第1話「泡の朝」
朝日が工房の窓から差し込んで、作業台の上に並んだ石鹸の型を淡く照らした。木型の縁を指でなぞり、固まり具合を確かめる。爪の先にかすかな弾力が返ってきた。
「よし」
私は型をひっくり返して、布を敷いた台の上に石鹸をそっと落とした。とん、と小さな音がして、四角い塊が布の上に収まる。表面に気泡の跡はない。色むらもない。昨日の仕込みは合格だ。
帳簿を開いて、日付と原料の配合比を書き込む。オリーブ油三十二、ヤシ油十八、苛性灰の量、攪拌の回数と時間。気温と湿度。すべて数字にして記録する。
この習慣だけは、三年間、一日も欠かしたことがない。
記録を取る。条件を揃える。同じ品質を再現する。それだけのことが、私の仕事のすべてだ。大したことではない。ただ、手を抜かないだけ。
工房の正式な名前は「泡の雫亭」という。マルシェの町の東通りに面した、元は空き家だった二階建ての小さな建物。一階が工房と販売所、二階が私の住居。窓の蝶番が少し緩んでいて、風が強い日にはかたかたと鳴る。
棚に並んだ石鹸は十二種類。薬草の配合を変えたものが八種類、香りの違いが四種類。それぞれにロット番号を振ってある。売れ筋はラベンダーと蜂蜜の組み合わせ。肌の弱い人には山羊乳を加えたものを勧めている。
朝の仕込みを終えて、原料の在庫を確認していると、入口の扉が勢いよく開いた。
「セレナさん、おはようございます!」
リネットだ。パン屋「麦の穂亭」の一人娘で、一年前から工房の手伝いをしてくれている。手にはパンの包みを持っていて、焼きたての匂いが工房に広がった。
「おはよう、リネット。今日は早いね」
「だってお母さんが、朝一番の焼き上がりをセレナさんに持っていけって。昨日のカモミール石鹸、すごく良かったらしくて、お父さんの手荒れが一晩でましになったって」
リネットは包みをカウンターに置きながら、工房の中を見回した。いつものことだ。この子は来るたびに、棚の石鹸を眺めて、新しいものがないか確認する。
「セレナさん、あたし今日は何をすればいいですか」
「乾燥棚の石鹸を裏返してくれる? それと、ラベンダーの在庫が減ってきたから、午後に山の手前まで摘みに行こうと思ってるの」
「はい! あ、そうだ」
リネットが棚の方に歩きかけて、振り返った。
「セレナさんって、たまに言葉遣いがお貴族様みたいになりますよね」
手が止まった。帳簿に書きかけた数字がわずかに歪んだ。
「……そう?」
「うん。『ロットを確認させて』とか、『記録が合わない』とか。なんかこう、普通の職人さんっぽくないっていうか」
「癖よ。前にいた場所で覚えた言い回しが抜けないだけ」
私は苦笑して、帳簿に目を戻した。リネットはそれ以上追及せず、「ふうん」と言って乾燥棚に向かった。
この子は勘がいい。でも、それ以上踏み込んでこない優しさも持っている。
前にいた場所。その言葉で片付けてしまえる程度には、過去は遠くなった。三年という時間は、傷を癒しはしない。ただ、傷の上に新しい日々を積み重ねて、痛みを底の方に沈めてくれる。
今の私は、マルシェの町の石鹸職人。それだけだ。それだけでいい。
午前の販売が一段落した頃、工房の扉が静かに開いた。
木曜日だ。
「いらっしゃいませ、カイさん」
カイさんは小さく頷いて、いつものように工房の中を一通り見回してから、カウンターの前に立った。長身で、目つきは鋭いが、声を荒げているところを見たことがない。寡黙で、必要なこと以外は話さない。毎週木曜日に来て、石鹸を一つ買っていく。それが一年続いている。
「今日のおすすめは、ローズマリーを少し多めに入れたものです。頭がすっきりしますよ」
「それを」
カイさんは短く答えて、銀貨を一枚カウンターに置いた。私は石鹸を紙で包みながら、ふと気がついた。カイさんの視線が、窓の方に向いている。
「……蝶番が緩んでいる」
「え?」
「窓の蝶番。このままだと枠ごと歪む」
