第10話「看板の隣に」
朝もやの中、工房の前に新しい棚が置かれている。まだ朝露に濡れている。
木の匂いがした。削りたての、まだ樹脂が乾ききっていない木の匂い。棚は工房の看板「泡の雫亭」のすぐ隣に置かれていた。三段の棚。奥行きは石鹸の箱がちょうど収まる幅。上段には雨除けの庇がついている。
棚の脚の接合部を見た。木組みの仕方に見覚えがあった。裏口の薪を積んだ人と、窓の蝶番を直した人と、同じ手だ。
工房の鍵を開けた。いつも通りに帳簿を開いて、今日の仕込みを確認するところから始める。
窓を開けた。全部、開けた。
召還命令が停止されてから数日が経っていた。町にはまだオスヴァルトと護衛がいた。今日、王都に帰還する。
朝の仕込みの準備をしていると、オスヴァルトが工房に来た。書類鞄を抱えている。しかし今日の鞄は、到着した日よりも厚みが増していた。報告書が中にあるのだろう。
「セレナ殿。本日、王都へ発ちます。ご挨拶に伺いました」
「オスヴァルト殿。長い間、お疲れさまでした」
オスヴァルトは工房の中を見回した。棚に並んだ石鹸。作業台の帳簿と計量器。乾燥中の薬草。最初の日にも同じように見回していた。しかし、あの日とは目の色が違った。
「一つだけ、お伝えしておきたいことがあります」
「はい」
「報告書には、事実を書きました。あなたの技術の価値。この町における工房の役割。召還命令の名目と、私が現地で確認した実態。領民保護宣言が法的に有効であること。そして——」
オスヴァルトは一瞬だけ間を置いた。
「あなたが三年前に王宮に残した品質記録の存在についても、事実として記載しました。私の報告書が王都に届けば、その記録の所在が問われることになるかもしれません」
三年前の帳簿。王宮の書庫に眠っているはずの、あの記録。
「私がそれを望んだわけではありません」
「承知しています。しかし、事実は事実です。記録されたものは、書いた者の意志とは無関係に存在し続けます」
オスヴァルトが小さく微笑んだ。この人が笑うのを見たのは、初めてだった。
「あなたから学んだことです」
「オスヴァルト殿」
「はい」
「お気をつけて」
オスヴァルトは深く頭を下げた。それから書類鞄を抱え直し、工房を出ていった。砂利道の靴音は、もうすっかりマルシェの道に馴染んでいた。
窓から見ていた。オスヴァルトが馬車に乗り込み、護衛が馬に跨がる。馬車が動き出す。王宮の紋章が、朝もやの中を遠ざかっていく。
昼前、リネットが工房に飛び込んできた。
「セレナさん! 表の棚、見ました? あれ誰が置いたんですか?」
「朝来たら、あったの」
「えー、すごいですね。石鹸並べるのにぴったりの大きさですよ。あ、もしかしてカイさ——えっと」
リネットが言葉に詰まった。
「カイさん——じゃなくて、辺境伯様? なんてお呼びすれば?」
工房の扉が開いた。
カイさんが立っていた。いつもの私服。右手に革の手袋。しかし、肩の力が以前とは違った。隠し事をしていた人の緊張が消えて、代わりに別の緊張がそこにあった。何かを始める人の緊張。
「カイでいい」
リネットに向けた声だった。低くて短い。しかし、これまで工房で聞いてきた声と同じだった。
「あ、はい。カイさん。カイさんでいいですか?」
「ああ」
リネットがほっとした顔をして、裏の乾燥棚に消えていった。
カイさんが工房に入ってきた。棚の石鹸を見て、作業台の帳簿を見て、窓の蝶番に手を添えた。いつもと同じ順番だ。しかし、常連客として来ていた時の動きではなかった。辺境伯として、しかし以前と同じように、この工房の中を見ている。
「窓は問題ないですか」
「はい。一度も軋んでいません」
「看板の塗料が少し剥げている」
