後日談 王子side
あの舞踏会から、どれほど経ったのだろう。
王宮は以前にも増して静まり返っていた。
王宮らしい見た目の華やかさは変わっていない。
けれど活気がなく、どこか空虚だった。
「ヴィクトル様、お加減はいかがですか?」
柔らかな声が、寝台の傍らで響く。
小さな手が、ヴィクトルの頬に触れた。
「ミリエル。ああ、問題ないよ」
ヴィクトルは微笑む。
その笑みは、どこかぼんやりとしていた。
ここ最近、体が重い。
思考が霞むのだ。
だが、それすらも気付くと気にならなくなっている。
目の前にいる彼女が、柔らかくすべてを包み込み、満たしてくれるからだろう。
「ヴィクトル様…無理をなさらないでくださいね」
ミリエルは心配そうに、形の良い眉を下げる。
「…ああ、君がいれば、大丈夫だ」
ヴィクトルはそう言って、愛する人のその手を取った。
細く、白い指。
ひどく冷たいはずなのに、触れていると不思議と心地よい。
「安心してお休みになって。私が一生、お側におりますわ」
眠りにつく中で、彼女のどこか、楽しそうな声が聞こえた。
それが、どこかおかしいと――
かつての彼なら、気づけたのかもしれない。
***
ヴィクトルが、帰国した王と王妃にミリエルを最愛に選んだことを報告した時、彼らはそれを咎めなかった。
不自然なことを、不自然だと言う人はいなかった。
異変は急速に広がっていった。
王は病に伏せた。
王妃は突然、心を病んだ。
側近たちは次々と辞職し、あるいは姿を消した。
それでも王宮は回っている。
いや――回されている。
何故かなど、考える者はいない。
「殿下、本日のご決裁を」
「ああ…」
渡された書類に目を通す。
だが、文字が頭に入らない。
代わりに浮かぶのは、あの少女の笑顔。
「お疲れでしょう?」
気づけば、彼女はすぐ傍にいる。
ミリエルは、いつもそうだ。
音もなく、気配もなく、隣にいる。
「少し、お休みになりませんか?」
「…そうだな」
促されるままに、椅子に身を預ける。
瞼が重い。
意識が沈む。
――そのとき。
ふと、頭の奥に何かが引っかかった。
海。
風。
潮の香り。
――“ヴィクトル殿下”
静かな声。
感情を抑えた、あの声。
幼い頃、自分をあんなにも慕ってくれていた少女。
大人に近づくにつれ、貴族らしい振る舞いを覚え、完璧に近付いていく彼女に、距離感を覚えた。
彼女よりも、ミリエルに惹かれるようになったのは、何故だっただろうか。
「…アリアーナ…」
思わず、名前が零れる。
その一瞬だった。
「まあ」
すぐそばから聞こえたミリエルの声は、いつもと違った。
柔らかさの奥に、何か別のものが滲んで聞こえた。
「あらあら…まだ、残っていたのですね」
その言葉に、ヴィクトルは顔を上げた。
「…?」
――違う。
目の前の少女が、何か、違って見える。
いや、違っていたのは最初からなのか。
「ミリエル……?」
「ええ、わたくしです」
にこり、と笑う。
だが、その瞳は。
底の見えない、暗い深淵。
「ねえ、殿下」
ミリエルが一歩、近づく。
「どうして、あの方を手放してしまったのですか?」
「…え?」
「もったいないことをなさいました」
くすくす、と笑う。
その声は、もう“少女”のものではない。
「あなたのことを想って守ってくれるのは、あのお姫様だけでしたのに」
ぞくり、と背筋が凍る。
「なにを、言って」
「まあ、私としては邪魔者がいなくなって、やりやすくなりましたから、大満足だけれど」
ミリエルは首を傾げる。
愛らしく。
残酷に。
「本当は、もう少し後にいただこうと思っていたのだけど…。もう頃合いかしら」
その瞬間。
世界が、歪んだ。
足元が崩れるような感覚。
空気が重く、粘ついていく。
息が、できない。
「…っ、ミリエル…?一体、どうしたんだ…!」
手を伸ばす。
だが、届かない。
彼女の輪郭が揺らぎ、うねる。
金色の髪が、黒く変化する。
輝いて見えていた瞳が、深い海の底のような色に変わる。
その姿は――
“人ではない何か”。
「気づくのが遅すぎましたね、王子様」
ミリエルだと思っていたものが、甘く、優しく囁く。
「大丈夫」
その手が、胸に触れる。
そして、頬に触れる。
――とても、冷たい。
氷のように。
いや、それ以上に。
生命を拒絶する冷たさだ。
「大丈夫。すぐに楽になりますからね」
(…アリアーナ…)
冷たい手に撫ぜられながら、最後に浮かんだのは、その名だった。
なぜ、あのとき手を離してしまったのか。
なぜ、気づかなかったのか。
なぜ――
すべてが、遅い。
ずるり、と。
身体の中から、何かが引き抜かれる。
痛みはなかった。
ただ、空っぽになった。
「いただきます」
彼女は笑った。
その口元には、歪んだ満足が浮かんでいる。
ヴィクトルの身体が、崩れ落ちた。
その瞳は、もう何も映さない。




