第2話 「異世界の夜」
夕陽が森を茜色に染めていく。
あかねは焚き火の前に座り、炎の揺らぎをぼんやりと見つめていた。炎は、不規則に形を変えながら、薪を音を立てて燃やしていく。その音が、妙に心地よかった。
「お腹空いたでしょ?」
エルミナが、黒く煤けた鍋を火にかけながら声をかけてきた。中には、角切りの肉と、色とりどりの野菜が入っている。湯気と共に立ち上る香りが、あかねの空腹を刺激した。
「すみません……お世話になりっぱなしで」
「いいのよ。それより、見てて。魔法を使うから」
エルミナは杖を取り出し、鍋の上にかざした。杖の先端が淡く光り始める。
「『火よ、我が意志に従い、温もりを与えよ――フレイムコントロール』」
呪文を唱えると、焚き火の炎の一部が、まるで生き物のように鍋の底に集まった。炎の温度が上がったのか、鍋の中の煮込み料理がぐつぐつと音を立て始める。
「すごい……」
あかねは思わず身を乗り出した。
「これは中級魔法の一つ。炎を自在に操る魔法よ。料理にも、戦闘にも使える便利な魔法」
エルミナが得意げに微笑む。
「魔法って……本当にあるんですね」
「当たり前でしょ? あかねの世界にはないの?」
「ないです。魔法は、物語の中だけのものでした」
「へえ……それは不便ね」
リーナが薪を追加しながら、呆れたように言った。彼女は弓の手入れをしながら、時折森の方に視線を向けている。警戒を怠らない姿勢が、プロの冒険者らしい。
少し離れたところでは、セリアが剣を研いでいた。シャッ、シャッと、規則正しい音が響く。その手つきは熟練していて、まだ十七歳という年齢が信じられないほどだ。
「はい、できたわよ」
エルミナが木製の器に、シチューのような煮込み料理を盛ってくれた。湯気が立ち上り、食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。
「いただきます」
あかねは日本式の挨拶をしてから、木のスプーンで一口すくった。
温かい。野菜の甘みと、肉の旨味が口の中に広がる。ハーブのような香りもして、日本で食べたどの料理とも違う。でも、素朴で、心に染み入るような優しい味だった。
「美味しい……」
気づけば、涙が頬を伝っていた。
「あかね?」
セリアが驚いて駆け寄ってくる。
「ごめんなさい……なんでもないんです。ただ……」
あかねは慌てて涙を拭った。でも、涙は止まらなかった。
怖かった。不安だった。知らない世界に一人で放り出されて、魔物に襲われて、死ぬかもしれないと思った。
でも今、この温かい食事と、心配してくれる人たちがいる。それだけで、堰を切ったように感情が溢れてきた。
「辛かったのね」
エルミナが隣に座り、あかねの背中を優しく撫でた。
「異世界に一人で飛ばされて、言葉も通じるか分からなくて、魔物に襲われて。怖くて当然よ」
「でも、もう一人じゃないわ」
リーナが、いつもの少し皮肉っぽい口調ではなく、優しい声で言った。
「私たちがいる。だから、安心して」
セリアが、あかねの手を握った。その手は、剣を握り続けてきた硬い手だったが、温かかった。
「ありがとう……ございます」
四人で食事を終えると、焚き火を囲んで座った。
夜の森は、想像以上に暗かった。木々が星明かりを遮り、焚き火の光だけが唯一の光源だった。闇の中から、時折得体の知れない鳴き声が聞こえてくる。
「怖い?」
セリアが尋ねた。
「少し……」
「大丈夫。私が見張ってるから。それに、エルミナの結界魔法があるから、そう簡単には魔物は近づけない」
「結界魔法?」
「ええ。このキャンプの周囲に、魔法の壁を張ってあるの。小型の魔物なら近づくこともできないわ」
エルミナが説明した。
「すごい……魔法って、本当に便利なんですね」
「まあね。でも、万能じゃないわ。魔力には限界があるし、強力な魔物には通用しない」
「そういえば、あかね。日本って、どんな国なの?」
リーナが興味津々といった表情で身を乗り出した。
「えっと……魔法も魔物もいない世界です。でも、科学技術というものが発達していて……」
あかねは、できる限り説明しようとした。電車、自動車、電気、インターネット。
三人は、最初は理解できないという顔をしていたが、次第に驚きの表情に変わっていった。
「鉄の箱が、魔法なしで走るの?」
「はい。ガソリンという燃料を燃やして、その力で動くんです」
「信じられない……」
セリアが目を丸くしている。
「光の魔法なしで、夜でも明るくできる?」
「はい。電気という……えっと、雷のようなものを安全に使って、明かりにするんです」
「雷を? そんなこと可能なの?」
エルミナが、魔法使いとしての興味を隠さない。
