頭を下げた。


「通れ」


 衛兵が槍を戻し、門が開いた。


 あかねは緊張で固まっていた体を、ようやく動かすことができた。


「ふう……」


「怖かった? あの衛兵、特に厳しいので有名なのよ」


 リーナが苦笑した。


「でも、街の平和を守るためには必要なことよね」


 門をくぐると、そこには異世界の街並みが広がっていた。


 石畳の道。すれ違う人々の服装は、中世ヨーロッパを思わせる。男性は麻や木綿の服にベスト、女性はロングスカートとエプロン。商人らしき人は、やや上質な服を着ている。


 建物は木造と石造りが混在していた。一階が石造りで、二階が木造という建物も多い。屋根は茅葺きや瓦葺き。煙突からは煙が立ち上っている。


「すごい……」


 あかねは、ゆっくりと歩きながら周囲を見回した。


 右手には、野菜や果物を売る露店が並んでいる。赤いリンゴのような果実、緑の葉物野菜、オレンジ色の根菜。


「新鮮なトマトだよ! 今朝採れたばかり!」


「パン! 焼きたてのパン!」


 商人たちの呼び込みの声が響く。


 左手には、鍛冶屋があった。店の前では、筋骨隆々とした男が鉄を打っている。カンカンカンと、リズミカルな音。火花が散る。


「いい匂い……」


 どこからか、パンの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。あかねの空腹が刺激された。


「お腹空いた? 宿に着いたら、ちゃんとした食事を取りましょう」


 エルミナが微笑んだ。


 さらに進むと、広場に出た。中央には噴水があり、子供たちが水遊びをしている。周囲のベンチには、老人たちが座って談笑していた。


「この街、フィルダは人口三千人くらい。エルドランド王国の北部では、大きな街の一つよ」


 セリアが説明してくれた。


「あそこに見えるのが教会。あっちが市場。そして――」


 セリアが指差した先には、一際大きな石造りの建物があった。


「あれが冒険者ギルド。私たちの拠点よ」


 ギルドに近づくと、入口で何人かの冒険者とすれ違った。


 大剣を背負った筋肉質の男。双剣を腰に下げた、猫のような目をした女性。杖を持った老人。弓を持った若い男。


 皆、一様に鍛えられた体つきをしていて、歴戦の戦士という雰囲気を醸し出していた。


「おう、セリア! 依頼は終わったのか?」


 大剣の男が声をかけてきた。


「ええ、ガレスさん。無事に終わりました」


「そうか。で、そっちの嬢ちゃんは?」


 ガレスの視線があかねに向けられる。鋭い目つき。


「新人よ。これから登録するところ」


「ふうん……見たところ、戦士には見えないがな」


「まあまあ。これから鍛えるのよ」


 リーナが間に入った。


「そうか。まあ、頑張れよ、嬢ちゃん」


 ガレスは笑って去っていった。


「気にしないで。ガレスは口が悪いけど、悪い人じゃないから」


 セリアがフォローした。


 ギルドの中に入ると、広いホールになっていた。


 天井は高く、梁が幾重にも張られている。壁には、無数の依頼書が貼られたボードがあった。


『魔物討伐:報酬50シルバー』

『護衛依頼:報酬80シルバー』

『薬草採集:報酬30シルバー』


 様々な依頼が並んでいる。


 カウンターには、数人の職員が座っていた。彼らは冒険者たちと会話をしながら、書類を処理している。


「セリア! お帰りなさい!」


 カウンターの一人、茶髪をポニーテールにした女性職員が手を振った。年は二十代半ばくらいだろうか。明るい笑顔が印象的だ。


「ただいま、マリア。依頼の報告に来たわ」


「お疲れ様。報告書は?」


 セリアが書類を渡す。マリアは素早く目を通し、頷いた。


「黒森の魔物討伐、完了ね。お疲れ様でした。報酬は後ほどお支払いします」


「ありがとう。それと、彼女のことで相談があるんだけど……」


 マリアの視線があかねに向けられる。その目が、一瞬鋭くなったような気がした。


「あら、珍しい。セリアが誰かを連れてくるなんて」


「事情が複雑なの。個室で話せる?」


「……分かったわ。第三会議室へどうぞ」


 マリアの表情が、真剣なものに変わった。


 案内されたのは、奥にある小さな部屋だった。木製のテーブルと椅子が置かれている。窓にはカーテンが引かれ、外から中が見えないようになっていた。


「で、どういうこと?」


 マリアが腕を組んで尋ねた。


 セリアは一呼吸置いてから、口を開いた。


