第1話 「消失の朝」
桜の花びらが、まるで誰かの涙のように舞い散っていた。
進藤あかねは、大学の合格発表掲示板の前で、ただ立ち尽くしていた。目の前には、整然と並んだ合格者の受験番号。何度数えても、何度確認しても、そこに「4523」という数字はない。
周囲で上がる歓声が、耳をつんざく。飛び跳ねて喜ぶ受験生。抱き合って泣く親子。その光景が、あかねの目には別世界のように映った。
胸が締め付けられる。息が苦しい。
「あかね、どうだった?」
友人の声が遠くから聞こえた気がしたが、あかねは何も答えられず、その場から逃げ出すように歩き出した。
駅へ向かう道すがら、スマートフォンが何度も振動する。父から。母から。応答する気力も、言葉を探す気力も湧かない。
三年間。高校生活のすべてを受験勉強に捧げた。友達と遊ぶ時間も、趣味に費やす時間も、すべて犠牲にして、机に向かい続けた。
父は警察官として厳格で、「社会に貢献できる人間になれ」が口癖だった。母は医師として多忙な中、「あなたも医者になれば、多くの人を救える」と期待の眼差しを向けてきた。
その期待に応えられなかった。
自分は何のために生きてきたのだろう。
電車に揺られながら、あかねの思考は堂々巡りを続けた。窓の外を流れる景色が、自分の人生のように思えた。必死に追いかけても、決して届かない何か。
最寄り駅で降りる。自宅まではいつもの道。でも、今日はその道が、まるで刑場への道のように感じられた。
やがて見えてきた踏切。
カンカンカンと、警報音が鳴り響く。
遮断機が降り始める。いつもなら当然のように止まる場所。
もし、すべてをリセットできたら。
そんな思いが、あかねの心を支配していた。
気づけば、遮断機のすぐ前まで来ていた。
赤い警告灯が滲んで見える。
一歩でも前に出れば、きっと何かが終わる。
それでも、胸の奥では、誰かに止めてほしいと願っていた。
遠くから列車の汽笛。そして、電車の振動。
足がすくんだ。前に出ることも、逃げることもできなかった。
意識が遠のく中、ふと、幼い頃に握った母の手の感覚が蘇った。
病院の廊下で、急患を救い終えたばかりの母の手は、ひどく汗ばんでいたけれど、ストーブのように熱かった。
「あかね、命を救うっていうのはね、その人の明日を繋ぐことなのよ」
あの時、母が誇らしげに語った言葉が、なぜか今、冷え切った私の心を掠めていった。
次の瞬間、視界は真っ白な光に塗りつぶされた。
列車のヘッドライトではない。もっと柔らかく、それでいて圧倒的な光。体が浮き上がるような感覚。時間が止まったような静寂。
そして、闇。
小鳥のさえずりで目覚めた。
あかねは目を開けた。見えたのは、木々の葉の間から差し込む陽光。
ゆっくりと体を起こす。ここは――森?
見渡す限り、巨大な樹木が立ち並んでいる。その大きさは、日本で見たどの木よりも遥かに大きい。幹の太さは三メートルはあろうか。葉の色も、見慣れた緑とは微妙に違う、やや青みがかった緑。
空気が違う。湿度、温度、匂い。すべてが異質。
「……夢?」
頬を抓る。痛い。これは現実。
では、あの踏切は? 列車は?
記憶を辿ろうとした時、背後で何かが動く気配がした。
振り返る。
いた。
それは、あかねが今まで見たどの生物とも違っていた。体長は二メートル以上。黒い毛皮に覆われた四足獣。頭部は狼のようだが、体格は熊のように筋骨隆々としている。そして何より異常なのは、その瞳だった。血のように赤く光る目が、明確な殺意を宿してあかねを見据えている。
喉から、呼吸音にならない音が漏れた。
足が、動かない。
頭では「逃げなければ」と理解しているのに、体が言うことを聞かない。
魔物――そう呼ぶべき存在は、低く唸りながらゆっくりと近づいてくる。地を蹴る準備をしているのが分かる。次の瞬間、飛びかかってくる。
死ぬ。
そう確信した刹那。
「伏せなさい! 今すぐ!」
凛とした、しかし切迫した女性の声が森に響いた。
あかねの体が、声に反応して地面に倒れ込んだ。直後、頭上を銀色の何かが通過する。金属音。魔物の断末魔。地響き。
恐る恐る顔を上げると、目の前に魔物の巨体が横たわっていた。首から大量の血が流れ出ている。
「立てる? 怪我はない?」
声のした方を見ると、一人の少女が立っていた。
あかねと同年代くらいだろうか。いや、少し若いかもしれない。長い黒髪を一つに束ね、革製の軽装鎧を身につけている。右手の剣からは、まだ血が滴っている。左手には盾。
その顔には、戦士としての凛々しさと、同時に年相応の少女らしい心配の色が混在していた。
「だ、大丈夫……です」
あかねは震える声でそう答えた。少女が差し出した手を取り、立ち上がる。膝が笑っている。
「本当に良かった……もう少し遅かったら」
少女は心底ホッとした様子で、胸に手を当てた。
「あの、助けて、くださって……ありがとう、ございます」
やっとの思いでそう言うと、少女は首を横に振った。
「礼なんていいわ。それより……あなた、一体何してたの? こんな森の中で、しかもそんな……」
少女の視線が、あかねの制服に向けられる。
「見たことない服装ね。魔物除けの護符も、武器も持ってない。まさか、この森がどんな場所か知らずに迷い込んだの?」
