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第87話 還る場所――繋がり始めた命の証明

◆ブラストリア城・南側城壁上◆


朝。


夜の名残が、

わずかに空に溶けている。


東の空は、まだ淡い。


だが――

確かに、光は戻ってきていた。


ヴァレンティスは、

城壁上の縁に立っていた。


風が吹く。


冷たい。


だが、昨日までとは違う。


血の匂いを、


ほんのわずかに、押し流していく風。


背後から、足音。


「……陛下」


オルフェンの声。


ヴァレンティスは、振り返らない。


「城内備蓄の途中報告ですが」


一拍。


「ブラストリア城内に残存していた食料、

 及び砦からの回収分を含め――」


「待て」


ヴァレンティスが遮る。


「……彼女の容体は?」


背を向けたままの、問い。


オルフェンが、わずかに目を上げる。


「将軍は、まだ昏睡――」


「いや」


遮る。


「ベニバラではない」


一拍。


オルフェンの口が、わずかに緩む。


「あ……」


理解した。


「ロザリーナさんは」


「手当ては済んでおります」


「意識もあります」


一拍。


「現在は、部屋で――子供たちと」


ほんの一瞬。


風が、止まったように感じた。


ヴァレンティスの肩が、


わずかに――緩む。


「……そうか」


一拍。


指が、わずかに止まる。


「良かった」


短い言葉。


だが、


そこには、命を一つ取り戻した重みがあった。


「ガルデン将軍の報告では――」


オルフェンが続ける。


「彼女がいなければ」


「逆に、こちらが詰んでいた可能性が高いと」


ヴァレンティスは、目を閉じる。


一拍。


「……こうして、父の城に戻れたのも」


「今、ここに立てているのも」


小さく。


「ベニバラたちにも、無理をさせたが――」


わずかに、息を落とす。


「彼女は、私の配下ではない」


さらに一拍。


「それでも、戦ってくれた」


静かに。


「……相当な無理を、強いたな」


その事実を、


誤魔化さない。


王として。


そして――


一人の人間として。


ヴァレンティスが顔を向ける。


「報告を――」


「はい」


オルフェンが、静かに頭を下げる。


「食料は、民の分も含めて半年以上は持ちます」


「牛や鶏の家畜も確認済み。

 空地に種をまけば、更に増産も可能です」


簡潔。


だが、確かな積み上げ。


「矢、弩、投石弾も十分」


「損傷した北側城門などを修復すれば、

 籠城戦にも、長期で耐えられます」


それは――


生き延びる準備が整ったということ。


「分かった」


ヴァレンティスは、軽く頷く。


そして――


城の外へ視線を戻した。


オルフェンが、一歩踏み出す。


「陛下」


呼ぶ。


ヴァレンティスが、視線だけで応じる。


「不敗の覇王、ザイラス軍に……勝ちましたな」


一言。


それだけ。


だが――


五年分の意味を持つ言葉。


沈黙。


風が、城壁を撫でる。


ヴァレンティスは、答えない。


ただ、外を見る。


やがて。


「……いや」


小さく。


「まだだ」


東の空。


淡い光。


そして――その先。


「勝つのは――これからだ」


一拍。


その言葉は、


誓いだった。


オルフェンは、何も言わない。


深く、頭を下げる。


「……失礼いたします」


踵を返す。


去っていく。


足音が消える。


城壁の上に残るのは、


王と――


これから背負うべき、

目の前にある世界だけだった。


――◇―― ――◇――


◆ブラストリア城・一室◆


主塔の三階。


石壁の部屋。

窓から、朝の光が差し込んでいた。


扉の脇に置かれた、

深い蒼の曲線的な軽鎧。

左腹に、ぽっかりと開いた小さな穴。


寝台の上。


ロザリーナが、静かに横になっている。


腹部には、厚く巻かれた包帯。

血は止まっている。


だが――


呼吸は浅い。

それでも、目は開いていた。


天井を、ぼんやりと見ている。


――静かだ。


戦場の音が、遠い。


「……つまんない顔してる」


不意に。


声。


ロザリーナの視線が、横へ動く。


そこに――


小さな三つの影。


村から逃げてきたダルパスの孫娘、クロノ。


夕食時に王の胸へ飛び込む、やんちゃなセス。


そして――


グラの村から救い出された、

緑の瞳の少女、イーサリア。


三人が、

同じポーズで腕を組み、

並んで立っていた。


真ん中のイーサリアが言う。


「……元気ないね」


両端の二人も。


「おねえちゃん、

 元気ない」


「ない! ない!」


間髪入れず、重なる声。


ロザリーナが、短く返す。


「……ある」


クロノが、寝台の横に顔を出す。


「ねえねえ、これ食べる?」


差し出されたのは、

少し潰れたパン。


セスが、横から覗き込む。


「ちょっと固いけど!

