前編 舞踏会の夜
初投稿です。
春の舞踏会。
高い天井から吊るされたシャンデリアが煌めき、磨き上げられた大理石の床に光が反射する。
華やかな衣装の貴族たちが集まり、音楽に合わせて優雅に踊っていた。
今夜の舞踏会は、王子が自ら主催したものだった。
アルトリウス王国の第一王子、ヴィクトル・フォン・アルトリウス。
本来なら国王と王妃が主催する舞踏会だが、現在二人は海洋貿易の交渉のため、国外に出ている。
そのため、王子が代理として社交の場を開いたのだ。
集められた貴族たちは今回の催しを、ヴィクトルが将来の王として社交界に立つための第一歩と受け止めていた。
「皆、聞いてくれ」
ヴィクトルの声が広間に響き、楽団の演奏が止まった。
皆の視線が、一斉にヴィクトルの方へ向く。
ヴィクトルは一歩前へ出ると、よく通る声で、はっきりと言った。
「アリアーナ・エーデルハイト。私は、君との婚約を解消する」
静まり返る空気の中、彼の声がはっきりと響いた。
悪い予感は、あった。
ここ一年、殿下は私を見なくなっていたから。
アリアーナは誰にも気付かれないよう静かに息を吐いた。
そして、前に進み出る。
「…理由を、お聞かせいただけますか」
いつも通り、静かに問い返す。
感情を表に出さないように。王妃教育で叩き込まれた通りに。
殿下は一瞬だけ視線を逸らし、それから――隣に立つ少女の手を取った。
「私は、ミリエルを愛している」
少女が驚いたように目を見張り、頬を染める。
ミリエル・オーブリー子爵令嬢。
小柄な体に、陽の光を溶かしたような金の髪。
「…ヴィクトル様…!でも、わたくし…」
「大丈夫だ」
彼女は遠慮がちに、しかし確かに殿下の腕へ身を寄せた。
守ってあげたくなる仕草。
震える指先。
潤んだ瞳。
――完璧だ。
社交界の誰もが、彼女を“可憐”と呼ぶ理由がわかる。
「アリアーナ様のような立派な方に、わたくしなど叶うはずがございません。…でも、そのように仰っていただけるなんて」
嬉しい、と言いながら、ほんのわずかにこちらを見る。
その瞬間――
ぞくり、とした。
あの目。
彼女の目が、こちらを見た一瞬だけ、深い海の底のような暗い色に沈んだ気がした。
…気のせい、ではない。
私は知っている。
あれは、人の気配ではない。
「そんなことはない。君は素晴らしい人だよ」
ヴィクトルは、ミリエルの手を優しく取った。
「君と話しているととても楽しい。世界が輝いて見えるんだ。こんな気持ちは初めてだ」
ヴィクトルは真剣な眼差しで続けた。
「ミリエル。君のことを守りたい。私は君を心から愛してしまった」
「ああ、ヴィクトル様…!でも、だけど、やはり子爵令嬢でしかない私なんて……」
ミリエルは頬を桃色に染めて、それでも溢れる気持ちを押し込め、いけないというように小さく首を振る。
その姿はあまりにも健気だった。
ヴィクトルはミリエルの手をしっかりと握り直して、言った。
「心配するな。身分を気にしているなら、問題ない。伴侶は自分で決めて良いと、父上と母上には言われている」
ヴィクトルは、アリアーナに向かい直し、はっきりと告げた。
「アリアーナは優秀だ。だが…冷たい」
殿下の言葉が続く。
「私は、心の通う相手を選びたい」
その一言で、周囲の空気が決まった。
――ああ、そう。
私は“冷たい婚約者”なのだ。
否定はしない。
事実だから。
「…承知いたしました」
私は微笑む。
いつも通り、完璧に。
「殿下のご意思、尊重いたします」
一瞬、殿下の表情が揺れた。
けれど、それもすぐに消える。
代わりにミリエルが、そっと袖を引いた。
「ああ、ミリエル。すまない」
その瞬間、殿下の顔が柔らかくなる。
――まるで、別人のように。
胸の奥が、静かに冷えた。
(…ああ、終わったのね)
私は、ようやく理解する。
あの海辺で出会った初恋の少年は、もうここにはいない。
護衛とはぐれ、泣きそうになっていた王子。
