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断罪された悪役令嬢の帳簿が王宮の嘘を静かに見抜いていく。ただし不器用な辺境伯の想いだけは見抜けない  作者: 月雅


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第2話「届いた封蝋」

「あんた宛に、随分立派な封蝋の手紙が来てるよ」


朝の仕込みを終えて工房の表に出たところで、ドロテアさんが通りの向こうから声をかけてきた。手に一通の封書を持っている。


「町役場に届いてたんだけど、届け先があんたの工房になっててね。役場の子が困ってたから預かってきた」


受け取った封書は、見た瞬間に分かった。


厚い羊皮紙。深紅の封蝋。そこに押された紋章は、王宮のものだ。翼を広げた鷲と、交差する剣。三年前まで、毎日のように目にしていた意匠。


指先が冷たくなった。


「セレナ?」


「……ありがとうございます、ドロテアさん。わざわざ届けてくださって」


笑顔を作った。ドロテアさんは私の顔をしばらく見つめていたが、何も言わずに頷いて、宿屋の方へ戻っていった。


工房に入り、扉を閉めた。


封蝋を爪で割る。羊皮紙を広げると、整った筆跡の公文書が現れた。


「王宮文官局発。辺境の町マルシェに居住する平民セレナに対し、国益に資する技術の保有者として、王都への帰還を命ずる」


召還命令だった。


文面は淡々としている。私の名前は「平民セレナ」。姓はない。かつての「アッシュフォード」は、三年前に抹消された。命令の法的根拠として「王国法第十七条の三、国益技術保有者の帰還義務」が引用されている。期限の記載はなく、詳細は追って使者が通達する、とだけ書かれていた。


手紙を読み終えて、丁寧に折り畳んだ。


作業台の上に開いたままの帳簿があった。今朝の仕込みの記録。原料の配合比、攪拌回数、気温、湿度。いつもと同じ数字が並んでいる。


その帳簿の間に、折り畳んだ手紙を挟んだ。


返事は書かない。書く義理がない。


椅子に座って、両手を膝の上に置いた。指先がまだ冷たい。胸の奥で、三年前の夜が輪郭を取り戻し始めていた。


夜会の広間は、蝋燭の光で満ちていた。


第二王子ユリウスが壇上に立っていた。金の髪に青い目。柔らかい笑顔の下に、揺るぎない確信を湛えた顔。その隣に、聖女リディアが控えていた。白い法衣に身を包み、伏し目がちに、しかし唇の端にかすかな弧を描いて。


「セレナ・アッシュフォード伯爵令嬢は、聖女リディアに対する数々の妨害行為により、王宮の秩序を乱した」


ユリウスの声が広間に響いた。私は壇上の下に立たされていた。弁明の機会はなかった。聖女が涙を流し、王子が断罪を宣言し、広間の貴族たちが沈黙した。それだけで、すべてが決まった。


「よって、本日をもって婚約を破棄する」


翌日、国王が追認した。


その三日後、父が家門会議を開いた。勘当と爵位剥奪。アッシュフォードの姓の抹消。平民籍への編入。父は会議の間、一度も私の目を見なかった。


私が何をしたのか。帳簿をつけていただけだ。聖女の慈善事業に割り当てられた予算と、実際の支出が合わないことに気づいた。数字が合わないと報告した。それだけのことだった。


勘当の日、母の形見の銀の髪飾りだけを渡された。それ以外には何も持たずに、伯爵家の門を出た。


王都から馬車で十日。辺境の町マルシェにたどり着いた時、手持ちの銅貨はほとんど残っていなかった。髪飾りを売って銀貨五十枚に換え、空き家を借り、原料を仕入れ、道具を揃えた。前世のことは遠い夢のようだが、指先に染みついた記録の習慣だけは鮮明だった。品質を管理する方法。原料を選ぶ基準。配合を数字で残す技術。それだけを頼りに、石鹸を作り始めた。


泣いたのは、最初の一週間だけだった。


帳簿に挟んだ手紙の封蝋が、ページの間から赤く覗いている。


あの夜から三年。私はもう伯爵令嬢ではない。王宮に関わる人間でもない。マルシェの町で石鹸を作って暮らしている平民だ。


なのに、また手を伸ばしてくる。


怒りだった。恐怖ではなく、怒りに近い感情が胸の底から込み上げてくる。


また奪おうとするのか。三年前に名前も立場も家族も奪っておいて、今度は自分の手で作ったものまで。


「国益に資する技術の保有者」。あの人たちは、私の石鹸を「技術」として欲しいのだ。三年前に追い出した人間の技術を。


立ち上がって、窓を開けた。マルシェの町並みが見える。東通りの石畳、向かいのパン屋の煙突から上がる煙、遠くに見える丘の緑。三年かけて、ここが私の場所になった。


自分の居場所は、自分で守る。


窓の蝶番がかたかたと鳴った。カイさんが来週直してくれると言っていた。パンの匂いがする。リネットが今日も手伝いに来てくれるだろう。ドロテアさんは何も聞かずに手紙を届けてくれた。


この町に私の暮らしがある。それだけは、誰にも渡さない。


帳簿を閉じた。手紙は帳簿の中に入れたままだ。返事は書かない。書く義理がない。明日も朝一番に仕込みを始める。記録を取る。条件を揃える。同じ品質を再現する。それが私の仕事だ。


夕方、リネットが工房に来た。


乾燥棚の石鹸を裏返す作業を手伝いながら、リネットがふと手を止めた。


「セレナさん」


「なに?」


「なんか、今日のセレナさん、ちょっと怖い顔してます」


「……そう? いつも通りよ」


「いつも通りなんですけど、いつもよりちょっと力が入ってるっていうか。石鹸の角、さっきから親指でぎゅってしてません?」


手元を見た。確かに、無意識に石鹸の角を指で押し込んでいた。力を抜く。


「ごめんなさい。考え事をしていたの」


リネットは私の顔をじっと見てから、棚の方に視線を戻した。それから、何かに気づいたように帳簿の方を見た。


「セレナさん、帳簿に何か挟まってません? 赤いの見えてますけど」


「仕事の書類よ」


「ふうん」


リネットは作業を再開した。しばらく黙って石鹸を裏返していたが、最後の一つを棚に戻したところで、振り返った。


「でもセレナさん、これ無視して大丈夫なの? お役所の手紙でしょ?」


勘がいい。封蝋の色と紋章を見ただけで、公的な書簡だと分かったのだろう。


「大丈夫よ」


「本当に?」


「大丈夫。私の仕事は、明日もいい石鹸を作ること。それだけ」


リネットは納得していない顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。「じゃあ明日も来ますね」と言って、工房を出ていった。


一人になった工房で、帳簿をもう一度開いた。手紙の封蝋が赤く光っている。


法的強制力。リネットの言葉が、私自身が口にしなかった不安を突いていた。召還命令を無視した場合、どうなるのか。「王命不敬」という言葉が頭をよぎる。平民が王宮の命令を拒否することが、この国でどういう意味を持つか。


分からない。分からないが、明日の仕込みの手順は分かる。原料の在庫も、配合比も、乾燥日数も。


帳簿を閉じた。


明日のことは、明日考える。今日の記録は、今日のうちにつける。


それだけを決めて、二階へ上がった。

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