 おじいちゃんから貰って、

 馬車で食べてた残り」


ロザリーナは、

わずかに目を細めた。


ほんの、少しだけ。


「……あとで、もらう」


「いま食べなよ」


イーサリアが、じっと見ている。


逃がさない目。


まっすぐな、子供の目。


ロザリーナは、

ほんのわずかに息を吐いた。


「……分かった」


ゆっくりと、半身を起こす。


痛みで、動きが止まりかける。


それでも、


手を伸ばす。


受け取る。


小さな手から、


少し温もりの残ったパンを。


その時――


扉が、軽く叩かれた。


「失礼します」


入ってきたのは、ロートだった。


片手に、盆。


簡素なスープと、


切り分けられたパン。


「……やっぱり、

 何も食べてないと思いまして」


少しだけ、言いづらそうに。


「……ありがとう」


背を壁に預けたまま、


ロザリーナが、


膝の上で受け取る。


ロートは、


そこで言葉を止めた。


視線が、わずかに揺れる。


寝台の上。


包帯。


擦り傷だらけの、細い腕。


それでも、


崩れない姿勢。


(……やっぱり)


喉が、わずかに鳴る。


五年前。


王都北門第二隊。

まだ、剣も満足に振れなかった頃。


いつも前を走っていた背。


子供を救うために、

炎の中でも、

迷いなく踏み込んでいく背。


王家の血を引く、英雄兄妹。


妹――蒼の双剣。


――憧れ。


届かないと、知っていた。


最初から、

同じ場所に立てるとは思っていなかった。


それでも。


それでも――


(……追っていた)


あの背中を。


ずっと。


「……どうかした?」


ロザリーナの声。


はっとする。


現実に引き戻される。


「い、いえ!」


少しだけ、声が裏返る。


「その……」


言葉を探す。


何か、もっと。


伝えたいことは、あるはずなのに。


出てこない。


結局。


「……っ」

「……ご無事で、よかったです」


それだけ。


それしか、出てこなかった。


ロザリーナは、


少しだけ視線を落とす。


スープの湯気が、揺れる。


「……そうか」


短く。


だが、拒絶ではない。


ただ――


不器用な返し。


それでも。


(……十分だった)


ロートは、それで理解してしまう。


この人は、


変わっていない。


五年前と、


何も。


(……だから、このままでいい)


