第8話「木曜の再来」
朝、工房のドアを開けると、窓の外にカイさんが立っていた。
三週間ぶりだった。
通りの向こう側ではなく、工房の窓のすぐ外。蝶番を確かめるように窓枠に手を添えている姿が、ガラス越しに見えた。
ドアを開けた音で、カイさんがこちらを向いた。
いつもと違った。顔色が悪いわけではない。怪我をしているわけでもない。しかし、以前のように静かに棚を眺めながら入ってくる余裕がなかった。背筋は伸びているが、肩に力が入っている。目の奥に、何かを押し込めているような緊張があった。
「おはようございます、カイさん」
「……おはようございます」
声は変わらなかった。低く、短く、必要なことだけを言う声。しかし「おはようございます」の前に、わずかな間があった。何か別のことを言おうとして、飲み込んだような間。
「どうぞ、中へ」
カイさんは工房に入った。いつものように棚の石鹸を見て、作業台の帳簿に目をやり、乾燥中の薬草を確認する。その動きは同じだ。しかし、視線の動きが速い。一つ一つを確かめるというよりも、何かを探しているように見える。
「蝶番、問題ありませんか」
「はい。カイさんが直してくださってから、一度も軋んでいません」
「そうですか」
カイさんの右手には、いつもの深い茶色の革手袋がはめられていた。左手は素手。その左手の下に、書類の束を抱えていた。革の表紙で綴じられた、厚みのある書類。中身は見えない。
「カイさん。どこに行っていたのですか」
口にしてから、自分が初めてカイさんに個人的な質問をしたことに気づいた。いつもなら、来店の理由も、不在の理由も聞かない。常連客と店主の間に、そういう質問は必要ないと思っていた。
カイさんの手が止まった。書類の束を持つ左手が、わずかに力を込めた。
「少し、やらなければならないことがあった」
それだけだった。聞かれなければ答えない。聞かれても、必要最小限しか答えない。いつも通りのカイさんだ。
しかし、その目が私を見ていた。いつもよりも長く。いつもよりも真っ直ぐに。
「カイさん。お伝えしなければならないことがあります」
「はい」
「王宮から使者が来ています。召還命令を持った文官が、三週間前からこの町に滞在しています」
カイさんの表情は変わらなかった。驚きもしなかった。
「……知っていました」
「知っていた?」
「町に入る時に、馬車を見ました。王宮の紋章が入った馬車を」
嘘ではないのだろう。しかし、それだけではない気がした。馬車を見ただけで召還命令だと分かるだろうか。町に来なかった三週間と、使者の滞在が重なっていることは偶然だろうか。
「猶予期間は三十日でしたが、使者のオスヴァルト殿が裁量で二週間の延長をしてくれました。今は延長された期間の中にいます」
「延長の理由は」
「現地での技術評価に追加調査が必要、と。オスヴァルト殿が判断してくださいました」
カイさんは黙った。黙る時間が、以前よりも長かった。
「あなたに」
カイさんが口を開いた。
「あなたに、話さなければならないことが——」
工房の扉が勢いよく開いた。
「セレナさん、おはようございます! あ」
リネットが立っていた。エプロンを片手に持ったまま、カイさんと私を交互に見て、目を丸くした。
「カイさん! 久しぶりじゃないですか!」
「……ああ、久しぶりです」
カイさんの声が、一段低くなった。先ほどまでの緊張が、リネットの声で断ち切られていた。
「もう、三週間も来ないから、セレナさん心配してたんですよ」
「リネット」
「え、してたでしょう? 木曜日のたびに窓の外見てたじゃないですか」
リネットに悪気はない。思ったことをそのまま口にする。それがこの子の良さであり、時々困るところでもある。
カイさんが私を見た。窓の外を見ていた、という言葉に反応したのか、その目がわずかに揺れた。
「心配、させましたか」
「いえ。常連のお客様が来ないと、少し気になっただけです」
嘘ではない。嘘ではないが、全部でもない。
リネットがエプロンを締めながら、カイさんの顔を覗き込んだ。
「カイさん、顔色悪いですよ。セレナさんに会えなくて寂しかったんじゃないですか?」
「リネット」
「何ですか。本当のことでしょう」
カイさんは何も言わなかった。否定もしなかった。ただ、書類の束を持つ手を下ろして、棚の方を向いた。
「……石鹸を、一つもらえますか」
「はい。いつものラベンダーと蜂蜜でよろしいですか」
「お願いします」
石鹸を包んだ。カイさんの手に渡す時、革手袋の指先が私の手に触れた。手袋越しの温度は分からない。しかし、触れた時間が、いつもより一拍長かった。
カイさんは銀貨を置いて、扉に向かった。書類の束は、左腕に抱えたままだった。
「カイさん」
振り返った。
「来週も、いらしてくださいますか」
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。常連客に「来週も来てください」と言ったことは、三年間で一度もない。
カイさんは少しの間、黙っていた。それから、小さく頷いた。
「来ます」
扉が閉まった。
リネットが裏で乾燥棚の作業を始めた後、私は一人で工房に残った。
カイさんの手にあった書類の束のことを考えていた。革表紙の綴じ方。厚み。あれは手紙や商売の伝票ではない。もっと正式な、公的な書類に見えた。
商人が持ち歩くものだろうか。
カイさんの手袋のことを思い出した。リネットが以前言った「あの手袋、相当いい革ですよね」という言葉。深い茶色の、手触りの良さそうな革。商人にしては上質すぎる。
法律への詳しさ。召還命令の話をした時、驚かなかったこと。「知っていました」とだけ答えたこと。
封蝋を見た時の反応。あの日、帳簿に挟んだ手紙の封蝋——王宮の鷲と剣の紋章を、カイさんは一目で見て取った。あの紋章の意味を、即座に理解していた。
この人は、本当は誰なんだろう。
商人ではない。少なくとも、ただの商人ではない。法律に詳しく、上質な手袋を持ち、王宮の紋章を見て動揺し、使者が来た途端に姿を消した人。
知りたい、と思った。
同時に、知るのが怖い、と思った。
この人が何者であっても、工房に来てくれた一年間は本当だ。蝶番を直してくれたことも、窓枠を削ってくれたことも。裏口に積まれた薪も。
それでも。
この人が何かを隠しているのは、確かだ。「話さなければならないことがある」と、カイさんは言いかけた。リネットが来なければ、何を言うつもりだったのだろう。
帳簿を開いた。今日の売上を記録する。カイさんの石鹸、銀貨一枚。いつもと同じ。
いつもと同じはずなのに、帳簿の字が少し揺れていた。
夜、二階の寝室で横になっても、眠れなかった。
天井を見ていた。
カイさんの目を思い出していた。いつもよりも長く、いつもよりも真っ直ぐに私を見ていた目。あの目には、何があったのだろう。
あの人に会えてよかった、と思った。三週間来なくて、今日来て、顔を見て、声を聞いて。それだけのことで、木曜日が木曜日に戻った気がした。
その感情が何なのか、名前をつけることはしなかった。名前をつけたら、もう引き返せない気がした。
窓の外で、風が木の葉を揺らしている。工房の蝶番は静かだ。
この人は何かを隠している。それは確かだ。
それでも、この人に会えてよかった。それも確かだ。
二つの確かなことの間で、私は目を閉じた。
明日の朝、オスヴァルト殿が来る。猶予の延長があっても、時間は有限だ。帳簿を開いて、記録をつけて、いつも通りに始める。
あの人が隠していることが何であれ、私の仕事は変わらない。この工房を守ること。それだけは変わらない。




