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海軍モノ

嘲笑された条約型戦艦“伊予型”

作者: 仲村千夏
掲載日:2026/02/10

 昭和十六年、日本海軍が公表した新型戦艦の要目は、各国海軍関係者の失笑を誘った。


 条約型戦艦「伊予」型。

 同型艦二隻――伊予、伊豆。


 排水量三万五千トン。

 主砲四一センチ三連装二基、前部集中配置。

 速力三十ノット。


 公表された数値だけを並べれば、奇妙な艦である。

 戦艦にしては主砲が少なく、しかもすべて艦首に寄せられている。

 後部甲板は広々としているが、副砲らしい副砲もなく、航空艤装の存在がうっすらと記されているだけだった。


 アメリカ海軍の海軍大学校では、配布された写真を前に将校たちが首をかしげた。


「冗談だろう?」

「三連装二基? 八門にも満たない戦艦など、巡洋戦艦以下だ」

「しかも条約型だ。装甲も知れている」


 英国でも反応は似たようなものだった。

 ロンドンの海軍省で開かれた非公式の検討会では、「日本はついに正気を失ったのか」という言葉が記録に残されている。


 ――“嘲笑の的の条約型戦艦”


 それが伊予型に貼られた、最初の評価だった。


 だが、その嘲笑は、ある種の不安と表裏一体でもあった。


 日本海軍は、これまで一度も「中途半端な戦艦」を建造したことがない。

 金剛型の高速化。

 長門型の大口径化。

 そして、条約制限下でも徹底して“撃ち合い”を想定した設計。


 伊予型は、その系譜から明らかに逸脱していた。


 前部集中砲塔――それ自体はフランスのリシュリュー級にも見られる配置だ。

 だが、伊予型はそれを極端に推し進め、砲塔間隔をほとんど設けず、まるで一つの塊のように艦首に押し込んでいた。


 写真に写る艦影は、奇妙なほど“前が重い”。


 艦橋は二番砲塔のすぐ後ろに立ち上がり、全体として艦首から中央部にかけてが、ひとつの巨大な構造物のように見えた。

 対照的に、艦尾はすっきりとしており、速力を優先した船型が強調されている。


「日本は戦艦を巡洋艦のように扱うつもりなのか?」


 米国の海軍武官はそう記した。


 だが、日本国内の反応も決して一枚岩ではなかった。


 帝国議会では、伊予型の予算承認時にこんな発言が飛び出している。


「条約の制限に縛られ、主砲も装甲も妥協した結果がこれか」

「戦艦とは、数であり、威容であり、象徴である。伊予型はそれに足るのか」


 新聞もまた辛辣だった。

 “八門戦艦”

 “未完成の戦艦”

 “航空戦艦への過渡期か”