「では……失礼します」


ぎこちなく低い声。


踵を返す。


自分の気持ちが、表に出てしまわないように。


慌てて、扉へ向かう。


その背に――


「ロート」


呼ばれる。


止まる。


一瞬だけ、呼吸が止まる。


振り返る。


ロザリーナが、


パンを少しだけかじっていた。


「……ガルデンから聞いた」


一拍。


「砦で――

 ベニバラと王を守ったと」


さらに一拍。


ロザリーナの視線が、

まっすぐロートを捉える。


さらに一拍。


「今度は、

 ――私の背中も任せる」


それだけ。


だが――


ロートの目が、見開かれる。


言葉が、出ない。


喉が詰まる。


「……はっ」


それでも、


なんとか絞り出す。


深く、頭を下げる。


今度は、迷わず部屋を出た。


これ以上いると、

何かが溢れそうだった。


扉が閉まる。


――静寂。


おしゃべりなクロノが、ぽつりと言う。


「……あの人、おねえちゃんのこと好きだね」


「……?」


ロザリーナが、わずかに視線を向ける。


イーサリアとセスが、くすっと笑う。


「でもさ」


イーサリアが言う。


「おねえちゃん、

 さっきより、ちょっと元気そう」


セスも頷く。


「うん、うん」


ロザリーナは、何も言わない。


ただ――


パンを、もう一口かじる。


ゆっくりと、噛む。


飲み込む。


窓の外。


城の中から、声が上がる。


人の声。


笑い声。


泣き声。


生きている音。


ロザリーナの指が、


わずかに止まる。


視線は、窓の外。


「私は……」


一拍。


「……守れた、の、かな」


誰に聞かせるでもなく。


小さく、呟く。


ほんのわずかに、


息が震えた。


その時。


背後で、


こくん、と。


小さな気配。


振り返らない。


それでも分かる。


三人。


腕を組んだまま、


揃って頷いている。


名前は――しっかり憶えている。


それで、十分だった。


ロザリーナは、


もう一度だけ、


パンを口に運ぶ。


その指は、


さっきよりも、


わずかに――迷いはなかった。


――◇―― ――◇――


◆ブラストリア城・内庭◆


主塔脇の広場。


内庭。


まだ完全には明けきらない空。


その下で――


「よし」


ニコルが、腕を組んでいた。


「新しい遊撃隊の戦法を発表する」


「今からですか……?」


隊員たちの顔に、同時に浮かぶ。


嫌な予感。


マクレブが、無言で一歩下がる。


クレセントが、小さくため息をつく。


「……またかぁ」


ぽつり。


「聞こえてるぞ?」


ニコルのネコ耳が、ぴくりと動いた。


「いえ何も」


「何も言ってません」


即訂正。


即撤回。


ニコルは満足げに頷いた。


「いいか――」


一歩、前へ出る。


「新しい戦術はだねぇ~」


間。


無駄に、長い間。


「《究極包囲絶対型・多層回転式・心理圧迫付き・可変陣形突撃戦法》だ」


――風。


しん、とした空気。


誰も、動かない。


まばたきだけが、揃う。


「……長いんだよなぁ」


「長いですね」


マクレブとクレセントの小声が、完全に重なった。


ニコルの目が、細くなる。


「なんか言った?」


「いえ!!」


即答。


「何も言ってませーん!」


即敬礼。


ニコルは、にやりと笑った。


「それで、よし!」


次の瞬間――


「じゃあ、やるよー」


指が、くるり。


下へ。


遊撃隊が――


その場で、


一斉に、


ぐるぐると回り出した。


ガンッ


ドンッ


鉄がぶつかる。


足がもつれる。


盾がぶつかる。


「ちょっ、隊長これ――」


「目が回る!!」


「敵いないのに死ぬやつだこれ!!」


「回れ回れー! 止まるなー!」


ニコルだけが楽しそうに叫ぶ。


ドシャッ


バタバタバタッ


隊員たちが、盛大に転ぶ。


それでも――


ニコルだけは無傷。


そして――


また一つ。


この戦場に、


“訳の分からない戦術”が新たに刻まれた。


――◇―― ――◇――


◆ブラストリア城・西側城門前広場◆


西側城門前。


戦闘跡。


まだ血の匂いが、石畳に残っていた。


折れた槍。

転がる盾。

黒帝兵の死体。


その間を、回収と埋葬に走る兵たちが行き交う。


その中で――


ガルデン隊副将、練兵教官――

ソルディオは、転がっている剣を拾い集めていた。


黙々と。

淡々と。


右頬のかすり傷から、細く血が垂れている。


だが、気にする様子はない。


その時。


背後から、重い足音。


じゃり。

じゃり。


「……相変わらずだな」


低い声。


ソルディオが、ゆっくり振り返る。


そこに立っていたのは――


元ブラストリアのジーク隊副将。

五年間、

第一牢区の元王国軍兵士をまとめていた男。


パラネライ。


ぼろ布同然の囚人服。

泥と煤にまみれた身体。


だが――


その立ち姿には、まだ兵の芯が残っている。


ソルディオの目が、わずかに細くなる。


「……お前」


「ひでぇ恰好だな」


ソルディオが肩をすくめる。


「お前もな」


パラネライの口元が、少しだけ上がった。


「五年ぶりの再会で、それだけかよ」


「お前もな」


ソルディオが笑う。


一拍。


ソルディオが、じっと見る。


顔。

肩。

腕。

足。


確かめるように。


「……全部、無事かよ」


ようやく、それだけ言った。


パラネライが、鼻で笑う。


「――お前もな」


一拍。


ソルディオが言う。


「死んだって聞いてたぜ」


「あのさー、勝手に殺すな」


「お互い様だろ」


短い沈黙。


風が、血の匂いを運ぶ。


そのあと――


ソルディオの口の端が、わずかに上がった。


笑みというには、小さすぎる。


だが確かに、


昔の顔だった。


二人は、同じ年に剣を取った。


同じ戦場に立ち、


同じ酒場で飲んだ。


ただ――


この五年だけが、違った。


ソルディオが、低く言う。


「……飲み代、随分たまっただろ」


パラネライが、一瞬だけ目を瞬かせる。


それから。


腹の底で、くっと笑う。


「は」


「それ、覚えてやがったか」


「忘れるか」


「最後は、俺の奢りの晩だったよな」


「違うな」


即答。


「お前が“次は俺が出す”と言った」


「言ってねぇよ」


「言った」


「言ってねぇ」


「言った」


「あの晩は、酔ってたんだよ」


「それ覚えてたら、アウトだろ」


周囲の兵たちが、ぽかんとする。


さっきまで囚人を斬っていた男たちとは思えない。


パラネライが、ついに吹き出した。


「っ、はは……!」


「お前、昔より面倒くさくなってねぇか?」


「元からだ」


ソルディオが言いきる。


「違ぇな」


パラネライが指を一本立てる。


「お前、昔は黙って面倒だった」


「今は喋って面倒だ」


「うるせぇ」


「ははははは」


「……ふっ」


笑いが、広場に落ちる。


血と泥にまみれた広場で。


くだらない。


本当に、くだらないやり取り。


それでも――


五年前の続きが、


同じ朝を迎え、


途切れたままだった会話が、


いま、ようやく繋がる。


そして――


その笑い声だけは、昔のままだった。

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