第89話 終幕――そして、世界はまだ終わらない
◆ブラストリア城・南側城壁上◆
風が、城壁を撫でていた。
夜の冷たさをまだ引きずった空気の中で、
空だけが、ゆっくりと薄青に染まっていく。
ヴァレンティスは、城壁の上に立っていた。
背後では――
人々の声が、絶えない。
食料。
矢。
武具。
住居区の割り振り。
オルフェンの報告は、すでに終わっている。
再会。
荷運び。
治療。
再編。
失ったものは、戻らない。
それでも――
城は、確かに息を取り戻していた。
ゆっくりと、息を吐く。
その時――
わずかに、視線が止まる。
城の外。
南城門の向こう。
閉ざされた跳ね橋。
その手前、立て札の前に――一騎。
白馬。
そして、その上の男。
鎧は着けていない。
胸元を大きく開いた、純白の絹シャツ。
外套は、ただ無造作に羽織られているだけ。
朝の光を受けて、
銀砂を溶かしたような長い髪が揺れていた。
(……?)
ただ、見ている。
男は、馬上から立て札を読んでいた。
――新城主が決まるまで、城門は閉鎖する。
黒帝軍の書式に合わせた、偽装の文面。
瑠璃色の瞳が、わずかに細まる。
その時――
ふわり、と。
風に乗って、香りが届いた。
甘い。
冷たい。
場違いなほどに上品な、
バニラとアンバー。
男が、ゆっくりと顔を上げる。
城壁の上。
ヴァレンティスと、目が合う。
沈黙。
長いようで――一瞬。
だが、その一瞬で分かる。
――異物だ。
城壁の上から、
黒帝兵に見下ろされれば、
何かしらの反応がある。
敬礼。
困惑。
警戒。
あるいは、怯え。
だが、この男には――何もない。
ただ、見ている。
感情のない瞳で。
そして――
ほんのわずかに、右の口角が上がった。
「……俺の顔を見ても、無反応か」
独り言のように、落ちる声。
黒帝兵なら、八将の顔を知らぬはずがない。
それでも、何も起きない。
ヴァレンティスは、視線を外さない。
男は、もう一度だけ城門を見上げ――
「まあ、いい」
淡い声。
「グラが死んだなら、貸した金はもう戻らんな」
一拍。
「……つまらん」
それだけ。
白馬が、くるりと向きを変える。
躊躇はない。
未練もない。
怒りもない。
――ただ、静かに。
それが、逆に不気味だった。
朝の道を、白馬が去っていく。
乾いた蹄の音が、遠ざかる。
その背を――
ヴァレンティスは、黙って見送る。
城壁の上に風が吹く。
甘い香りだけが、わずかに残った。
目を細める。
「……いずれ来るな」
それは予感ではない。
――確信だった。
城は、
ようやく温もりを取り戻した。
だが――
まだ、何ひとつ終わっていない。
去っていく白は、
まるで――次の災厄が、
静かに“時”を待っているかのようだった。
――◇―― ――◇――
◆山深き渓流――夜明け前◆
同じ頃。
山深き渓流のほとり。
空の光は届かず、
森は、深い影の中に沈んでいた。
風はない。
ただ――
水の音だけが、流れている。
ごう……
ごう……
人の手の届かぬ場所。
その川辺に――“それ”はいた。
黒い巨躯。
人の形。
その手に握られているのは――巨大な獣。
熊に似ている。
だが、二回りは大きい。
その足首を片手で掴み、
ずるり、と引きずる。
重さなど、ない。
熊のような頭が、岩に当たる。
ゴリッ。
それでも、止まらない。
水際へ。
浅瀬へ。
血が、水に落ちる。
赤が、ゆっくりと流れていく。
しゃがむ。
そして――
喰らう。
バキッ。
骨が砕ける。
肉が裂ける。
「……グル……」
また、喰らう。
それが、すべて。
だが――
その奥に。
消えきらないものが、ある。
誰にも見えない場所で。
誰にも届かない場所で。
それでも――確かに、残っている。
◇
かつて。
王国最強と呼ばれた剣。
王都のライオン。
ライザリオン・エルデンハート。
その名を、
いま、呼ぶ者はいない。
だが。
“人だった何か”が、
その奥底で、
まだ、消えていない。
それだけが――
この存在を、
完全な怪物にしきれていなかった。
だが。
魔獣を喰らわず、
ただの肉を喰らい続ければ――
内側で、何かが削れていく。
力か。
理性か。
あるいは――
その両方か。
誰にも分からない。
――◇―― ――◇――
五年前。
世界は、二つに割れた。
光と絶望が、境界を引かれたあの日から――
世界は、すべてを拒み続けている。
兄を失い、
その影を追って、
ロザリーナは旅に出た。
その道の途中で、
砦の人々と出会い、
守るべきものを知った。
ルドグラッド砦は、落ちた。
失われたものは、あまりにも多い。
それでも――
王は、城へ還った。
民は、再び火を灯しはじめた。
名前も持たぬような小さな命たちが、
もう一度、明日を選び始めた。
*
この絶望世界の覇者。
黒帝軍を率いる帝王――
ザイラス・オズグリア。
世界の獣界化を目論み、
退屈そうな顔で、
すべてをひれ伏させる者。
*
北の果て。
ブルームロア。
谷と民を守る若き王――
レヴァン・サフィール。
*
奇跡の中で――
失われた城へ還った王。
ヴァレンティス・ブラストリア。
彼が願うのは、
王の威光でも、
王族の誇りでもない。
ただ一つ。
――人が、人として在れる場所を。
*
英雄も。
伝説も。
名も。
すべてを失い。
人を外れながらも――
なお、どこかに残るものを抱えた存在。
ライザリオン・エルデンハート。
*
そして――
その兄の残響を追う、
ただ一人の剣。
ロザリーナ・エルデンハート。
◇
いま――
同じ空の下で。
それぞれの場所で。
それぞれの理由で。
動き始めている。
まだ、交わらない。
だが――
いずれ。
必ず。
世界のすべてを巻き込みながら、
その軌跡は――
ひとつへと収束していく。
抗う者。
支配する者。
守る者。
失われかけた者。
そのすべてが――
同じ“終わり”へと向かっている。
それが、
希望になるのか。
それとも――
さらなる絶望になるのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ一つだけ。
確かなことがある。
この物語は――
まだ、終わっていない。
✦✦✦ 【第4⃣幕終了】 ✦✦✦
――◇―― ――◇―― ――◇―― ――◇―― ――◇――
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
◆◇◆
物語はここまで――
【第1⃣幕 序章:静かなる残響の夜明け】
【第2⃣幕 破章:ルドグラッド砦の攻防】
【第3⃣幕 急章:砦の攻防決着、そしてその先へ】
そして――
【第4⃣幕 転章:王の帰還、反撃の足掛かり】
四つの流れを経て、
パート1
【失われた王都――還る王、還らぬ兄】は、
ひとまずの幕を下ろします。
――だが。
世界は、何一つ終わっていません。
取り戻したのは、
ほんのわずかな“足場”に過ぎない。
それでも。
それでも――
確かに、ここに火は残った。
それが、抗う者たちの物語です。
◆◇◆
この先の物語は、パート2へと続きます。
少しだけ、時間をいただきますが――
また、この世界でお会いできることを願っています。
◆◇◆
――まだ、終わらない。
霧原零時




