第2話:一晩磨いたら、死の呪いが消えていた件について
「よし、あらかた片付きましたわね」
窓から差し込む朝日に、エルナは満足げに汗を拭いました。
昨夜、足を踏み入れた時の寝室は、怨念が形を成したような黒い泥――「瘴気」で埋め尽くされていました。けれど、エルナが雑巾でキュッキュと磨き上げると、その泥は嘘のように消え、下から美しい大理石の床が顔を出したのです。
エルナは仕上げに、ベッドの周りを漂っていた「黒いもや」をパチンと手で払いました。
「ふふ、これで空気も綺麗になったわ。あとは……あ、陛下のお顔も少し汚れているかしら?」
エルナは湿らせた清潔な布で、ベッドに横たわる皇帝の頬を優しく拭いました。
すると、顔を覆っていた不気味な黒い紋様が、消しゴムで消したようにスルリと落ちていきます。
「う、……ん……」
その時、数年間眠りについていた帝国の太陽、ジークハルト皇帝がゆっくりと目を開けました。
「……光が、見える。……身体が、軽い……?」
ジークハルトは困惑したように上体を起こしました。
自分の身体を縛り、骨を焼くようだった「死の呪い」が跡形もありません。それどころか、視界に入る部屋は、かつてないほどキラキラと輝いています。
「……君は、誰だ? 夢の使者か?」
「あ、おはようございます陛下。お騒がせしてすみません。隣国から参りました、掃除好きのエルナと申します。あまりに埃っぽかったので、つい夢中で掃除をしてしまいました」
ジークハルトは驚愕しました。
大陸中の高名な聖女や魔術師が束になっても解けなかった「絶望の呪い」を、この少女は「掃除」の一言で片付けたというのか。
ジークハルトは鏡に映った自分の姿を見て、さらに息を呑みました。
呪いで醜く爛れていたはずの肌は、赤子のように滑らかになり、瞳には力が漲っています。
「君が……私を救ったのか。この、地獄のような淵から」
ジークハルトはベッドから降りると、埃一つない床に膝をつき、エルナの手を取りました。
その瞳は、深い感謝と、獲物を見つけた猛獣のような強い光を宿しています。
「エルナ。君は自分が何をしたか分かっているのか?」
「はい。床の雑巾がけと、窓拭きと、あと壁の煤払いも……」
「……違う。君は私の命と、この国の未来を救ったんだ。隣国は、君のような宝を『生贄』として差し出したのか? あんな愚かな国に、君を返すわけにはいかない」
ジークハルトの声が熱を帯び、エルナの手をギュッと握りしめます。
「今日から君は、この帝国の、そして私の……唯一無二の宝だ。欲しいものは何でも言え。宝石か? 領地か? それとも――」
「あ、それなら! 新しいバケツと、もう少し質の良い雑巾が欲しいです!」
「…………雑巾?」
皇帝は一瞬固まりましたが、すぐに堪えきれないように笑い出しました。
こんなに無欲で、清らかな少女がこの世にいたのか。
「いいだろう。世界一の職人に、黄金のバケツを作らせよう。だがその前に……まずは君に、相応しいドレスと食事を。……君を、この国で最も幸せな女性にすると誓おう」
その頃、エルナがいなくなった母国では、王宮の回廊に得体の知れない「黒いシミ」が広がり始めていました。