「あかねは……異世界から来たの」


 静寂。


 マリアの目が見開かれた。


「異世界……人?」


「ええ。黒森で魔物に襲われているところを助けたんだけど、話を聞いたら、この世界のことを何も知らなくて。日本という国から来たと言っていて」


「日本……聞いたことない国ね」


 マリアは深刻な表情になった。


「異世界人か……古い記録には確かにあるわ。数百年に一度、別の世界から人が召喚されることがあるって」


「やっぱり、本当なんですね」


 エルミナが身を乗り出した。


「ええ。でも、問題は――」


 マリアが声を潜めた。


「王家や一部の上位貴族が、異世界人を探しているのよ」


「どうして?」


 あかねが尋ねた。


 マリアは少し躊躇したが、やがて口を開いた。


「異世界人は、特殊な能力を持っていることが多いらしいの。その能力が有用だと判断されれば……」


「されれば?」


「『保護』の名目で、事実上、支配される。最悪の場合、服従の魔法がかけられた首輪をつけられて、命令に従わされ

る」


 あかねの血の気が引いた。


「首輪……それって、奴隷じゃないですか」


「法的には違うわ。あくまで『国家のための保護措置』ということになってる。でも、実態は奴隷と変わらない」


 リーナが拳を握りしめた。


「酷い話よね。人を道具として扱うなんて」


「全ての貴族がそうじゃないわ。中には、そういう非人道的なやり方に反対している貴族もいる。でも、王家と一部の上位貴族の力は強大で、逆らえば処刑されることもある」


 マリアの言葉に、部屋の空気が重くなった。


「じゃあ、どうすればいいの?」


 セリアが尋ねた。


「あかねを、普通の市民として登録するしかないわ。異世界人だということは、絶対に秘密にして」


「それで大丈夫なの?」


「分からない。でも、他に方法がない」


 マリアは真剣な目であかねを見た。


「あかね、いい? あなたは異世界人じゃない。遠い東の国から来た、普通の旅人。それ以外のことは、絶対に誰にも言わないで」


「分かり……ました」


 あかねは震える声で答えた。


 突然、自分が危険な立場にいることを突きつけられ、恐怖が込み上げてきた。


「大丈夫。私たちがあかねを守るから」


 セリアが、あかねの手を握った。その手は温かく、力強かった。


「では、身分証明書を発行するわね」


 マリアが書類を取り出した。


「名前は?」


「進藤あかね」


「シンドウ・アカネ……変わった名前だけど、東の国の名前ということにしておくわ。年齢は?」


「十八歳です」


「出身地は、東方諸国連合のハルカ村ということにしておきましょう。実在する村だけど、記録が少ないから詳しく調べ

られることもないわ」


 マリアは素早く書類に記入していく。


「職業は?」


「まだ……」


「見習い冒険者にしておくわ。セリアのパーティに所属する形で」


 数分後、簡素な身分証明書があかねに手渡された。羊皮紙に、名前、年齢、出身地、職業が記されている。


「これで、この街では正式な市民よ。大切にしてね」


「ありがとう……ございます」


「それと、もう一つ」


 マリアが真剣な表情で言った。


「もし、何か異変があったら、すぐに私に知らせて。異世界人には、予期せぬことが起こることもあるから」


「異変……?」


「例えば、急に不思議な力が目覚めたりとか」


 あかねの背筋が凍った。でも、表情には出さないようにした。


「分かりました」


 ギルドを出ると、日はまだ高かった。


「さて、次は宿を取りましょう」


 セリアが提案した。


「私の知ってる宿があるわ。『銀の月亭』っていう、清潔で食事も美味しいところ」


 リーナが先導して、路地を進んでいく。


 メインストリートを外れると、雰囲気が少し変わった。道幅は狭くなり、建物が密集している。洗濯物が窓から干されている。子供たちが路地で遊んでいる。


「こっちは、庶民の住む地区よ。冒険者たちの宿も、この辺りに集中してるの」


 エルミナが説明してくれた。


 やがて、木製の看板が掲げられた宿が見えてきた。『銀の月亭』と書かれている。二階建ての木造建築で、一階の窓からは明かりが漏れ、賑やかな声が聞こえてくる。


「着いたわ」


 中に入ると、そこは食堂兼酒場になっていた。木製のテーブルと椅子が並び、何組かの客が食事をしている。空気には、料理の匂いと、ほのかにビールのような匂いが混じっていた。