小さな頃、私の話すこと何でも、嬉しそうに笑って聞いてくれたあの人は。
――もう、いない。
「失礼いたします」
私は一礼し、踵を返した。
誰も止めない。
誰も、私を必要としない。
それでいい。
***
アリアーナは、白銀のような髪に、深い青色の瞳を持つ。
その冷たい色味の容姿と、口数が少なく常に冷静な振る舞いで、いつしかこう噂されるようになっていた。
――氷のように冷たい令嬢。
未来の王妃として、人の心に寄り添う資質に欠けるのでは、とも。
しかし、彼女がそのように振る舞っている理由を知る者は、ほとんどいない。
アリアーナがまだヴィクトルと婚約して間もない頃、王妃に厳しく言われたのだ。
――あなたは将来、王妃となるのですから。
――王子より目立ってはいけません。
――王子が話すときは静かに聞きなさい。
ーー余計なことは言ってはいけません。
王子を立てること、それが婚約者の役目だと。
それ以来アリアーナは、必要以上に口を開かず、最低限のこと以外は話さないようにしてきた。
王子の隣に立つ者として。
王子を支える者として。
王子のためだけに。
だがその努力は、周囲には誤解されて伝わっていた。
***
「お嬢様」
控室に戻ると、侍従のセドリックが静かに頭を下げた。
「お疲れ様でございました」
「…聞いていたのね」
「はい。すべて」
彼はいつも通りだ。
乱れない敬語。隙のない立ち姿。
けれど、その瞳は、今日は一段と鋭い。
「お嬢様。"彼女"について、いかが思われますか」
「…異質ね」
即答だった。
「人ではない“何か”の気配がするわ」
セドリックが、静かに頷く。
「やはり」
「あなたも気づいていたの?」
「はい。あの方の周囲だけ、嵐に海が淀むような…感覚がございます」
海。
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。
「…殿下は、今まで私が何度諭してもだめだった。ご自分では、もう気がつくことはないでしょうね」
「ええ。おそらくあの様子では」
セドリックは続ける。
「あれは、悪い魔法…魅了の類でしょう」
やはり、そうか。
納得してしまう自分がいる。
あまりにも不自然だった。
彼は変わったのではなく、歪められたのか。
「…助けますか?」
静かだが、試すような問い。
私は、目を閉じる。
――助ける。
その言葉に、かつてなら迷いはなかった。
けれど今は。
「いいえ」
ゆっくりと首を振る。
「もう、私の役目ではないわ。もう決めたの」
冷たいわよね、と自嘲する私に、セドリックは何も言わない。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「かしこまりました」
「責めないのかしら」
「そのようなこと、あるはずがございません。お嬢様の御心のままに」
大袈裟ね、と言うと、セドリックは笑った。
「セドリック。帰る準備をするわ」
「――海へ、ですか」
「ええ」
私は窓の外を見る。
遠くに聞こえる、夜の海の波の音。
「もう、ここにいる理由はないもの」
あれほど執着していたはずの想いが、決意と共に砂のようにこぼれていく。
帰りの馬車に乗り込もうとした、そのときだった。
ふと、背筋が粟立った。
視線を感じて振り返る。
廊下の奥。
誰もいないはずの暗がりの中で――
ミリエルが、そこに立っていた。
彼女は、にこり、と笑った。
あの可憐な笑顔で。
けれど、その目だけは笑っていなかった。
唇が、わずかに動く。
声は、聞こえない。
けれど確かに、そう言った。
――“さようなら”と。
「!」
ぞくり、と背筋が冷える。
こちらが彼女の異質さに気付いていたように、もしかして彼女も、アリアーナ達が何者かを知っていたのだろうか。
けれど、もう私は振り返らなかった。
もう、選んだから。
未練を捨て、人としてではなく――
海の娘として、生きることを。