 そうした見出しが踊る一方で、肝心の性能評価については、奇妙なほど具体的な情報が伏せられていた。


 砲塔装甲の詳細。

 甲板構成。

 射撃管制装置の性能。


 それらはすべて、「軍事機密」の名のもとに黒塗りにされていた。


 実際、連合国側の分析でも、伊予型の“核心”は掴めていなかった。


 わかるのは、速いこと。

 そして、主砲がすべて前を向いていること。


 それだけだ。


 だからこそ、多くの者が軽視した。


 戦艦とは、殴り合ってこそ意味がある。

 主砲門数で劣る伊予型が、同格戦艦と正面から撃ち合えるはずがない。


 その前提が、誰の疑いもなく共有されていた。


 ――まだ、この戦艦が、「距離」を選んで戦うために生まれた存在であることを、世界の誰も理解していなかった。


 ーー


 伊予型戦艦が世に出たとき、日本海軍の中枢にあった感情は、誇りでも昂揚でもなかった。


 覚悟――それに近い。


 連合艦隊司令部の地下会議室。

 重い防音扉の向こうで行われた説明会では、誰ひとりとして笑っていなかった。


「――以上が、伊予型の基本設計思想であります」


 黒板の前に立つ造船中将は、そう言って一礼した。

 図面には、前部に密集した二基の三連装砲塔、異様に厚い装甲区画、そして広く取られた後部甲板が描かれている。


「主砲は四一センチ三連装二基。門数は少ない。しかし――」


 中将は一拍置いた。


「この艦は、二万五千メートルで戦うための戦艦です」


 空気が、わずかに張り詰めた。


 その距離は、従来の日本戦艦が「命中を期待しにくい」とされてきた領域だった。

 一方で、アメリカが急速に射撃管制と砲弾品質を高めている距離でもある。


「敵は、十六インチ五十口径砲を主力とします」

「中距離以下での撃ち合いは不利。近づけば、門数と継戦能力で押し切られる」


 だから――と中将は続けた。


「距離を選びます」


 伊予型は、逃げるための戦艦ではない。

 突っ込むための戦艦でもない。


 距離を固定し、崩さず、殴られ続けながら殴り返すための艦。


 それが伊予型の本質だった。


 ⸻


 戦艦伊予の艦橋は、異様なほど低く、そして硬かった。


 装甲に包まれた司令塔の内部は狭く、視界も決して良好とは言えない。

 だが、そこに立つ者は知っていた。


 ここは抜かれにくい。


 伊予の一番砲塔と二番砲塔は、まるで双子のように並んでいる。

 間隔は極端に短く、外から見れば窮屈そうにすら見える。


 だが、砲塔内に入れば、その印象は変わる。


「撃てる」


 砲塔長は、初めて主砲を試射した日のことを、後にそう語っている。


 四一センチ砲は、五十口径。

 重量弾を、過剰ではない初速で叩き出す。

 反動は重いが、暴れない。


 砲塔天井は二層構造。

 外層で弾を受け、内層で止める。

 貫通される前提ではないが、貫かれても即死しない設計だった。


 揚弾路は直線ではない。

 折れ、ずれ、隔てられている。

「一発で終わらせない」ための工夫が、いたるところに施されていた。


 伊豆も同じだった。


 二隻は、同じ設計でありながら、性格が違うと乗員は言った。

 伊予は重く、粘る。

 伊豆は軽く、しぶとい。


 だが、どちらも共通していたのは、撃たれても沈まないという確信だった。


 ⸻


 この戦艦を最も理解していたのは、設計者でも、将官でもない。


 艦長たちだった。


 伊予艦長は、就役時の訓示でこう述べている。


「この艦は、敵より強く見えるための艦ではない」

「派手な戦果を挙げるための艦でもない」


 一呼吸置き、


「――最後まで、撃ち続けるための艦だ」


 それは、戦艦という存在に対する、ある種の諦観でもあった。


 航空機の時代が来る。

 それは誰もが知っている。

 だが、完全に戦艦が不要になるわけではない。


 撃ち合いが発生した瞬間、そこに立っていられる艦。


 伊予型は、その一点に賭けていた。


 ⸻


 海外の嘲笑は、日本海軍にも届いていた。


 だが、誰も弁明しなかった。

 説明もしなかった。


 理由は単純だ。


 説明しても、わからないからだ。


 この艦の価値は、

 砲撃距離が二万五千メートルに達し、

 互いの砲弾が空を引き裂いた瞬間にしか、証明できない。


 そしてその瞬間は、

 静かに、確実に、近づいていた。


