第88話 家族の肖像――止まっていた約束の行方
◆ブラストリア城・住居区◆
朝の光が、
石畳の通りを淡く照らし始めていた。
戦の匂いは、
まだ、完全には消えていない。
五年間、
息を止めていた石造りの家々は、
誰に起こされることもなく、
深い眠りの中にあった。
だが――いま。
扉が開く音。
足音。
笑い声。
泣き声。
――人の気配が、
凍りついた町に、少しずつ熱を戻していく。
誰かが、名を呼ぶ。
返事が、遅れて返る。
それだけで、
そこに“人がいる”と分かる。
失われていた“暮らし”が、
剥がれ落ちた壁の隙間から、
ゆっくりと形を取り戻し始めていた。
*
その一角。
古いが、まだ使える二階建ての家の前。
ガルデンが、腕を組んで立っていた。
その前には――
アズ。
ポコラン。
そして、二人分より、少し多い荷物。
布袋。
木箱。
毛布。
武具。
戦場の残骸と、
これからの生活を繋ぐもの。
ガルデンが、低く言った。
「……よし」
一拍。
「ポコランは、今日からここで暮らせ」
沈黙。
ポコランの目が、ゆっくり瞬く。
「……え?」
「聞こえんかったか」
「い、いや……聞こえましたけど……」
戸惑い。
視線が、アズへ向く。
アズもまた、目を丸くしていた。
「……うち?」
「うちじゃ」
即答。
「部屋は空いておる」
「食事も、三人分でも大差なかろう」
「いや大差あるでしょ」
即ツッコミ。
「おじいちゃん、ポコランめっちゃ食べそうだし」
「食べません!!」
ポコランが慌てて否定する。
「いや、食べるかもしれないけど、今はそこじゃなくて!」
「そこも大事じゃろう」
ガルデンは真顔だ。
「育ち盛りが二人もおる家は、兵糧の減りが早い」
「ちょっと待って、私も消費枠!?」
「違うのか?」
「違わないけど違う!!」
「何を言っとるんじゃお前は……」
額を押さえるガルデン。
ポコランは、まだ固まっている。
「あ、あの……でも、僕……」
ボロボロの靴。
その足元に、視線が落ちる。
「いいのかな……」
小さな声。
「その……僕、ずっと一人だったし……」
言葉が、途切れる。
「家族とか、家とか……」
喉が詰まる。
言い慣れていない言葉だった。
沈黙。
ほんの少しだけ、空気が落ちる。
――その時。
「あるでしょ」
あっさりと。
アズが言った。
ポコランが顔を上げる。
「ここに」
一拍。
ガルデンも、静かに頷く。
「お前の家族も、家も――ここにあるわい」
言い切る。
逃げ場を与えない言い方。
だからこそ、優しい。
ポコランの喉が、ひくりと鳴る。
「でも……」
不器用な遠慮。
言いかけた、その言葉を――
アズが遮った。
腰に手を当てる。
じっと見る。
「私と一緒に住むの、嫌?」
「えっ」
ポコランの顔が、一瞬で赤くなる。
「い、嫌じゃない!!」
即答。
間。
「あっ」
言ってしまって、自分で固まる。
アズの瞳が悪戯っぽく、細くなる。
「……ふーん?」
「ち、違う!
そういう意味じゃなくて!!」
「そういう意味って、どういう意味?」
「だからそれを聞くなって!!」
「聞くっ!」
ポコランが後ずさる。
アズが一歩詰める。
ポコランの背中が、
家の壁にドンと当たった。
完全に追い詰められている。
その様子を見て――
「……わっはっはっはっ!!」
ガルデンが、とうとう吹き出した。
低く。
だが、確かに笑った。
戦場では決して見せなかった老将の顔。
「……まあよい」
二人に背を向ける。
歩き出しながら、ぽつりと。
「これからは」
小さな間。
咳払い一つ。
「――家族じゃ」
低く。
だが、優しく。
十五と十六の言い合い。
それを、背で聞き流す老将。
その光景は――
この城が、
“人の戻る場所”になり始めた証だった。
――◇―― ――◇――
◆ブラストリア城・一室◆
主塔の二階。
南側。
東の空に登った陽は、
まだこの部屋までは届いていない。
薄暗い石造りの室内に、
窓から入り込む朝の風だけが、
白い薄布をかすかに揺らしていた。
寝台の上。
紅い髪のベニバラが、静かに眠っている。
包帯。
血の滲んだ胸元。
肩に吊られた左腕。
肋骨を固定するように巻かれた白布。
眠りは浅い。
眉が、ときおりわずかに寄る。
夢を見ているのだと分かった。
その寝台の脇。
椅子に腰を下ろしたまま、
一人の巨躯が、じっと動かずにいた。
長く伸びた黒い髪と顎髭。
左目には、白布の隻眼帯。
ジーク・ヴァイスハイム。
屈強な上半身には、
簡素な布しか纏っていない。
背に残る無数の鞭痕。
牢で刻まれた五年が、
そのまま身体に焼きついていた。
だが――
紫を帯びた鋭い瞳だけは、眠っていない。
ただ、寝台の上の紅を見ていた。
長い沈黙。
窓の外。
戻ってきた人の声。
荷車の軋み。
城が、息を取り戻し始めている。
だが、この部屋の中だけは――
まだ、時間が遅い。
*
夢の中で。
白い石畳。
午前の光。
高い城壁。
深銀の外套。
振り返らない、大きな背中。
「……死なないで……」
あの時、確かに言った。
鎧越しの体温。
背から回した腕。
