第6話「空の木曜日」
なぜ、あの人が来ないだけで、こんなに静かに感じるのだろう。
木曜日の朝。工房の窓を開けた。蝶番は滑らかに動く。カイさんが削って直してくれた枠は、湿気の多い日でも軋まない。
二週間前の木曜日も、先週の木曜日も、カイさんは来なかった。使者が町に入った日から、一度も。
窓の外にはいつもの通りが見える。パン屋の煙突から煙が上がり、向かいの仕立屋の軒先に洗濯物が揺れている。変わらない朝だ。何も欠けていないはずなのに、工房の中が広く感じる。
考えるのはやめた。今日はオスヴァルト殿が来る日だ。
オスヴァルトが工房に現れたのは、朝の八時だった。到着してから十日あまり。毎日ではないが、二日に一度は工房を訪れるようになっていた。最初の数日は書類鞄を抱えたまま入口に立っていたが、今日は鞄をカウンターに置いて、作業台の方へ歩いてきた。
「今日は仕込みの日ですか」
「はい。ラベンダーと蜂蜜の石鹸を仕込みます。一番の売れ筋ですから、在庫を切らすわけにはいきません」
「拝見してもよろしいですか」
「どうぞ。ただし、作業中は手を止めませんので、ご了承ください」
リネットが裏口から入ってきた。エプロンを締めながら、オスヴァルトに軽く頭を下げる。
「おはようございます、オスヴァルト様」
「おはようございます」
オスヴァルトの返事は丁寧だった。最初の日、リネットは王宮の文官を前に緊張で声が裏返っていたが、今はもう慣れたらしい。
仕込みを始めた。
まず、帳簿を開く。今日使う原料の分量を確認する。オリーブ油、ヤシ油、苛性灰、蜂蜜、ラベンダーの乾燥花。すべて帳簿に記載された配合比の通りに計量する。
「オスヴァルト殿。この帳簿が、私の石鹸の品質を支えているものです」
帳簿をオスヴァルトの前に広げた。
「原料ごとに仕入れ先、仕入れ日、単価、品質の所見を記録しています。同じオリーブ油でも、季節や産地で質が変わります。その差を数字と所見で残して、配合を調整します」
オスヴァルトは帳簿のページをめくった。指先が慎重だった。文官として書類を扱い慣れた手つきだ。
「……これは、すべてお一人で?」
「はい。仕入れから製造、品質の確認まで。リネットに手伝ってもらうこともありますが、配合の判断と記録は私がやります」
「配合の判断とは、具体的には」
「たとえば、今日の蜂蜜は先月より水分が多い。舐めれば分かります。だから苛性灰の量を気持ち減らして、乾燥時間を半日伸ばします。その判断の根拠と結果を、ここに書きます」
帳簿の欄を指で示した。日付、気温、湿度、原料の状態、配合比の変更点、変更の理由。一行ずつ、私の字で埋まっている。
オスヴァルトは黙って見ていた。
計量を終え、鍋に油を入れて火にかけた。苛性灰を水で溶く作業はリネットに任せる。私は温度を見ながら、油の状態を確認した。
「この工程で、鑑定印士であれば魔法印を押します。油の純度と温度を魔力で読み取り、品質情報を印字する。そうですね?」
オスヴァルトが頷いた。
「私は鑑定印士の資格を持っていません。魔力で読み取ることもできません。だから、五感で判断します。色を見る。匂いを嗅ぐ。指先で粘度を確かめる。それを数字と言葉で記録に残す。鑑定印と同じことを、道具と記録でやっているだけです」
「鑑定印と同じ、と」
「同じか、それ以上です」
言ってから、自分の言葉に驚いた。こんなことを口にしたのは初めてだった。いつもなら「普通のことをしているだけ」で終わらせる。
オスヴァルトの目が変わった。何かを書き留めたそうな顔をしていたが、書類鞄には手を伸ばさなかった。
「鑑定印なしでこの品質は……ギルドが黙っていないのでは」
「ギルド?」
「鑑定印士ギルドです。鑑定印を経ずに高品質の商品が流通することは、ギルドの存在意義に関わります」
考えたこともなかった。私はただ、良い石鹸を作って、正直に売っているだけだ。それがどこかの組織の脅威になるなど、思いもしなかった。
「私は、鑑定印制度を否定しているわけではありません。ただ、鑑定印がなくても品質を保証する方法はある。記録と実物で」
「ええ。それは、この十日間で十分に理解しました」
オスヴァルトの声は静かだったが、初日の硬さとは違っていた。
午後、工房の前に人が来た。
最初はマルテばあさんだった。通りの向こうに住んでいる、膝の悪い老婦人だ。杖をつきながら、工房のカウンターまで歩いてきた。
「セレナ、いるかい」
「はい、マルテさん。いらっしゃい」
「あんたの石鹸のおかげで、この冬は手が荒れなかったよ。ほら、見てごらん」
しわだらけの手を差し出した。確かに、ひび割れが少ない。去年の冬、マルテさんの手はあかぎれだらけで、瓶の蓋も開けられないと嘆いていた。蜂蜜を多めに配合した石鹸を勧めたのは、その時だ。
「それだけ言いに来たんだよ。ああ、あとね」