看板を見た。確かに、「泡の雫亭」の「亭」の字の右上が薄くなっている。雨風で剥がれたのだろう。自分では気づいていなかった。
「来週、直す」
その言葉に、声が出た。
笑っていた。自分でも気づかないうちに、声を出して笑っていた。カイさんの前で声を出して笑ったのは、初めてだった。
カイさんが目を見開いた。私の笑い声を、初めて聞いた顔。
「カイさん」
「はい」
「あなたの助けが欲しいんじゃない」
カイさんの肩がわずかに動いた。
「あなたに、隣にいてほしいだけです」
声は落ち着いていた。震えていなかった。考えて出した言葉ではなかった。考えなくても、もう分かっていたことだ。一人で立てる。一人で守れる。この工房も、この帳簿も、この町で積み重ねてきたものも。だからこそ、この人と一緒に歩くことを選べる。必要だからではなく、そうしたいから。
カイさんは長い間黙っていた。言葉が出てこないのだろう。この人はいつもそうだ。感情が動くと黙る。
「俺も」
声が低かった。
一瞬、聞き慣れない音だと思った。それから気づいた。「私」ではなく「俺」と言った。一年間、工房で一度も使わなかった一人称。常連客としての壁が、初めて消えた音だった。
「俺も、そうしたい」
それだけだった。それだけで十分だった。
午後、ドロテアさんが工房の前を通りかかった。
新しい棚を見て、足を止めた。それから工房の中を覗いて、カイさんが作業台の脚のぐらつきを確認しているのを見た。
「知ってたよ」
ドロテアさんが言った。腕を組んで、カイさんを見ていた。
カイさんの手が止まった。
「あんたの手袋。あんたの靴。あんたがこの町を見る時の目。あたしは三十年この町で人の顔を見てきたんだ。旅の商人崩れの目じゃないことくらい、分かるよ」
「……なぜ、聞かなかったのですか」
「聞かないほうがいいこともある。でも、もう聞かなくてよくなったね」
ドロテアさんは私の方を見た。
「顔色、良くなったね」
それだけ言って、手を振って去っていった。
夕方、工房を閉める前に、帳簿を開いた。
今日の売上を記録する。石鹸の在庫数。明日の仕込みの予定。原料の残量。来週の仕入れ。いつもと同じ作業だ。
帳簿のページをめくった。封蝋の赤が二つ、ページの間から覗いている。召還命令の手紙と、正式な命令書。その隣に、領民保護宣言の写し。
もう一枚、今日加わった紙があった。棚の隣に置かれていた納品書。カイさんが棚の材料を領都の材木屋から取り寄せた時の控えだった。棚を作ったのはカイさん自身だが、材料は正規の購入記録がある。
納品書の隅に目が留まった。
受取人の欄に、二つの名前が並んでいた。
セレナ、とカイ。
それだけの文字だった。姓もなく、肩書きもなく、ただ名前だけが二つ。
窓の外を見た。夕暮れの風が、看板を揺らしている。「泡の雫亭」の文字。その隣に、新しい棚。棚にはまだ何も載っていない。明日の朝、石鹸を並べよう。
帳簿を閉じた。
明日もこの工房を開ける。帳簿をつけて、石鹸を作る。記録を残す。嘘のない数字を、一行ずつ。
違うのは、隣に人がいること。窓の蝶番を確かめて、看板の塗料を直して、「来週また来る」と言って帰る人が、明日もここに来ること。
オスヴァルトの報告書が王都に届いた時、何が起きるか分からない。三年前の帳簿が見つかった時、何が変わるか分からない。
でも、それは明日の問題だ。
今日は、窓が全部開いている。朝の風が通り抜けた工房の中で、棚の上の納品書が揺れている。
セレナ、とカイ。
ただそれだけの文字が、夕暮れの光の中に並んでいた。
(完)
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