「あら、セリアちゃんたち! お帰りなさい!」


 カウンターの奥から、ふくよかな中年女性が笑顔で出てきた。エプロン姿で、母親のような温かい雰囲気を醸し出している。


「ただいま、マーサさん」


 セリアが笑顔で答えた。


「依頼は無事に?」


「ええ、問題なく」


「良かった。で、その子は?」


 マーサの視線があかねに向けられた。


「新しい仲間よ。これから一緒に行動するの」


「まあ、可愛い子じゃない。よろしくね、お嬢ちゃん」


 マーサの笑顔が、あかねの緊張を和らげた。


「よろしく……お願いします」


「部屋、空いてる?」


「ええ、ちょうど二部屋空いてるわよ。いつもの?」


「お願い」


「分かったわ。荷物を置いたら、食堂に来てね。今日は特製のシチューがあるのよ」


 階段を上がり、二階の部屋に案内された。


 廊下の両側に、いくつか部屋が並んでいる。マーサが二つの部屋の鍵を開けた。


「こっちと、あっちね」


 セリアとあかねが一部屋、リーナとエルミナがもう一部屋を使うことになった。


 部屋はシンプルだが清潔だった。木製の床に、二つのベッド。小さなテーブルと椅子。壁には、ランプが掛けられている。窓からは、街の様子が見える。


「ここが、しばらくの間のあかねの部屋よ」


 セリアが窓を開けた。夕方の風が入ってくる。


「ありがとう、セリア」


「どういたしまして。さ、荷物を置いたら食事にしましょう。お腹空いたでしょ?」


 あかねは、エルミナに借りた服に着替えた。麻の生地で作られた、シンプルなワンピース。この世界では一般的な服装らしい。


 制服を畳みながら、あかねはふと左手首を見た。


 そこには、何もない。


 でも、さっき門で衛兵と話していた時、一瞬だけ何か光ったような気がした。


 気のせいだろうか。


 首を傾げながら、あかねは食堂に降りた。


 食堂には、すでにリーナとエルミナが席に着いていた。大きな木製のテーブルを囲む形で座る。


「お待たせ」


 ほどなくして、マーサが料理を運んできた。大きな皿に盛られたシチュー、焼きたてのパン、サラダ、そして木製のジョッキに注がれた、何かの飲み物。


「さあ、召し上がれ!」


「いただきます」


 四人で食事を始める。シチューは、野菜と肉がたっぷり入っていて、濃厚な味わい。パンは外がカリッとしていて、中

はふんわり。


「美味しい……」


 あかねは感動した。素朴だが、心のこもった料理。


「でしょ? マーサさんの料理は、この街で一番よ」


 リーナが得意げに言った。


 食事をしながら、四人は今後のことを話し合った。


「あかね、明日から色々教えてあげるわ」


 エルミナが言った。


「まずは、この世界の文字の読み書き。それから、常識や歴史」


「そして、戦い方ね」


 セリアが付け加えた。


「え、戦い方……?」


「ええ。この世界で生きていくには、身を守る術が必要よ。剣でも、弓でも、魔法でも、何か一つは使えるようになった方がいい」


「私、何ができるでしょうか」


「それを明日、調べましょう。魔力測定をすれば、魔法の適性が分かるわ」


 エルミナが微笑んだ。


「楽しみね」


 食事を終え、部屋に戻る。


「体を拭く水は、一階の浴室にあるわ。順番に使いましょう」


 セリアが説明した。


 簡単に体を拭き、ベッドに横になる。森の中で寝た昨夜とは違い、柔らかいベッドが体を包み込んでくれた。


「はあ……」


 あかねは天井を見つめながら、今日一日を振り返った。


 街に入った。ギルドで身分証明を取得した。宿に泊まった。


 でも、同時に知った。自分が危険な立場にいることを。


 異世界人を利用しようとする権力者がいること。


 首輪をつけられ、支配されるかもしれないこと。