マルテさんはオスヴァルトの方を向いた。オスヴァルトがカウンターの隅で帳簿を見ていたのに気づいたらしい。
「あんたが王都のお役人さんかい。この子の石鹸を取り上げようってんなら、あたしが黙っちゃいないよ」
「マルテさん」
「いいんだよ、セレナ。本当のことだから」
オスヴァルトは姿勢を正して、小さく頭を下げた。
「ご意見、承りました」
マルテさんが帰った後、今度は赤ん坊を抱いた若い母親が来た。エーファという名前の、鍛冶屋の嫁だ。
「セレナさん、この子の湿疹、すっかり良くなったんです。お礼を言いたくて」
赤ん坊の頬を見せてくれた。半年前、ひどい湿疹で夜も眠れないと相談された。カモミールと山羊乳の石鹸を、通常より低い温度で時間をかけて作った。肌への刺激を最小限に抑えるためだ。配合の記録は帳簿の三ページ前にある。
エーファはオスヴァルトにも頭を下げた。
「王都の方にも知っていただきたいんです。この町にセレナさんがいてくれて、どれだけ助かっているか」
オスヴァルトは何も言わなかった。ただ、頷いた。
エーファが帰った後、工房に静けさが戻った。リネットは裏で乾燥棚の整理をしている。オスヴァルトはカウンターの椅子に座ったまま、しばらく黙っていた。
「セレナ殿」
「はい」
「あなたは先ほど、『普通のことをしているだけ』とは言いませんでしたね」
言われて気づいた。確かに、今日は言わなかった。「鑑定印と同じか、それ以上」と、自分の口で言った。
「……そうですね。言いませんでした」
自分の仕事の価値を、自分の言葉で語った。ドロテアさんが「あんたが一番分かってなきゃいけない」と言っていた。あの言葉が、今日ようやく少しだけ形になった気がする。
オスヴァルトは立ち上がり、書類鞄を手に取った。
「本日はこれで失礼します。明日も伺ってよろしいですか」
「いつでもどうぞ。工房は開いています」
オスヴァルトが出ていった後、護衛たちの会話が風に乗って聞こえてきた。工房の窓が開いていたからだ。
「最近、王都で妙な話が出てるらしいぞ」
「何だ」
「王宮御用達の石鹸の納品元が、品質検査で立て続けに不合格を出してるって。宮廷の侍女たちが肌荒れを起こして、大騒ぎになってるとか」
「御用達がか。鑑定印付きのやつだろう」
「ああ。鑑定印付きなのに、品質がおかしいんだと。印が薄くなってる商品もあるって話だ」
声が遠ざかった。
鑑定印付きの商品の品質が落ちている。印が薄くなっているということは、商品の劣化が進んでいるということだ。鑑定印は品質の事実を記録する。品質が低ければ、低いという事実が印字される。印が薄くなるのは、保証期限を過ぎた劣化品が流通しているか、あるいは検査の一部が省略されているか。
どちらにしても、私には関係のないことだ。私は自分の工房の石鹸のことだけを考えればいい。
窓の外を見た。
夕暮れが近い。木曜日が終わろうとしている。今日も、カイさんは来なかった。
先週も来なかった。その前の週も。使者が来てから、一度も。
カイさんが来ない木曜日は、窓の蝶番が静かすぎる。あの人がいた時は、蝶番を確かめたり、棚の位置を直したり、何かしら小さな音が工房の中にあった。今はそれがない。
寂しい、とは思わない。思わないことにしている。あの人は常連客で、来る来ないはあの人の自由だ。私が気にすることではない。
でも、木曜日が木曜日でないような気がする。それだけは、どうしても否定できなかった。
夜、工房を閉めて二階に上がろうとした時、表通りにドロテアさんの姿が見えた。宿屋の方へ歩いていく途中、工房の前で足を止めた。
「セレナ」
「ドロテアさん。こんな時間にどうしたんですか」
「ちょっと顔を見にね」
ドロテアさんは私の顔をしばらく見て、腕を組んだ。
「あの青年——カイだったかね——あの子が来なくなって、あんた、少し顔色が悪いよ」
「そんなことは——」
「ないとは言わせないよ。あたしは三十年この町で人の顔を見てきたんだ」
返す言葉がなかった。
「無理に元気でいなくていい。ただ、あんたの顔色が悪いのは、あの文官殿のせいだけじゃないってことだよ」
ドロテアさんはそれだけ言って、手を振って去っていった。
工房に戻り、帳簿を開いた。今日の仕込みの記録を書き込む。配合比、温度、乾燥時間の予定。ペンが紙の上を走る音だけが、工房に響いている。
封蝋の赤が、ページの間から覗いている。使者の命令書と、最初の手紙。二つの赤い封蝋。
帳簿を閉じた。
明日も仕込みがある。記録をつけて、石鹸を作って、この工房を守る。それが今の私にできることのすべてだ。
二階への階段に足をかけた時、ふと思った。
カイさんは、なぜ来なくなったのだろう。使者が来たことと、関係があるのだろうか。
答えは出なかった。出ないまま、今日が終わる。




