表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
87/92

第84話 夜明けの城――失われた町と繋がる命

◆東側・城壁上◆


夜の名残を引いた風が、

白み始めた空へと溶けていく。


長かったブラストリアの夜が、明けた。


ヴァレンティスは、

一人、ゆっくりと東城壁の縁に立つ。


偽装の黒帝軍の鎧と外套。


風が頬を撫でた。


冷たい。


視線を、落とす。


眼下に広がるのは――

かつてブラストリアの城下町だった場所。


通りの形は残っている。

石畳も、建物の区画も、

崩れきらずに、まだそこに在る。


――だが。


町は、黒く沈黙していた。


市場だったはずの広場には、何もない。

露店も、人影も、

朝に立ち上っていた白い煙もない。


ただ。


風に転がされた木枠と、

踏み固められていた地面だけが、

広く晒されている。


酒場が並んでいた通りは、

瓦礫の帯になっていた。


壁は崩れ、屋根は落ち、

看板だったらしい板が、斜めに突き刺さっている。


五年前。


――朝になると、煙が上がっていた。


焼き立てのパンの匂いが、

城の中まで流れ込んできて――


(……父上が、あの角の店で)


わずかに、目を細める。


(二十オーネもしないような、

 パンの値段をまけさせていたな)


一瞬だけ。


記憶が、息をする。


人が肩をぶつけ合うほどの賑わい。

焼けるパンの匂い。

子供たちの笑い声。


だが、今は――


その光景を思い出せるのに、

音だけが、どこにも存在しない。


町の奥。


かつて祈りの中心だった教会が、遠くに見えた。


尖塔は折れ、

壁は黒く焼け、

十字の形は歪んだ影として地に伏している。


人は、いない。


祈る者も、

縋る者も、

嘆く声すらない。


――忘れ去られた、静寂。

取り残された、沈黙。


あの頃。


この場所(ここ)から見下ろした町は、生きていた。


煙があり、

音があり、

声があり、

笑顔が溢れ――


人が、人として在る場所だった。


今、ここにあるのは――


建物の残骸と、

吐き捨てるような、

使い尽くされた静けさだけだ。


市場はない。

酒場は瓦礫だ。

教会は、祈りを失っている。


それが――


この町の、

そしてこの国の“現在”だった。


ヴァレンティスは、

ゆっくりと息を吐いた。


「……取り戻す」


その言葉は、

風に乗ることなく、

心の内で静かに沈んだ。



その時――


「橋を上げろ!」


下から声が上がる。


引き返していた馬車列の、

最後の一台が城内へ入った。


ヴァレンティスは視線を外し、

南門の方へ歩き出す。


軋む鎖の音。


跳ね橋が、ゆっくりと持ち上がっていく。


その上の城壁へと上がり、

胸壁の隙間から下を覗いた。


城門前の広場。


馬車が、止まる。


扉が開く。


中から――女が降りる。


質素な衣。

痩せた身体。


一歩。


石畳を踏む。


その瞬間――


「……あ……」


男の声が、掠れた。


少し離れた場所。


人の中に立っていた男が、

女を見て、動きを止める。


「……まさか」


息が、詰まる。


「――リナ……!」


名を呼ぶ。


女が顔を上げる。


「……あなた……?」


次の瞬間――


崩れるように、駆け出した。


ぶつかる。


抱きしめる。


骨ばった腕が、食い込む。


「生きて……」


言葉にならない。


「生きて……た……」


男の声が、震える。


女は、嗚咽を漏らし、

ただ抱きしめ返す。


強く。


二度と離さないように。


その背後で――


マクレブの声が響いた。


「住居区は確保されている!」


「家族ごとに割り当てる!

 今夜から、そこで一緒に暮らせ!」


一瞬。


男の腕に、さらに力がこもる。


「……もう、離れなくていいのね」


女のかすれた声。


男は、何度も頷いた。



その前方の馬車。


「おい、こっち持て!」


アズの声。


木箱を抱えたポコランが、ふらつく。


「重っ……!」


横から、アズがひょいと持ち上げた。


「どんだけ詰めてんのよ、みんな」


「いやこれ、象でも入ってんじゃねぇの!?」


軽口。


だが、その視線は――止まる。


少し先。


抱き合う家族。

泣き崩れる人影。

笑っているのに、涙が止まらない顔。


ポコランの口が、ゆっくり閉じる。


「……なあ」


ぽつり。


「……こういうのってさ」


言葉を探す。


「……いいな」


それだけだった。


アズは、何も言わない。


ただ、見ている。


握っていた木箱の縁から、

わずかに力が抜けた。


「……うん」


短く。


それだけ。


けれど、十分だった。


「アズ――」


ポコランが、

目を閉じて、

両手を広げる。


――ドゴッ。


アズの拳が、

顔面に炸裂した。


「今の流れでそれやる?」


「ぶっ……鼻血が……!」


「ほら、止まってないで運ぶ!」


「お、おう!」


鼻を押さえながら、

ポコランが、にやっと笑う。


二人は、


そのまま人の流れの中へ戻っていく。



別の馬車。


少年が、飛び降りた。


その目が、止まる。


少し離れた場所で、

周囲を見渡している男。


傷だらけの顔。

やつれた身体。


だが――


「……父ちゃん?」


男の呼吸が、止まる。


ゆっくりと、振り向く。


その目が、少年を捉えた。


「……ロズ……」


喉が、震える。


「大きく……なったな……」


少年の顔が、歪む。


「……父ちゃんだ……!」


走る。


全力で。


ぶつかる。


男の身体がよろける。


だが――受け止める。


両腕で。


強く。


「……すまなかった……」


ぽつり。


それだけが、零れる。


少年は、首を振る。


父の胸にしがみついたまま、指を差す。


「あっち……!

 ――あっち! あっち!」


その先。


母親が、涙を拭うこともせず、何度も頷いていた。



あちこちで、同じ光景が生まれていた。


名を呼ぶ声。

泣き崩れる声。

笑い声。

そして――嗚咽。


五年。


失われたはずの時間が、

いま、ここで、繋がっていく。



城壁の上から。


ヴァレンティスは、それを見ていた。


静かに。


誰にも気づかれず。


東の空が、ゆっくりと赤を帯びる。


その光が、横顔を淡く照らしていた。


その瞳に映るのは――


泣き笑う民たち。


抱き合う家族。


取り戻された、命。


長く、息を吐く。


肩の力が、わずかに抜ける。


一拍。


目を閉じる。


そして――開く。


もう一度、広場を見る。


それで、十分だった。


ゆっくりと背を向ける。


東の空を見上げる。


そして――


視線を落とす。


城の向こう。


遠く。


――山の麓。


わずかに、煙が見えた。


――◇―― ――◇―― ――◇―― ――◇――


◆山麓・黒帝軍武具鋳造所◆


同じ頃。


ヴァレンティスが見た煙。

その源では――


もう一つの戦闘が、終わっていた。


黒帝軍の“折れぬ武器”を生む鋳造所には、

まだ熱が残っている。


焼けた鉄の匂い。

煤。

血。


倒れた黒帝兵の鎧が、

炉の赤に照らされていた。


その前に立つ影。


ブルームロアの仮面の踊り子(ヴェールダンサー)――

ベル・サフィール。



ブルームロアは、鋳造所を潰した。

ヴァレンティスは、父の城へと帰還した。


――だが。


この世界の絶望は、まだ何一つ終わってはいない。


掴んだものは、ほんのわずか。


絶望の中に開けた、

針の穴ほどの“猶予”だけだった。


――それでも、この朝は“終わり”ではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