カイさんは窓に近づいて、指で蝶番の付け根を軽く押した。かたり、と音がした。
「来週、直す」
「いえ、そんな。お客様にそこまでしていただくわけには」
「ついでだ」
それだけ言って、カイさんは包みを受け取った。その手に革の手袋がはまっている。いつも片手だけ。右手だけ。使い込まれた深い茶色の革。
なぜこの人は、ここまでしてくれるのだろう。
その疑問がかすかに浮かんだが、深く考えないことにした。この人は石鹸の品質を分かってくれる、数少ない常連客だ。商売に目が利く人なのだろう。石鹸の価値を知っているから、工房の状態にも気を配るのだ。それだけのこと。
「ありがとうございます。来週、お待ちしています」
カイさんは頷いて、工房を出ていった。扉が閉まると、リネットが乾燥棚の陰からひょこっと顔を出した。
「カイさん、今日も一言しか喋んないですね」
「一言ではなかったわ。蝶番のことも言ってくれたし」
「セレナさん、それを会話としてカウントするの、基準が甘すぎません?」
私は思わず小さく笑った。リネットは首をかしげて、何か言いたげな顔をしていたが、結局「まあいいですけど」と言って作業に戻った。
午後、リネットと一緒に町外れの丘まで歩いて、ラベンダーを摘んだ。マルシェの町は辺境伯領の端にある小さな町で、周囲には薬草が自生する山林が広がっている。この土地で工房を開けたのは、原料に困らないからだ。
帰り道、夕日を背にして工房の屋根が見えた時、いつもと同じことを思った。
この暮らしを守りたい。
この工房と、この町と、ここで積み重ねてきた記録と、棚に並ぶ石鹸と。三年かけて自分の手で作ったもの。誰かにもらったものではない。誰かに与えられた立場でもない。自分で選んで、自分で続けてきたもの。
もう誰にも期待しない。誰にも依存しない。自分の手で、自分の居場所を守る。それが三年前に決めたことだ。
工房に戻り、摘んだラベンダーを乾燥用の紐に吊るし終えた頃、表の通りからドロテアの声が聞こえた。
「セレナ、ちょっといいかい」
宿屋「三本煙突亭」の女将、ドロテアだ。三年前、ぼろぼろの姿でこの町にたどり着いた私を最初に泊めてくれた人。最初の一か月分の家賃を待ってくれた人。この町で私が根を下ろせたのは、この人がいたからだ。
「どうしました、ドロテアさん」
ドロテアは工房の入口に腕を組んで寄りかかり、少し声を低くした。
「今日、うちの宿に泊まった行商人から聞いたんだけどね」
穏やかだが、芯のある声。多くを語らないこの人が、わざわざ伝えに来たということは、それなりの話だ。
「王都から来た商人が、あんたの石鹸のことを聞いて回っていたよ」
指先が冷たくなった。
一瞬だけ、表情が固まったのが自分でも分かった。すぐに笑顔を作り直す。
「うちの石鹸、そんなに遠くまで評判が届いてるんですね」
「……そうだね。届いてるんだろうね」
ドロテアは私の顔をじっと見ていた。何かを見抜くような、けれど踏み込まないと決めているような、いつものあの目で。
「気をつけな」
それだけ言って、ドロテアは宿屋の方へ戻っていった。
工房に一人残された。
吊るしたばかりのラベンダーが、夕風に揺れている。甘い香りが鼻をくすぐる。帳簿はきちんと閉じてある。棚の石鹸は整然と並んでいる。明日の仕込みの段取りも頭の中に入っている。
何も変わらない。何も変わっていない。
王都。
その言葉が、胸の底に沈めたはずの何かをかすかに揺らした。
でも、今日は木曜日で、カイさんがローズマリーの石鹸を買っていってくれて、リネットがラベンダーを摘むのを手伝ってくれて、ドロテアさんがわざわざ知らせに来てくれた。
この町での私の一日は、こうやってできている。
窓の蝶番が、夜風でかたかたと鳴った。来週、カイさんが直してくれるらしい。
なぜそこまでしてくれるのかは、分からないけれど。
今は、明日の仕込みのことだけを考えよう。




