第6話:今さら戻れと言われても、もう遅いです
レナード王太子が池に放り込まれてから数日後。
今度はラングリス王国の国王自らが、泥にまみれた書状を届けてきました。
『どうかエルナ嬢を返してほしい。報酬は望むままだ。このままでは我が国は瘴気に飲み込まれ、地図から消えてしまう』
ジークハルト陛下はその手紙を一瞥し、エルナの前でバラバラに引き裂きました。
「エルナ、どうしたい? 君が戻りたいと言うなら、私は止められないが……その代わり、私も軍を率いて君の隣に引っ越すつもりだ」
「陛下、それはお引越しではなく侵攻と言いますわ……」
苦笑いしながら、エルナは窓の外を眺めました。
かつては「地味で無能」と蔑まれ、狭い物置部屋で雑巾を絞っていた日々。あの日、自分が磨いていたのは確かにただの床でした。でも、彼女が磨くのをやめた途端に国が滅びかけているという事実は、残酷なまでに彼女の「正体」を証明していました。
「私、ようやく気づいたんです。私が掃除をしていたのは、誰かに命令されたからではなくて……。大好きな場所を、大好きな人のために、綺麗に保ちたかっただけなんだって」
エルナはジークハルトの手を、自分の両手で包み込みました。
かつて呪いで黒ずんでいたその手は、今や力強く、温かい。
「ラングリス王国には、もう私の守りたいものは何もありません。……あそこの汚れは、あの方たちが自分たちで生み出したもの。私が拭き取ってあげる義理はありませんわ」
そこへ、再びレナードがボロボロの姿で現れました。騎士たちに押さえつけられながら、彼は必死に叫びます。
「エルナ! 頼む、戻ってくれ! あの可憐だった令嬢も、実は性格が真っ黒で、城の中をさらに散らかして逃げていったんだ! お前しかいないんだ、あの城を綺麗にできるのは!」
エルナは冷ややかな、けれどどこか慈悲深い目で彼を見つめました。
「殿下。今さら戻れと言われても、もう遅いです。……私のバケツは、もうこの国を浄化するためにしか使いません」
「そんな……! 見捨てるのか!? 私を見捨てるのか!」
「見捨てたのは、殿下の方ですわ。掃除を『下働きの無能な仕事』だと笑った時に、あなたは自らの救いを捨てたのです」
ジークハルト陛下が冷たく合図を出すと、レナードは引きずり出されていきました。
「よく言った、エルナ。……さあ、あんなゴミのことは忘れて、次の『掃除』の相談をしよう。私たちの結婚式の準備だ。この国中を、世界で一番美しく磨き上げなくてはならないからね」
エルナの頬が、幸福に染まりました。
彼女の持つ「浄化」の力は、今や一国の呪いだけでなく、彼女自身の未来をも輝かせ始めていました。