 戦艦伊予。

 戦艦伊豆。


 嘲笑の中で生まれた二隻は、

 やがて世界に問いを突きつけることになる。


 ――戦艦とは、何のために存在するのか。


 その答えが、南方の厚い雲の下で、火と鉄によって示されることを、まだ誰も知らなかった。


 ーー


 開戦の報は、いつも曇った朝に似ている。


 セイロン沖、東洋艦隊司令部。

 分厚い雲に覆われた空を見上げながら、東洋艦隊司令官サー・ジェフリー・レイトン中将は、参謀の差し出した電文に目を通していた。


「日本と開戦――か」


 声に力はない。

 だが、それは悲観ではなかった。


「――例の“条約型戦艦”が動いたという報告は?」


「はい。伊予型二隻、伊予と伊豆。南下中とのことです」


 参謀の声には、どこか気楽さが混じっていた。


「例の、前に砲塔を押し込んだ奇妙な船だな」

「ええ。世界中の軍事誌で嘲笑の的になった……」


 レイトン中将は小さく鼻を鳴らした。


「三万五千トンで、三連装十六インチ砲を二基。速力三十ノット。

 ……聞こえはいいが、数字を詰め込んだだけの船だ」


 参謀たちは一様にうなずく。


「装甲は無理をしています。砲塔も集中配置。万一、一番砲塔基部を抜かれれば致命傷でしょう」

「主砲は高初速を狙ったようですが、寿命は短いはずです」


 レイトンは窓の外を見た。


 雲量十。

 航空偵察は期待できない。


「結局、日本は“理屈の船”を作っただけだ。戦争は計算通りにはいかん」


 その判断は、東洋艦隊全体に共有されていた。


 ⸻


 プリンス・オブ・ウェールズ、艦橋。


 艦長ジョン・リーチ大佐は、航海長の報告を聞きながら、静かに双眼鏡を下ろした。


「日本戦艦が来る、か……」


「例の伊予型だそうです」

 副長のフィリップス少佐が言った。


「伊予型2隻です」


 リーチは苦笑した。


「高速、ね。

 高速を得るために、何を削ったのか――それが問題だ」


「装甲でしょう」

「あるいは、信頼性だ」


 副長は肩をすくめる。


「三連装砲二基を前に集中。まるでフランスのリシュリュー級の縮小コピーだ」

「いや、あれは“過剰な自信”の産物だ」


 リーチは艦橋の装甲壁を指で叩いた。


「砲塔をまとめるということは、まとめて破壊されるということでもある。我々の十四インチ砲でも、距離を詰めれば十分だ」


 副長は一瞬、言葉を選んだ。


「ただ……」

「何だ?」


「速力三十ノットは事実のようです。距離を選ばれる可能性はあります」


 リーチは即座に首を振った。


「砲戦距離二万五千メートル以上? そんな距離で決定打が出ると思うか?」


 副長は答えなかった。


 それが、この艦の空気だった。


 ⸻


 レパルス艦内。


 艦長ウィリアム・テナント大佐は、士官たちに囲まれながら、航路図を見下ろしていた。


「日本戦艦が来ると聞いて、皆が緊張していると思ったが……」


 砲術長が苦笑する。


「噂ほどではありませんな。“世界の笑い者”が相手では」


「雑誌の見出しは覚えているか?」

 通信長が口を挟んだ。


 ――『三万五千トンに夢を詰め込みすぎた船』

 ――『日本の技術者は算数は得意だが、戦争を知らない』


 テナントはそれを思い出し、ゆっくりとうなずいた。


「戦争は現実だ。夢や計算がどこまで通用するか、見せてもらおう」


 副長が言う。


「空が悪いのが気になります」

「航空偵察ができないのは、双方同じだ」


「ですが、日本は水上機を多用する傾向があります」


 テナントは一瞬、眉をひそめた。


「……まあ、相手が戦艦なら、砲で十分だ」


 それ以上、話は深まらなかった。


 ⸻


 東洋艦隊全体に共通していたのは、慢心ではない。

 それは既存の価値観への信頼だった。


 ・三連装砲は信頼性に欠ける

 ・前部集中配置は危険

 ・条約型で全てを満たすことは不可能


 それらは、これまでの海軍史が教えてきた「常識」だった。


 そして、日本の伊予型は――その常識を、あまりにも露骨に踏み越えていた。


「無理をした船は、必ず無理な壊れ方をする」


 レイトン中将は、作戦会議の最後にそう締めくくった。


「我々は冷静に迎撃し、確実に沈める。それだけだ」


 誰一人として、

 “距離を保たれた場合”

 “想定以上の弾道性能を持っていた場合”