 恐怖が込み上げてくる。


「あかね、大丈夫?」


 セリアが心配そうに尋ねてきた。


「少し……怖くて」


「無理もないわ。でも、安心して。私たちが守るから」


「ありがとう……」


「おやすみ、あかね」


「おやすみなさい、セリア」


 セリアはすぐに寝息を立て始めた。


 あかねも目を閉じたが、なかなか眠れなかった。


 様々な思いが頭を巡る。


 そして、ふと左手首に視線を向けた。


 その瞬間、息を呑んだ。


 そこには、小さな紋章が浮かび上がっていた。


 淡く光る、複雑な模様。幾何学的な線が絡み合い、中央には何かの文字のようなものが刻まれている。


「え……?」


 あかねは驚いて、紋章を見つめた。いつの間に? 今朝はなかったはず。


 でも、痛みはない。むしろ、温かい感覚がある。


 そっと指で触れてみる。すると、紋章がほんのり熱を帯びた。


「セリア……」


 起こそうとしたが、セリアは深い眠りについている。起こすのは可哀想だ。


 あかねは紋章をもう一度見つめた。


 これは何だろう。魔法の印? それとも……異世界人の証?


 考えれば考えるほど、分からなくなる。


 明日、エルミナに見せよう。魔法使いなら、何か分かるかもしれない。


 そう決めて、あかねはもう一度横になった。


 でも、紋章が気になって眠れない。


 時間が経つにつれ、宿は静かになっていった。一階の食堂からの賑やかな声も消え、廊下を歩く足音もなくなった。


 窓の外からは、夜警の足音が時々聞こえてくる。


 深夜。


 あかねがようやくうとうとし始めた時、それは起きた。


 左手首の紋章が、突然強く光り始めたのだ。


「えっ!?」


 驚いて起き上がる。紋章からの光が、部屋を青白く照らしている。


 そして、その光が壁に向かって伸びていった。


 まるで、プロジェクターのように。


 壁に、文字が浮かび上がった。


 見たこともない文字。古代文字のような、複雑な模様と線。


 でも――


 不思議なことに、あかねにはその意味が理解できた。


 文字を読んでいるというより、意味が直接脳に流れ込んでくるような感覚。


『進藤あかね』


 自分の名前が、古代文字で書かれている。


『あなたをこの世界に導いた存在より、メッセージを送ります』


 あかねの心臓が激しく鳴った。


 導いた存在? 誰? 神? それとも――


『まず、驚かせてしまったことをお詫びします。しかし、これは必要なことでした』


『あなたは、踏切で列車と衝突する寸前でした。そのままでは、命を落としていたでしょう』


 あかねは息を呑んだ。


 そうだ。自分は、死ぬところだった。


『私たちは、あなたを救うため、この世界に転移させました』


『そして同時に、あなたに使命を託します』


 使命?


『詳細は、まだ明かせません。時が来れば、あなた自身が理解するでしょう』


 あかねは壁に向かって声を出した。


「待って……なぜ、私なんですか? 私に何ができるっていうんですか?」


 でも、文字は答えることなく、次々と浮かび上がっていく。


『あなたには、その紋章を通じて、いくつかの能力を授けました』


『一つ目は、アイテムボックス。物品を異空間に保存できる能力です。紋章に意識を集中させることで、使用できます』


 アイテムボックス? ゲームで見たような……


『二つ目は、鑑定能力。物や人の情報を、ある程度読み取ることができます。対象に意識を向けることで、発動します』


『三つ目は、医学知識。あなたの母親が持っていた、医師としての知識と経験を、あなたに継承しました』


 母の……知識?


 あかねは驚愕した。母は優秀な医師だった。その知識が、自分の中に?