返ってきた、短い約束。
――すぐに終わらせる。
――そして、皆を迎えに行く。
あの時のジークは、まだ笑っていた。
まだ、城は落ちていない。
まだ、冗談が生きている。
まだ――
信じることに、痛みがなかった。
その背に、手を伸ばす。
届く。
届くはずだった。
だが――
遠ざかる。
深銀の外套が、霧の向こうへ消えていく。
「先生――」
*
瞼が、震えた。
紅の瞳がゆっくりと、開く。
滲んだ視界。
光。
影。
大きい。
座っている。
人。
息が、止まる。
焦点が、ゆっくりと結ばれていく。
頬の傷。
黒い髪。
無精髭。
そして――片方だけになった目。
ベニバラの唇が、わずかに動いた。
「……えっ……?」
掠れた声。
夢の続きだと思った。
そうでなければ、説明がつかない。
死んだはずの背中。
五年間、何度も思い出した男。
それが、今――目の前にいる。
ジークが、わずかに顔を上げる。
紫の瞳が、ベニバラを捉える。
一拍。
「起きたか」
低い声。
それだけで、分かってしまう。
――現実だ。
ベニバラの喉が、ひくりと鳴る。
右肘をつき、半身を起こす。
「……どうして……」
問いは、最後まで形にならない。
怪我の痛みも感じない。
――混乱。
どうして生きているのか。
どうしてここにいるのか。
どうして今まで迎えに来なかったのか。
その全部が、喉の奥で絡まる。
ジークは、視線を落とした。
「シャーロット」
――その呼び方。
自分をそう呼べる者は、
一人しかいない。
あの日以来、
他の誰にも呼ばせなかった、
その名前。
「……すまなかった」
短く。
だが――
言葉を吐くまでに、
ほんの一瞬だけ、
間があった。
それがすべてだった。
ベニバラの目が、
わずかに見開かれる。
「五年前」
ジークが続ける。
「皆を迎えに行けなかった」
部屋の空気が、静かに沈む。
言い訳はない。
取り繕いもない。
ただ、事実だけを置く声だった。
ベニバラは、何も言えない。
言葉が、形を成さない。
責めたかったはずなのに。
問いたかったはずなのに。
夢の中で、何度も。
心の中で、何度も。
それでも。
目の前にいるこの男の、
失った五年間を、
過酷だった五年間を、
その身体が、すべてを語っている。
沈黙。
長い。
窓の外で、風が鳴る。
やがて、ベニバラが小さく息を吸った。
「……ううん」
小さく、首を振る。
紅い髪が、額にかかる。
「生きていてくれただけで……」
それ以上は、言えない。
言えば、崩れる。
師として。
総将として。
失ったと思っていた人として。
そのどれでもあり、
そのどれでも足りない想いが、
喉の奥で絡まっていた。
ジークは、答えない。
ただ――
ほんのわずかに、口元が動いた。
一拍。
呼吸が、わずかに乱れる。
「……遅くなったな」
それだけ。
ベニバラの目が、揺れる。
右手が、わずかに持ち上がる。
伸ばす。
その手は、
ジークの頬に触れる寸前で――止まった。
震えている。
師として触れたいのか。
失ったと思っていた人として触れたいのか。
それとも、そのどちらでもないのか。
自分でも、分からない。
一瞬。
そして。
その手は、下りた。
代わりに――
ジークの胸元の布を、軽く掴む。
強くはない。
だが、離さない。
「……ほんとに……」
掠れた声。
「ほんとに――」
一拍。
喉が震える。
「……遅かったよ」
責める響きは、薄い。
その奥にあるのは、
責めたかったはずの五年と、
責めきれなかった五年だった。
ジークは、動かない。
ただ、受けとめる。
一拍。
そして――
ゆっくりと手を上げる。
迷いがあった。
ほんの、一瞬だけ。
だが。
その手は、
ベニバラの頭に、そっと触れた。
撫でるでもなく。
抱くでもなく。
ただ、そこに“居る”ということを。
それをしっかりと確かめるように。
「お前も……よく、生き延びた」
低い声。
変わらない。
あの頃と同じ、師の声。
ベニバラの呼吸が、止まる。
次の瞬間。
力が、抜けた。
額を、ジークの胸に預ける。
音はない。
涙が、零れだす。
ただ――
張り詰めていた何かが、
静かにほどけていく。
ジークは、動かない。
抱きしめない。
離さない。
ただ、そこにいる。
それだけ。
それが、
この男の“約束の続き”だった。
窓の外。
朝の光が、ゆっくりと差し込む。
白い薄布が揺れる。
遠くで、人の声。
戻ってきた城の音。
その中で――
二人の時間だけが、
ようやく、五年越しに繋がった。
「シャーロット」
「……なに」
低く、短く。
「次は遅れん」
それは約束だった。
五年前、
果たされなかった約束を、
今のこの男が、
もう一度拾い上げるような。
ベニバラが、泣きながら笑った。
失われた五年は、戻らない。
だが――
失われなかったものは、
確かにここにあった。
師と弟子。
置き去りにされた約束。
そして――まだ折れていない剣。
部屋の中に、静かな時間が流れる。
誰も急かさない。
誰も壊さない。
それは、
戦いの合間にようやく訪れた――
二人だけの、遅すぎた再会だった。