 を真剣に考える者はいなかった。


 雲は低く、厚く、海を覆っていた。


 その下で、伊予、伊豆は、静かに距離を測っていた。


 雲は、海と空の境界を消していた。


 雲量十。

 高度三千メートル以上は完全に覆われ、航空隊は無力だった。

 視界は水平線付近で揺らぎ、距離感覚を狂わせる。


「――日本艦影、方位一一〇。距離、およそ三万……二万八千か?」


 プリンス・オブ・ウェールズ、測距員の声は確信に欠けていた。


 艦長リーチは、双眼鏡越しに海を睨む。

 黒く低い影が、雲と海の境目を滑るように動いている。


「速いな」


 副長フィリップスが頷く。


「……二隻。あれが伊予型でしょう」


 リーチは黙っていた。


 前部に異様な塊を持つ艦影。

 二基の巨大な三連装砲塔が、艦首から艦橋直前まで詰め込まれている。


 ――確かに、奇妙だ。

 ――だが、奇妙なだけだ。


「距離は?」


「二万六千……二万五千メートルで安定しています」


 砲術長が苛立ちを隠さず言った。


「こちらが増速すると、相手も増速。

 距離が縮まりません」


 リーチは眉をひそめた。


「向こうは、距離を選んでいる?」


「はい。明確に」


 その言葉が、艦橋に小さな沈黙を落とした。


 ⸻


 伊予、艦橋。


 艦長・伊東大佐は、静かに戦況図を見つめていた。


「距離、二万五千を維持。

 針路変更、五度刻み。相手に測距の余裕を与えるな」


「了解」


 測距士官が答える。


「水上機より報告。

 英戦艦一、巡洋戦艦一。こちらを視認、だが雲のため航空攻撃不可」


 伊東は一瞬だけ口角を上げた。


「想定通りだ」


 伊豆の艦長からの信号が届く。


 ――『主砲準備完了。弾種、徹甲。初速規定値』


 伊東は頷いた。


「伊予、主砲装填。

 ――撃つのは、まだだ」


 砲塔内。

 九一式徹甲弾、一一〇〇キロ。

 装薬量は抑えられているが、初速は七八〇メートル毎秒。


 砲身は静かに仰角を取る。


「仰角、最大。

 射程、三万」


 砲術長が言った。


「命中率は?」


「低い。ですが――」


 砲術長は続けた。


「――当たらなくても、届きます」


 ⸻


 英艦隊。


「日本艦、発砲!」


 レパルスからの報告が入った。


「距離二万五千以上!

 ……撃ってきましたが、弾着は――」


 巨大な水柱が、プリンス・オブ・ウェールズの前方に立ち上がった。


「……遠いな」

 リーチは呟いた。


「まだ測距射でしょう」


 だが、次の瞬間。


「二斉射目――来ます!」


 今度は、艦の左右に水柱が上がった。

 距離は、急速に詰められている。


「修正が早い……」


 砲術長が息を呑む。


「三連装砲で、こんな速度で弾着修正を?」


 副長が言う。


「偶然だ。たまたま、だろう」


 リーチは答えなかった。


 三斉射目。


 ――轟音。


 水柱が、艦の直前で弾けた。


「……当たりかけている」


 その事実が、艦橋に重く落ちた。


 ⸻


「こちらも撃て!」


 リーチの命令で、十四インチ砲が火を吹く。


 だが、弾着は遠い。


「距離が……届きません!」


 砲術長が叫ぶ。


「最大仰角でも、二万三千が限界です!」


 リーチは、初めて唇を噛んだ。


「……距離を詰めろ。最大戦速」


 プリンス・オブ・ウェールズは増速した。


 だが――。


「相手も増速!」


「距離、変わらず!」


 伊予型は、三十ノットで余裕を持って距離を保っていた。


 ⸻


 伊予、艦橋。


「英艦、距離を詰めようとしています」


 伊東は冷静に答える。


「詰めさせるな。我々は“殴れる距離”でしか戦わない」


「主砲、四斉射準備完了」


 伊東は短く命じた。


「――撃て」


 四斉射。


 次の瞬間。


「命中――!」


 測距員の声が跳ねた。


「プリンス・オブ・ウェールズ、艦首前方、近接弾! 装甲帯外、水線上!」


 水柱と破片が、英戦艦の艦首を洗った。


 致命傷ではない。

 だが――。


「当たった……」


 英艦橋に、凍りつくような沈黙が走った。


 ⸻


 それは、まだ始まりにすぎなかった。


 だがこの瞬間、東洋艦隊の誰もが、はっきりと理解した。


 ――この戦艦は、“届かないはずの距離”からこちらを殴ってきている。


 歴史は、ここで最初の一歩を踏み外した。

 