『四つ目は、聖魔法。病気や傷を癒す魔法です。この世界で最も尊ばれ、同時に最も希少な力の一つです』


 治癒魔法……


『ただし、これらの能力は、現時点では微弱です。あなたが成長し、経験を積み、理解を深めることで、より強大な力へと変化していきます』


『また、あなたが望み、努力し、困難に立ち向かえば、他の能力を獲得することも可能でしょう』


 文字の色が変わった。赤く、警告を示すように。


『しかし、重要な警告をします』


 あかねは息を呑んだ。


『この能力について、信用に足ると確信できる人物以外には、絶対に明かしてはなりません』


『この世界には、特殊能力を持つ者を利用しようとする者たちがいます。王家、上位貴族、暗黒組織……様々な勢力が、力を求めています』


『彼らに知られれば、あなたの自由は奪われ、道具として扱われるでしょう。最悪の場合、命を落とすこともあります』


 マリアの言葉が頭をよぎる。首輪。支配。奴隷。


 恐怖で体が震えた。


『能力を隠し、慎重に行動してください。信頼できる仲間を見極め、時が来るまで秘密を守り抜いてください』


「待って!」


 あかねは思わず声を上げていた。


「どうして……どうして私を、この世界に? 私に何をさせたいんですか? 教えてください!」


 でも、文字は答えることなく、徐々に薄れていった。


『それは、いずれあなた自身が知ることになります』


『今は、与えられた力を育ててください』


『仲間を見つけてください』


『そして――』


 最後の文字が、あかねの心に深く刻まれた。


『生き延びてください』


『この世界で、あなたには果たすべき役割があります』


『その時まで、どうか……生きて』


 光が消えた。


 部屋は再び暗闇に包まれた。


 あかねは呆然と、壁を見つめていた。


 手が震えている。呼吸が荒い。


 アイテムボックス。鑑定能力。医学知識。聖魔法。


 信じられないような能力を、与えられた。


 でも、なぜ? 何のために?


 そして、最後の言葉――『生き延びてください』。


 それは、これから危険が待ち受けているという意味。


 命の危険があるという意味。


 あかねは左手首の紋章を見つめた。もう光っていない。まるで、何事もなかったかのように。


 でも、確かに存在している。この小さな紋章が、自分の運命を変えた。


 試しに、紋章に意識を集中させてみた。


 すると――


 頭の中に、不思議な感覚が広がった。


 まるで、もう一つの空間が存在するような。無限に広がる、暗い空間。


 アイテムボックス。本当にあるのだ。


 次に、部屋の中を見回した。


 ベッド、テーブル、椅子、ランプ。


 それぞれに視線を向けると、情報が浮かび上がってきた。


『オーク材のベッド。製作から15年。状態:良好』


『パイン材のテーブル。製作から8年。状態:やや傷あり』


『鉄製のランプ。製作から3年。燃料:植物油』


 鑑定能力。これも本物だ。


 そして、自分の手を見つめた。


 すると、医学的な知識が頭に浮かんでくる。


 骨格。橈骨と尺骨。手根骨は八個。中手骨、指骨。筋肉。腱。血管。神経。


 母が何年もかけて学んできた知識が、自分の中にある。


 信じられない。


 聖魔法については、まだ使い方が分からない。でも、確かに何かが自分の中に宿っているのを感じる。


 あかねは深く息をついた。


 この能力は、秘密にしなければならない。


 でも、セリアたちには?


 彼女たちは命の恩人だ。優しくしてくれている。


 でも、まだ出会って二日しか経っていない。


 本当に、心から信頼できるだろうか?


 もし、能力のことを話して、それが漏れたら?


 王家や貴族に知られたら?


 首輪をつけられて、支配されたら?


 あかねは震えた。


 怖い。


 でも、この能力は自分を守るためのものでもある。


 マリアの言葉を思い出す。『もし、何か異変があったら、すぐに私に知らせて』。


 彼女は、何か知っているのだろうか。


 あかねは考えた。


 今は、秘密にしよう。


 セリアたちのことをもっと知り、本当に信頼できると確信できたら、その時に打ち明けよう。


 それまでは、慎重に。


 決心すると、少し心が落ち着いた。


 あかねは再びベッドに横になった。


 窓の外では、夜が明けようとしている。東の空が、僅かに白んできていた。


 新しい一日が始まる。


 新しい力を手に入れた、あかねの一日が。


 これから、どんな未来が待っているのだろう。


 不安もある。恐怖もある。


 でも、同時に、かすかな希望もあった。


 この力を使えば、誰かを助けられるかもしれない。


 母のように、人を救えるかもしれない。


 かつて不合格の掲示板の前で、私は「人を救う資格がない」と自分を否定した。


 けれど、この紋章が私を選んでくれたのなら、もう一度だけ、自分の可能性を信じてみたい。


 そのためには、生き延びなければならない。


 成長しなければならない。


 強くならなければならない。


 あかねは、静かに決意を固めた。


 そして、ようやく眠りについた。


 明日からの新しい生活に向けて。

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