「えっと……その……」
どう説明すればいいのか。そもそも、自分でも状況が理解できていない。
「まあいいわ。とにかく、ここは危険すぎる。私のキャンプまで来て。そこで話を聞かせて」
少女はあかねの手を取り、歩き出した。あかねは引かれるまま、ついていく。
歩きながら、あかねは周囲を観察した。木々の間を縫うように続く獣道。時折聞こえる、得体の知れない生物の鳴き声。明らかに日本の森ではない。
「あの……ここは、どこなんですか?」
「ここ? エルドランド王国の北部にある、黒森よ。魔物の巣窟として有名な場所」
「エルドランド……王国?」
「ええ。もしかして、記憶喪失? 頭、打った?」
少女が心配そうに振り返る。
「いえ、そうじゃなくて……」
どう説明すべきか迷っていると、やがて木々が開け、小さな空間に出た。
そこには焚き火の跡と、三つのテントが張られていた。そして、二人の女性がいた。
「セリア! 遅かったじゃない。魔物の動きが活発だから心配したわよ」
金髪のショートカットで、弓を背負った女性が声をかけた。年は二十代前半に見える。
「ごめん、リーナ。でもほら、この子を助けてたの」
セリアと呼ばれた剣士の少女が、あかねを示した。
「まあ、客人? 珍しい」
もう一人、赤い長髪の女性が、杖を持ってこちらを見た。こちらも二十代前半くらいか。
「それにしても……変わった服装ね。どこの国の民族衣装かしら」
リーナがあかねの制服をじろじろ見る。
「取り敢えず、座って。まずは落ち着きましょう」
赤髪の女性――エルミナが、丸太を切った簡易的な椅子を勧めてくれた。
あかねは座り、三人の冒険者に囲まれる形になった。
「まず、自己紹介するわね。私はセリア・ブライトブレード。剣士で、このパーティのリーダー。十七歳よ」
「リーナ・ウィンドウォーカー。弓使いで斥候担当。二十一歳」
「エルミナ・フレイムハート。魔法使いで、このパーティの頭脳役。二十三歳よ」
三人が順番に名乗った。
「私は……進藤あかね、です。十八歳……」
「シンドウ……変わった名字ね」
セリアが首を傾げる。
「で、あかね。あなた、一体どこから来たの? その服装、絶対にこの辺りのものじゃないわ」
リーナの鋭い視線があかねに向けられる。
あかねは深呼吸をした。正直に話すしかない。
「私、日本という国から来ました。でも……どうやってここに来たのか、自分でも分からないんです。気が付いたら、この森にいて……」
三人は顔を見合わせた。
「日本? そんな国、地図にもないわ」
「もしかして……異世界人?」
エルミナが、驚きと興味が入り混じった表情で呟いた。
「異世界人って……」
「伝説よ。別の世界から、何らかの理由で召喚される人がいるって。でも、都市伝説だと思ってたわ」
セリアが腕を組んで、真剣な表情であかねを見つめる。
「本当に……そんなことが」
リーナも信じられないという顔をしている。
「あかね、覚えてる? ここに来る直前のこと」
エルミナが優しく尋ねてきた。
あかねは、踏切での出来事を思い出す。大学受験の失敗。失意。そして、あの光。
「踏切で……電車が来てて……そうしたら、急に光に包まれて……」
「召喚の光ね。間違いないわ」
エルミナが頷いた。
「でも、なぜ? 誰が? 何の目的で?」
セリアが疑問を口にする。
「それは分からないわ。異世界召喚の記録は古文書にしかないし、詳細な理由は記されていない。ただ……」
エルミナが言葉を切った。
「ただ?」
「召喚される人には、必ず理由があるって。この世界が、その人を必要としているから」
エルミナの言葉に、あかねは戸惑った。
自分を必要としている? 大学にも受からなかった、期待に応えられなかった自分を?
「とにかく、今は状況を整理しましょう。あかねは異世界から来た。ここはエルドランド王国。魔法も魔物も存在する世界」
セリアが冷静に状況を説明する。
「私たちは冒険者よ。依頼を受けて、魔物退治や物資の運搬、人の護衛なんかをしてる。今は、この森の魔物を討伐する依頼を受けてるの」
「冒険者……」
あかねの頭は混乱していたが、同時に不思議な感覚もあった。
恐怖はある。不安もある。でも、どこか……心が軽くなったような。
もう、期待に応える必要はない。ここには、両親もいない。日本での失敗も、ここでは無意味だ。
「あかね、これからどうする?」
リーナが現実的な質問を投げかけた。
「私たちは明日、この森を出て街に戻る予定なんだけど」
「私も……一緒に、行っていいですか?」
あかねは三人を見つめた。
「もちろんよ。一人でここに置いていくわけにはいかないもの」
セリアが微笑んだ。初めて見せた、少女らしい笑顔だった。
「ありがとう、ございます」
あかねは深く頭を下げた。
こうして、進藤あかねの異世界での生活が幕を開けた。
なぜ、自分がこの世界に召喚されたのか。
その答えは、まだ分からない。
しかし、あかねは知る由もなかった。
自分の運命が、この世界の存亡に関わる、壮大な物語の序章に過ぎないことを。
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