「……伊豆が来ます」


 伊予の艦橋で、通信士が短く告げた。


 雲の切れ間から、もう一つの影が現れる。

 伊予とほとんど同じ艦影。

 同じ異様な前部集中配置、同じ二基の三連装砲。


 伊東艦長は、腕時計に視線を落とした。


「時間通りだな」


 伊豆の艦長から、簡潔な信号。


 ――『射撃準備完了。距離、二万四千八百』


「よし」


 伊東は静かに命じる。


「伊豆は左舷側、英巡洋戦艦を担当。

 伊予は引き続き主力戦艦を抑える」


 作戦は単純だった。

 距離を支配し、火力を分ける。


 それだけで、この戦場は日本側のものになる。


 ⸻


 プリンス・オブ・ウェールズ、艦橋。


「……もう一隻来ました」


 測距員の声が震えていた。


「伊予型、二隻です」


 リーチ艦長は、双眼鏡を下ろさなかった。


「同型艦か……」


 副長が唾を飲む。


「両艦とも、距離二万五千前後を維持。

 こちらが動くと、完全に同調します」


 砲術長が苛立ちを露わにする。


「距離が……測れません。

 雲のせいで測距儀が安定しない」


「日本艦は?」


「……弾着修正が、異常に早い」


 その一言で、艦橋の空気が変わった。


「異常、とは?」


 砲術長は、言葉を選びながら答えた。


「まるで、こちらの位置を先に知っているようです」


 ⸻


 答えは、伊予の後部甲板にあった。


 射出された水上機が、雲の下を這うように飛び、

 断続的に弾着を報告していた。


 高度は低い。

 だが、雲量十の空では、それで十分だった。


「水上機より報告。

 プリンス・オブ・ウェールズ、微速左旋回」


 伊東は頷く。


「修正、二度右。仰角そのまま」


 伊予の主砲が、再び吠えた。


 ⸻


「伊豆、発砲!」


 今度は、レパルスの周囲に巨大な水柱が立ち上がる。


「……近い」


 レパルス艦長テナントは、歯を食いしばった。


「距離は?」


「二万四千五百……いや、二万五千!」


「そんな距離で、三連装砲を――」


 言葉が途切れた。


 次の斉射で、

 一発が艦尾近くに落下した。


 衝撃で艦が震える。


「水線下被害、なし!

