第84話 夜明けの城――失われた町と繋がる命
◆東側・城壁上◆
夜の名残を引いた風が、
白み始めた空へと溶けていく。
長かったブラストリアの夜が、明けた。
ヴァレンティスは、
一人、ゆっくりと東城壁の縁に立つ。
偽装の黒帝軍の鎧と外套。
風が頬を撫でた。
冷たい。
視線を、落とす。
眼下に広がるのは――
かつてブラストリアの城下町だった場所。
通りの形は残っている。
石畳も、建物の区画も、
崩れきらずに、まだそこに在る。
――だが。
町は、黒く沈黙していた。
市場だったはずの広場には、何もない。
露店も、人影も、
朝に立ち上っていた白い煙もない。
ただ。
風に転がされた木枠と、
踏み固められていた地面だけが、
広く晒されている。
酒場が並んでいた通りは、
瓦礫の帯になっていた。
壁は崩れ、屋根は落ち、
看板だったらしい板が、斜めに突き刺さっている。
五年前。
――朝になると、煙が上がっていた。
焼き立てのパンの匂いが、
城の中まで流れ込んできて――
(……父上が、あの角の店で)
わずかに、目を細める。
(二十オーネもしないような、
パンの値段をまけさせていたな)
一瞬だけ。
記憶が、息をする。
人が肩をぶつけ合うほどの賑わい。
焼けるパンの匂い。
子供たちの笑い声。
だが、今は――
その光景を思い出せるのに、
音だけが、どこにも存在しない。
町の奥。
かつて祈りの中心だった教会が、遠くに見えた。
尖塔は折れ、
壁は黒く焼け、
十字の形は歪んだ影として地に伏している。
人は、いない。
祈る者も、
縋る者も、
嘆く声すらない。
――忘れ去られた、静寂。
取り残された、沈黙。
あの頃。
この場所から見下ろした町は、生きていた。
煙があり、
音があり、
声があり、
笑顔が溢れ――
人が、人として在る場所だった。
今、ここにあるのは――
建物の残骸と、
吐き捨てるような、
使い尽くされた静けさだけだ。
市場はない。
酒場は瓦礫だ。
教会は、祈りを失っている。
それが――
この町の、
そしてこの国の“現在”だった。
ヴァレンティスは、
ゆっくりと息を吐いた。
「……取り戻す」
その言葉は、
風に乗ることなく、
心の内で静かに沈んだ。
*
その時――
「橋を上げろ!」
下から声が上がる。
引き返していた馬車列の、
最後の一台が城内へ入った。
ヴァレンティスは視線を外し、
南門の方へ歩き出す。
軋む鎖の音。
跳ね橋が、ゆっくりと持ち上がっていく。
その上の城壁へと上がり、
胸壁の隙間から下を覗いた。
城門前の広場。
馬車が、止まる。
扉が開く。
中から――女が降りる。
質素な衣。
痩せた身体。
一歩。
石畳を踏む。
その瞬間――
「……あ……」
男の声が、掠れた。
少し離れた場所。
人の中に立っていた男が、
女を見て、動きを止める。
「……まさか」
息が、詰まる。
「――リナ……!」
名を呼ぶ。
女が顔を上げる。
「……あなた……?」
次の瞬間――
崩れるように、駆け出した。
ぶつかる。
抱きしめる。
骨ばった腕が、食い込む。
「生きて……」
言葉にならない。
「生きて……た……」
男の声が、震える。
女は、嗚咽を漏らし、
ただ抱きしめ返す。
強く。
二度と離さないように。
その背後で――
マクレブの声が響いた。
「住居区は確保されている!」
「家族ごとに割り当てる!
今夜から、そこで一緒に暮らせ!」
一瞬。
男の腕に、さらに力がこもる。
「……もう、離れなくていいのね」
女のかすれた声。
男は、何度も頷いた。
*
その前方の馬車。
「おい、こっち持て!」
アズの声。
木箱を抱えたポコランが、ふらつく。
「重っ……!」
横から、アズがひょいと持ち上げた。
「どんだけ詰めてんのよ、みんな」
「いやこれ、象でも入ってんじゃねぇの!?」
軽口。
だが、その視線は――止まる。
少し先。
抱き合う家族。
泣き崩れる人影。
笑っているのに、涙が止まらない顔。
ポコランの口が、ゆっくり閉じる。
「……なあ」
ぽつり。
「……こういうのってさ」
言葉を探す。
「……いいな」
それだけだった。
アズは、何も言わない。
ただ、見ている。
握っていた木箱の縁から、
わずかに力が抜けた。
「……うん」
短く。
それだけ。
けれど、十分だった。
「アズ――」
ポコランが、
目を閉じて、
両手を広げる。
――ドゴッ。
アズの拳が、
顔面に炸裂した。
「今の流れでそれやる?」
「ぶっ……鼻血が……!」
「ほら、止まってないで運ぶ!」
「お、おう!」
鼻を押さえながら、
ポコランが、にやっと笑う。
二人は、
そのまま人の流れの中へ戻っていく。
*
別の馬車。
少年が、飛び降りた。
その目が、止まる。
少し離れた場所で、
周囲を見渡している男。
傷だらけの顔。
やつれた身体。
だが――
「……父ちゃん?」
男の呼吸が、止まる。
ゆっくりと、振り向く。
その目が、少年を捉えた。
「……ロズ……」
喉が、震える。
「大きく……なったな……」
少年の顔が、歪む。
「……父ちゃんだ……!」
走る。
全力で。
ぶつかる。
男の身体がよろける。
だが――受け止める。
両腕で。
強く。
「……すまなかった……」
ぽつり。
それだけが、零れる。
少年は、首を振る。
父の胸にしがみついたまま、指を差す。
「あっち……!
――あっち! あっち!」
その先。
母親が、涙を拭うこともせず、何度も頷いていた。
*
あちこちで、同じ光景が生まれていた。
名を呼ぶ声。
泣き崩れる声。
笑い声。
そして――嗚咽。
五年。
失われたはずの時間が、
いま、ここで、繋がっていく。
*
城壁の上から。
ヴァレンティスは、それを見ていた。
静かに。
誰にも気づかれず。
東の空が、ゆっくりと赤を帯びる。
その光が、横顔を淡く照らしていた。
その瞳に映るのは――
泣き笑う民たち。
抱き合う家族。
取り戻された、命。
長く、息を吐く。
肩の力が、わずかに抜ける。
一拍。
目を閉じる。
そして――開く。
もう一度、広場を見る。
それで、十分だった。
ゆっくりと背を向ける。
東の空を見上げる。
そして――
視線を落とす。
城の向こう。
遠く。
――山の麓。
わずかに、煙が見えた。
――◇―― ――◇―― ――◇―― ――◇――
◆山麓・黒帝軍武具鋳造所◆
同じ頃。
ヴァレンティスが見た煙。
その源では――
もう一つの戦闘が、終わっていた。
黒帝軍の“折れぬ武器”を生む鋳造所には、
まだ熱が残っている。
焼けた鉄の匂い。
煤。
血。
倒れた黒帝兵の鎧が、
炉の赤に照らされていた。
その前に立つ影。
ブルームロアの仮面の踊り子――
ベル・サフィール。
◇
ブルームロアは、鋳造所を潰した。
ヴァレンティスは、父の城へと帰還した。
――だが。
この世界の絶望は、まだ何一つ終わってはいない。
掴んだものは、ほんのわずか。
絶望の中に開けた、
針の穴ほどの“猶予”だけだった。
――それでも、この朝は“終わり”ではなかった。