「でも、不思議ね。魔法がないのに、魔法のようなことができる世界」
リーナが呟いた。
「逆に、こっちの世界のことも教えてください」
あかねがお願いすると、三人は顔を見合わせた。
「じゃあ、魔法の基礎から教えてあげる」
エルミナが杖を取り出した。
「魔法っていうのは、魔力を使って自然の力を操る技術なの。魔力は、すべての生物が持ってる生命エネルギー。でも、それを意識的に使えるのは、訓練を受けた者だけ」
「訓練……どんな?」
「まず、自分の中にある魔力を感じ取る練習。そして、それを体外に放出する練習。最後に、魔法の形に変換する練習」
「難しそう……」
「最初はね。私も、初めて火の魔法を使えるようになるまで、三年かかったわ」
エルミナが苦笑した。
「でも、一度コツを掴めば、後は応用よ」
エルミナが杖を振ると、先端から小さな炎が灯った。
「これは『火の灯』という初級魔法。一番簡単な魔法の一つ」
炎は、揺らぐことなく、一定の明るさを保っている。
「次に――」
エルミナが呪文を唱えると、炎が青く変化した。
「炎の色を変える。温度も変えられるわ」
さらに呪文を唱えると、炎が二つに分かれ、それぞれが独立して浮遊し始めた。
「形も、数も、自在に操れる。これが魔法よ」
「すごい……」
あかねは目を輝かせた。
「私にも、できるでしょうか」
「どうかしら。異世界人の魔力適性については、前例がないから分からないわ」
エルミナが首を傾げた。
「でも、試してみる価値はあるわね。明日、街に着いたら、魔力測定をしてみましょう」
「お願いします」
「ねえ、あかね」
セリアが、真剣な表情で尋ねてきた。
「元の世界に、戻りたい?」
あかねは言葉に詰まった。
戻りたいか。日本に。
父の厳格な顔。母の期待の眼差し。大学受験の失敗。自分を見る周囲の目。
「分からない……です」
正直に答えた。
「元の世界には、家族がいます。友達もいます。でも……」
あかねは、踏切での出来事を話した。大学受験の失敗。両親の期待。そして、失意のまま踏切に立ったこと。
三人は、黙って最後まで聞いていた。
「つまり、あなたは逃げたかったのね」
リーナが、ズバリと言った。
「リーナ!」
セリアが咎める。
「でも、事実でしょ。あかねは、元の世界から逃げたかった。期待から、プレッシャーから、失敗した自分から」
リーナの言葉は率直だったが、冷たくはなかった。
「逃げることは、悪いことじゃないわ。生き延びるために、時には逃げることも必要」
「リーナの言う通りよ」
エルミナが頷いた。
「人は完璧じゃない。失敗することもあるし、期待に応えられないこともある。それで自分を責める必要はないわ」
「この世界は、あかねにとって新しい始まり」
セリアがあかねの肩に手を置いた。
「過去に縛られる必要はない。ここでなら、あかねは自分の人生を生きられる。誰かの期待じゃなく、自分の意志で」
三人の言葉が、あかねの心に染み込んだ。
「自分の……意志で」
「そう。ここでは、あかねはあかね。進藤家の娘でも、受験生でもない。ただの、あかね」
エルミナの言葉に、あかねは何かが解けていくのを感じた。
ずっと、誰かの期待に応えるために生きてきた。自分が何をしたいのか、何になりたいのか、考えたこともなかった。
「私……何をすればいいんでしょう」
「焦る必要はないわ。まずは、この世界に慣れること。そして、ゆっくり考えればいい」
セリアが微笑んだ。
「私たちも、協力するわ。あかねが自分の道を見つけるまで」
リーナとエルミナも頷いた。
「ありがとう……」
あかねは、心の底から感謝した。
夜が更けていく。遠くで、魔物の遠吠えが聞こえる。でも、もう怖くはなかった。
「さて、そろそろ休みましょう。明日は早いから」
エルミナが立ち上がった。
「夜は私とセリアが交代で見張りをするわ。あかねは安心して休んで」
リーナが言った。
「あかね、一緒のテントで寝ましょう」
セリアが手を差し伸べた。
「はい」
テントの中は、二人で寝るのに十分な広さだった。地面には革のマットが敷かれ、その上に寝袋が二つ並んでいる。
「おやすみ、あかね」
「おやすみなさい、セリア」
セリアはすぐに寝息を立て始めた。冒険者として鍛えられた体は、どんな環境でも休息を取れるのだろう。
あかねは、すぐには眠れなかった。
今日一日で、人生が180度変わった。
昨日の朝は、ただの日本の高校生だった。受験に失敗して、絶望していた。
それが今は、異世界の森の中で、冒険者たちと一緒にいる。
不思議だった。まるで夢のよう。でも、これは現実。
耳を澄ますと、外で誰かが薪をくべる音がする。見張りのリーナだろう。
テントの布越しに、焚き火の光がゆらゆらと揺れている。