 だが、衝撃が強すぎる……!」


 テナントは理解した。


 ――これは、威嚇ではない。

 ――確実に、狙っている。


 ⸻


 英艦隊司令部。


「これは……想定外です」


 参謀が声を落とした。


「伊予型、射程が我々の想定を超えています」


 レイトン中将は、黙って戦況図を見つめていた。


 二本の矢印。

 伊予と伊豆。

 その先端は、常に英艦隊の外周をなぞっている。


「……距離を詰めることも、離れることもできない」


 中将は、低く呟いた。


「日本は、戦場の半径を支配している」


 それは、砲戦の前提が崩れたことを意味していた。


 ⸻


 プリンス・オブ・ウェールズ。


「こちらの砲弾は、届かない。

 向こうの砲弾は、届く」


 副長が言った。


「このままでは、一方的に削られます」


 リーチ艦長は、苦渋の決断を迫られていた。


「……距離を詰めるしかない」


「ですが」


「分かっている」


 リーチは静かに言った。


「我々は、不利な距離で戦っている。

 ならば、不利を承知で賭けるしかない」


 最大戦速。


 艦が震え、速度が上がる。


 だが――


「相手も、まだ余裕があります!」


 砲術長の声が、もはや叫びに近い。


「三十ノットで、安定して追随しています!」


 伊予型は、限界で走っていなかった。


 ⸻


 伊東は、英艦の動きを見て、わずかに目を細めた。


「来るな」


「はい」


「ならば――」


 伊東は、伊豆へ信号を送る。


 ――『距離、維持。英巡洋戦艦、集中』


 伊豆の砲塔が、レパルスを捉える。


 三連装二基、六門。


「伊豆、斉射開始」


 轟音。


 弾着が、完全に艦を挟み込む。


「命中は……?」


 一瞬の沈黙。


「……至近弾二。

 艦尾、操舵に異常発生!」


 テナント艦長は、艦が応答しないことを悟った。


「舵が……効かない?」


 その瞬間、彼は理解した。


 ――逃げられない。


 ⸻


 この時点で、

 英艦隊の誰もが、はっきりと感じていた。


 これは、

 ・性能差ではない

 ・勇敢さの差でもない


 戦い方そのものが、違う。


 伊予型は、

「当たる距離」ではなく、

「相手が当たらない距離」を基準に戦っていた。


 それは、誰も想定していなかった戦艦の使い方だった。


 レパルスは、もはや「艦隊の一部」ではなかった。


 操舵不能。

 速力低下。

 艦はわずかに左へ流れ、隊形から外れていく。


「舵応答なし……応急操舵も効きません!」


 操舵室からの報告が、艦橋に突き刺さる。


 テナント艦長は、即座に理解した。

 これは機械の問題ではない。


「……舵軸か」


 副長が顔を青くする。


「至近弾の衝撃で、歪められた可能性があります」


 三万トン級の艦であっても、

 一一〇〇キロの砲弾が水中で爆ぜれば、

 その衝撃は装甲を介さずに骨組みを壊す。


「速力は?」


「二十四ノット……二十二……下がっています」


 テナントは、歯を食いしばった。


「プリンス・オブ・ウェールズに信号。

 ――我、操舵不能。支援を求む」


 信号が送られる。


 だが、その返答は――遅れた。


 ⸻


 プリンス・オブ・ウェールズ、艦橋。


「レパルス、操舵不能とのことです」


 副長の声に、リーチ艦長は即座に振り返った。


「……しまった」


 それは、戦場で最も聞きたくない報告だった。


「距離は?」


「伊豆が、完全に捕捉しています」


 砲術長が言う。


「日本戦艦、距離二万四千。

 ――依然、こちらの射程外です」


 沈黙。


 艦橋の誰もが、同じことを考えていた。


 助けに行けば、自分が撃たれる。

 行かなければ、味方が沈む。


 リーチは、深く息を吸った。


「……我々が前に出る」


 副長が息を呑む。


「距離を詰めます。

 全速前進、伊豆に向けて針路変更」


 それは、覚悟の命令だった。


 ⸻


 伊予、艦橋。


「英主力戦艦、針路変更。

 こちらへ向かってきます」


 伊東艦長は、即座に判断した。


「プリンス・オブ・ウェールズが出てきたな」


「距離は、縮まります」


「構わん」


 伊東は静かに言った。


「伊豆はレパルスを仕留めろ。

 伊予は、英戦艦を抑える」


 命令は短く、明確だった。


 ⸻


 伊豆、砲塔内。


「目標、レパルス。

 仰角調整、修正完了」


 砲術長の声が、冷静に響く。


「六門、斉射準備」


 伊豆の主砲は、

 三連装二基、六門すべてが同時に火を噴いた。


 轟音。

 艦が震える。


 次の瞬間――


「命中!」


 艦橋が揺れ、照明が一瞬消えた。


「艦尾被弾!

 装甲甲板貫通、後部機関室浸水!」


 レパルスは、大きく傾いた。


 速度が、急激に落ちる。


「二十ノット……十八……」


 テナントは、もはや声を荒げなかった。


「……よくやったな」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からない。


 ⸻


 さらに、第二斉射。


 今度は――

 砲塔付近。


「後部砲塔、沈黙!」


 火炎と黒煙が吹き上がる。


「弾薬庫、無事!

