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後編 さようなら

 夜の海は、静かだった。


 波の音だけが、世界を満たしている。


「…ここまででよろしいでしょうか」


 セドリックが灯りを掲げる。


「ええ。ありがとう」


 靴を脱ぎ、砂浜に降りた。

 冷たい砂の感触が懐かしい。


 胸の奥が、わずかに疼く。


「後悔はございませんか」


 問われて、少しだけ考える。

 そして。


「いいえ」


 はっきりと答えた。


「もう、終わったことよ」


 後悔がないと答えたのは、嘘ではない。


 ただ――あの気持ちが、完全に消えたわけではないだけ。

 まだ、ほんの少しだけ残っている。


 あの海辺の記憶が。

 彼の笑顔が。

 優しい声が。



 

***


 

 アリアーナは、海の国から来た人魚である。

 それも、海の王の娘であった。

 細かく言うと第三王女にあたる。上に姉が2人、兄が4人もいたので、割と自由な立場だったと思う。


 アリアーナが初めてヴィクトルと出会ったのは、5歳の頃、とある海辺の岩場だった。


 ヴィクトルが護衛とはぐれ、迷子になっていたところを、偶然海上に遊びに来ていたアリアーナが見つけた。

 心細くて泣いている綺麗な男の子を見つけて、放っておけなかった。

 そして思わず声をかけた。


「どうしたの?」


「!?…だれ?」


 アリアーナは海から顔だけを出していたので、人魚とはばれていない。


 急に声をかけられたヴィクトルは、アリアーナを見て最初ぎょっとしたが、こちらを心配そうに見る綺麗な青い瞳に心を奪われた。


 二人は互いに見つめ合い、強く心惹かれた。


「殿下!どちらにいらっしゃいますか!」


「「!」」


 だが、すぐに護衛が王子を探しに現れたので、その場は別れることとなった。


 

 それからアリアーナは、あの王子様のことが忘れられなかった。

 そこで幼いながら、父である海の王に懇願した。


「お父さま、わたし、どうしてもあの王子さまのおよめさんになりたいのです!」


 父王は渋々であったが、人魚であることを秘密にすることを条件に、可愛い娘の心からの願いを許した。




***



 王子のために過ごした日々。


 セドリックとともに陸に上がり、エーデルハイト公爵家に養子として預けられたアリアーナは、努力した。


 まず、二本足で上品に歩けるようになるまでに苦労した。

 鰭で水の中を泳ぐのとは、筋肉の使い方が全く違うのだ。


 加えて、礼儀作法や読書、舞踏、馬術、政治の基礎を次々と教え込まれた。

 まだ幼いとはいえ、そもそもの生まれ育った文化が違うので、知識を叩き込む必要があった。


 だがそれも、大好きな王子の婚約者として選ばれるため、立派な令嬢となるための準備に過ぎない。


 また、アリアーナは内面だけでなく、外見も磨き込んでいった。


 そうして無事に王子と再会し、婚約者に選ばれてからも、努力し続けてきた。


 王子妃となるための教育は、言わずもがな、さらに厳格だった。




 あの時、大好きな人のために強くなると決め、頑張った自分を誇らしく思う。


 だが、今は違う。

 王子に自分を認めてもらえなくても、もういい。


 溶けない氷のように残った、この冷たく苦しいだけの恋心も、もういらない。



「…では」


 セドリックが一歩下がり、砂浜の上で礼をとる。


「あらためまして、姫様。お供いたします」


「ええ。一緒に帰りましょう」


 私は、海へ足を踏み入れる。


 水が、足首を包む。

 その瞬間――

 魔法が、ほどけ始めた。


 人魚が人の形を保つための魔法。


 良き魔女が与えてくれた、優しい制約。

 その代償は、ただひとつ。


 ――恋心。


「…さようなら」


 誰に向けた言葉か、自分でもわからない。


 ただ、静かに告げる。



 胸の奥が、光る。


 そして。


 すっと、それは消えた。


 苦しみ。

 執着。

 切なさ。


 微かに残っていた暖かい記憶の名残りまで、すべてが、波にさらわれるように消えていく。


「…ああ…」


 思わず、声が漏れた。

 意図せず涙が溢れ出た。


 こんなにも、あっけなく。


 こんなにも、きれいに。


 ――消えるのね。



 アリアーナの足が、尾へと変わる。


 鱗が光る。


 水が、肌に馴染む。


 ああ、懐かしい。

 帰ってきたのだと、ようやく実感する。


「おかえりなさいませ」


 セドリックもまた、人の姿を捨てる。


 穏やかな海の気配が広がる。


「ただいま」


 私は微笑む。


 もう、涙は出ない。


 悲しみもない。


 ただ、静かな安堵だけがある。


 


 そのとき。


 遠く、陸の方から。


 ――悲鳴が響いた。

 


「…始まったのね」


 私は振り返らない。

 もう、関係のない世界だ。


 けれど、わかる。

 "彼女”が、動き出したのだろう。


 王子。

 そして王族。

 国。


 すべてを飲み込む、暗い海のような魔力。


 きっと彼は、最後まで気づかない。


「大丈夫ですか、姫様」

「ええ」


 私は迷わない。


「私はもう、あの人を愛していないもの」


 それがすべてだった。


 愛がないのなら、理由もない。

 守る義務もない。

 犠牲になる必要もない。


 これからは、新しい日々を自分のために生きていく。



 人魚姫が海へ帰ったその背後で、一つの王国が静かに沈み始めていた。




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