あかねは、自分の手を見つめた。
この手で、これから何をするんだろう。
魔法を使えるようになるのだろうか。
冒険者になるのだろうか。
それとも、別の道を見つけるのだろうか。
分からない。でも、それでいい気がした。
初めて、自分の人生を自分で決められる。
その可能性が、あかねの胸を高鳴らせた。
いつの間にか、あかねは眠りに落ちていた。
翌朝、小鳥のさえずりで目が覚めた。
テントの外から、三人の声と、朝食の準備をする音が聞こえる。
「おはよう、あかね。よく眠れた?」
外に出ると、エルミナが朝食の準備をしていた。簡素なパンと、干し肉、そしてハーブティーのような飲み物。
「はい……思ったより」
「良かった。さ、朝ごはん食べて、準備しましょう。今日は街まで歩くわ」
朝食を済ませ、キャンプの撤収が始まった。三人の手際の良さに、あかねは感心するばかりだった。
「あかねも手伝って。これ、丸めて袋に入れて」
リーナが寝袋を渡してくれた。あかねは不慣れな手つきで、なんとか丸めて袋に入れた。
準備が整い、四人は森を出る道を歩き始めた。
セリアが先頭を歩き、周囲を警戒している。リーナは後方を、エルミナはあかねと並んで中央を歩く。
「街まではどれくらいかかるんですか?」
「順調にいけば、昼過ぎには着くわ。途中、川を渡る場所があるから、そこで休憩しましょう」
エルミナが答えた。
森の中を進みながら、あかねは周囲を観察した。
巨大な木々。見たことのない鳥。青い毛並みの、尻尾が二本あるリスのような生物。赤い花を咲かせる、背の高い植物。
すべてが新鮮で、驚きの連続だった。
一時間ほど歩いたところで、リーナが手を上げた。
「止まって」
全員が立ち止まる。リーナは弓を構え、茂みの方を見ている。
「何かいるの?」
セリアが剣を抜いた。
「魔物……じゃないわね。でも、何か――」
その時、茂みから小さな生物が飛び出してきた。
白い毛並みの、ウサギのような生物。ただし、耳が三本ある。そして、額に小さな宝石のようなものが埋め込まれている。
「スリーイヤーラビット! 珍しい」
エルミナが驚きの声を上げた。
「幸運の象徴って言われてる魔獣よ。滅多に見られないわ」
小さな魔獣は、あかねの方をじっと見つめていた。まるで、何かを確かめるように。
そして、ぴょんと一度跳ねると、森の奥へと消えていった。
「今のって……」
「ええ。あかねを見に来たのかもしれないわね。異世界人に興味を持ったのかも」
セリアが微笑んだ。
「幸運の前兆よ。いいことがあるかもね」
リーナが弓を下ろした。
さらに進むこと一時間。川のせせらぎが聞こえてきた。
「着いたわ。ここで休憩しましょう」
セリアが立ち止まった。
目の前には、清流が流れていた。透明度が高く、底の石まではっきり見える。
「綺麗……」
あかねは川辺に近づいた。水に手を浸すと、冷たくて心地よい。
「この水、飲めるわよ」
エルミナが水筒に水を汲んでいる。
あかねも真似をして、手で水をすくい、口に含んだ。
冷たくて、甘い。日本の水道水とは全く違う、自然そのものの味だった。
休憩を終え、川を渡る。石が並べられていて、それを伝って向こう岸へ渡れるようになっている。
あかねは慎重に石を渡った。バランスを崩しそうになったが、セリアが手を差し伸べてくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
川を渡り、さらに一時間ほど歩くと、ようやく森の出口が見えてきた。
木々が途切れ、開けた平原が広がる。そして、遠くに街の姿が見えた。
「あれが、フィルダの街よ」
セリアが指差した。
石造りの城壁に囲まれた、中世ヨーロッパ風の街並み。中央には教会の尖塔が空に向かって伸びている。城壁の上には、衛兵の姿も見える。
「すごい……」
あかねは、本物の中世の街を見ているような感覚に陥った。
「人口は三千人くらい。この辺りでは大きな街よ」
リーナが説明した。
「冒険者ギルドも、教会も、市場もある。生活するのに困らないわ」
「さあ、行きましょう」
エルミナが歩き出した。
「あかねの新しい生活が、本当に始まるわよ」
四人は、フィルダの街へと向かって歩き出した。
平原の風が、あかねの髪を優しく撫でていく。
この先、どんな未来が待っているのだろう。
不安もある。でも、期待もある。
そして何より、一緒に歩いてくれる仲間がいる。
あかねは、初めて心から笑顔になれた気がした。
新しい世界での、新しい人生。
それが、今、始まろうとしていた。
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