 だが、砲塔は使用不能!」


 副長が叫ぶ。


 だが、それはもはや、意味をなさなかった。


 艦は止まりつつあった。


 ⸻


「……総員に告ぐ」


 テナントは、艦内放送を入れた。


「本艦は、戦闘能力を失った。

 各自、持ち場を守れ。

 ――最後まで、任務を果たす」


 それが、艦長としての最後の命令だった。


 ⸻


 伊豆、艦橋。


「レパルス、停止。

 沈没は時間の問題です」


 伊豆艦長は、短く答えた。


「確認。

 ――次、プリンス・オブ・ウェールズ」


 だが、その瞬間。


「伊予より信号!」


 通信士が声を上げる。


 ――『英戦艦、距離二万三千。

 こちらへの砲撃開始を確認』


 ⸻


 伊予の周囲に、水柱が立ち上がる。


「……近い」


 測距員が言った。


「英戦艦、ようやく届かせてきました」


 伊東は、初めて表情を引き締めた。


「だが、遅い」


 伊予の砲塔が、静かに旋回する。


 ⸻


 プリンス・オブ・ウェールズ、艦橋。


「レパルス……沈みます」


 副長の声は、震えていた。


「……日本戦艦一隻に、

 巡洋戦艦が――」


 リーチは、目を閉じた。


 それは、

 戦力の損失以上に、

 誤りの証明だった。


「……撤退か」


 誰かが、呟いた。


 だが、その言葉は、誰にも拾われなかった。


 なぜなら――

 すでに、日本の主砲は、

 こちらを完全に捉えていたからだ。


 プリンス・オブ・ウェールズは、ついに“殴れる距離”に入った。


 距離、二万三千。

 十四インチ砲の弾道が、ようやく意味を持ち始める。


「主砲、斉射!」


 艦橋を震わせ、英戦艦の砲が火を吹いた。

 重い反動。

 観測員が息を詰める。


 ――水柱。


 伊予の前方、やや左。

 確かに近い。


「……当たるぞ」


 誰かが呟いた。


 ⸻


 伊予、艦橋。


「弾着、近い」


 測距員の声は冷静だった。


「だが、修正は遅い」


 伊東艦長は即座に判断する。


「相手は“初めて届かせた”。

 ――だが、こちらはもう“慣れている”」


「主砲、斉射準備完了」


 伊東は一拍置いた。


「……撃て」


 伊予の主砲、六門が同時に咆哮した。


 ⸻


 その弾着は、これまでとは違った。


 水柱ではない。

 黒煙と、火炎。


「命中――!」


 観測員の声が跳ねる。


「プリンス・オブ・ウェールズ、艦首装甲帯!

 上部装甲、貫通確認!」


 伊東は、短く息を吐いた。


「……抜いたか」


 一一〇〇キロの徹甲弾が、

 高速で落下し、

 水線上、装甲帯と甲板の境目を抉った。


 ⸻


 プリンス・オブ・ウェールズ。


 衝撃が、艦を縦に揺らした。


「第一砲塔、衝撃!」


「装填停止!

 油圧低下!」


 艦首区画に、黒煙が広がる。


「浸水、制御不能……!」


 副長の声が、明らかに切迫していた。


 リーチ艦長は、歯を食いしばる。


「……続けろ。

 まだ撃てる」


 だが、その直後。


 第二斉射。


 今度は――

 艦橋基部近く。


 爆風が、装甲を叩き、

 通信が一瞬、途絶えた。


「通信断!」


「測距不能!」


 艦橋が、混乱に包まれる。


 ⸻


 伊予は、距離を崩さない。


 速力三十ノット。

 わずかに進路を変え、

 常に英戦艦の“外周”を回り続ける。


「相手、旋回遅れ」


 測距員が告げる。


「舵応答が鈍っています」


 伊東は、伊豆へ信号を送った。


 ――『伊豆、英戦艦を挟め』


 伊豆は、即座に応じた。


 ⸻


 伊豆の主砲が、

 プリンス・オブ・ウェールズの側面を捉える。


 斉射。


 次の瞬間。


「命中!」


 側面装甲に当たった弾は、

 完全貫通こそしなかったが、

 内部で破片嵐を生み出した。


「副砲区画、壊滅!」


「火災発生!」


 英戦艦の戦闘能力は、

 明確に落ちていった。


 ⸻


「……撤退だ」


 リーチ艦長は、ついにそう命じた。


「全艦、反転!」


 だが――


「舵、応答が遅れます!」


「速力、低下!」


 伊予型は、すでにそれを見越していた。


 距離は、二万四千を維持したまま。


 逃がさないが、詰めない。


 確実に、終わらせる距離。


 ⸻


 三斉射目。


 伊予の弾が、

 プリンス・オブ・ウェールズの後部甲板に落ちた。


 装甲甲板を抜き、

 内部で爆ぜる。


「機関室被害!」


「蒸気圧低下!」


 艦は、目に見えて減速した。


 二十ノット――

 十八――

 十六。


「……もう、無理だな」


 リーチは、静かに呟いた。


 ⸻


 伊東は、双眼鏡を下ろした。


「英戦艦、停止に近い」


「撃沈、確認まで?」


 副官が問う。


 伊東は、少しだけ考えた。


「……最後までやる」


 それは、感情ではなかった。

 戦争としての判断だった。


 ⸻


 最終斉射。


 伊予と伊豆、

 それぞれの主砲が、

 同時に火を噴いた。


 二方向からの弾着。


 その一発が、

 プリンス・オブ・ウェールズの弾薬庫近傍で爆ぜた。


 ――轟音。


 黒煙が、雲を突き抜ける。


 艦は、大きく傾き、

 やがて、静かに止まった。


 ⸻


 戦場に、音が消えた。


 雲は、相変わらず低い。


 伊予、艦橋。


「英戦艦、沈没確認」


 伊東は、深く息を吐いた。


「……距離を守った。

 それだけだ」


 伊豆から、短い信号。


 ――『任務完了』


 ⸻


 この戦いは、

 ・奇策でも

 ・幸運でも

 ・技術の暴走でもなかった。


 思想の勝利だった。


「戦艦は、殴り合うもの」

 という常識が、

 この日、静かに沈んだ。


 その報は、最初は誤報として扱われた。


 ロンドン海軍本部。

 当直将校は、電文を読み、もう一度読み返した。


 プリンス・オブ・ウェールズ、沈没確認

 レパルス、同

 交戦距離 二万五千メートル以上


「……距離が、おかしい」


 彼はそう呟き、上官に回した。


 数時間後、

 “おかしい”は“異常”に変わり、

 やがて“事実”として認識される。


 会議室に、誰も声を出す者はいなかった。


「航空攻撃ではない」

「夜戦でもない」

「雷撃でもない」


 参謀長が、低く言った。


「――戦艦同士の砲戦です」


 沈黙。


「しかも、日本の戦艦は二隻。

 こちらは主力艦二隻を失っています」


 誰かが、ようやく口を開いた。


「……伊予型、ですか」


 その名が出た瞬間、

 会議室の空気が、わずかに揺れた。


 かつて、

 “計算倒れの条約型戦艦”

 “机上の空論”

 と呼ばれた艦。


「距離を支配された、ということか」


 第一海軍卿は、ゆっくりと椅子に身を沈めた。


「……我々は、戦艦の使い方を誤っていたのかもしれん」


 ⸻


 ワシントン。


 アメリカ海軍作戦部は、

 日本から発せられたわけでも、

 イギリスから届いたわけでもない――

 第三者的な戦闘解析を、淡々と積み上げていた。


「三連装十六インチ砲×二基」

「射程、三万以上」

「速力、三十ノット」

「装甲、集中防御」


 分析官が言う。


「無茶な設計です。

 だが……理屈は、通っている」


 別の士官が続けた。


「重要なのは、性能そのものではありません」


「戦術ですか?」


「ええ」


 彼は、戦況図を指でなぞった。


「伊予型は、

 “当てるために近づいた”のではない。

 “当たらないために、距離を保った”」


 静かなざわめき。


「我々は、戦艦戦を

『どこまで近づけるか』で考えていた。

 彼らは、『どこまで離れられるか』で考えた」


 その違いは、

 もはや設計思想の差ではなかった。


 戦争観の差だった。


 ⸻


 日本。


 公式発表は、極めて淡々としていた。


 帝国海軍は、

 南方海域において敵主力艦隊を迎撃し、

 所要の戦果を得たり。


 艦名は、最小限。

 戦術的説明も、ない。


 だが、世界は理解していた。


「伊予」

「伊豆」


 その二隻が、

 条約の枠内で、

 世界の常識を沈めたことを。


 ⸻


 伊予、帰投中。


 甲板に立つ伊東艦長は、

 荒れた海を見つめていた。


「世界が、騒がしいでしょうな」


 副官が、そう言った。


「でしょうな」


 伊東は、ただそれだけ答えた。


「我々は、何かを変えてしまいましたか」


 しばらく、沈黙。


 やがて、伊東は言った。


「いや。

 変わる準備ができていなかったものが、

 露わになっただけだ」


「戦艦は、

 近づいて殴り合うものだ――

 そう信じられてきた」


 伊東は、艦首を見た。


 前に寄せられた二基の巨大な砲塔。

 笑われ続けた配置。


「だが、

 殴られない位置から殴れるなら、

 それが最適解だ」


 副官は、静かに頷いた。


 ⸻


 世界の軍事誌は、

 数週間後、表紙を改めた。


『伊予型――距離を支配する戦艦』

『条約は、思想を縛れなかった』

『戦艦戦の終焉ではない。再定義だ』


 嘲笑は、消えていた。


 代わりにあったのは、

 理解しようとする沈黙だった。


 そしてその沈黙こそが、

 伊予型が世界に残した、

 最大の戦果だった。

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