第83話 王の帰城――失われた五年と失われなかったもの
その少し前の――丘の上で起きた出来事が、
いま、戦場へと追いつく。
◆南側・城門前広場◆
軋む車輪の音が、
南門の跳ね橋を渡って響いてきた。
一台。
二台。
松明に照らされ、
民兵を乗せた馬車が、城内へ入ってくる。
兵たちが、左右へ分かれた。
道を開ける。
迎えるのは――
ガルデンとソルディオ。
その反対側に、ニコルとマクレブ。
そして、制圧を終えた兵たちが、静かに見守っていた。
先頭の馬車が止まる。
扉が開き、ロートと民兵たちが降りてくる。
「将軍、応援に――」
言いかけて、ロートの言葉が止まった。
広場に転がる死体。
そして――静まり返った戦場。
「……終わってる?」
「ごくろう」
ガルデンが、わずかに笑った。
「じゃが、もう片は付いた」
誰かが、ようやく息を吐く。
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
その時――
二台目の馬車の扉が開いた。
近衛兵が先に降りる。
続いて現れたのは――
王、ヴァレンティス。
「陛下!!」
ソルディオが即座に膝をつく。
それに続き、兵たちが一斉に跪いた。
「……無事だった」
ニコルが、小さく息を吐く。
「だけど前に出すぎだっての……王様」
軽口。
だが、その声はどこか震えていた。
ヴァレンティスは何も言わず、歩み出る。
ガルデンの前で立ち止まり――
ゆっくりと、顔を上げた。
視線の先。
ガルデンの後方――城の中央。
そこにそびえる主塔。
五年前と変わらぬ、その姿。
奪われ、失われた場所。
そしていま――そこに、帰って来た。
見上げたまま、静かに目を閉じる。
一拍。
息を大きく吐く。
それから、ゆっくりと視線を戻した。
「敵は」
「すべて制圧済みですじゃ」
ガルデンが答える。
その声に、揺らぎはない。
誰もが、武器を下ろしていた。
戦いは、終わっている。
その時――
三台目の馬車から、小さな影が飛び出した。
「――あれ?」
ポコランだった。
きょろきょろと辺りを見回す。
「終わったの……?」
場違いな声。
だが、それが、張り詰めた空気をわずかにほどいた。
そして――
一瞬の、空白。
アズが、こっちに来いと手招いている。
その後方――路地の奥から。
ドン。
ドン。
重い足音が響く。
振り向いた先。
そこにいたのは――
ジーク・ヴァイスハイム。
背後には、牢から解放された元王国兵たち。
捕らえたレッドバルムたちを地下牢へ入れ、
戻って来たばかりだった。
傷だらけの上半身は、半裸。
奴隷のように擦り切れたズボン。
だが――
残された、たった一つの目は、まだ死んでいない。
その濃い紫の独眼が、広場を見渡す。
そして――
ヴァレンティスを捉えた。
一瞬。
時間が、止まる。
「ヴァレンティス……生きていたのか」
低く。
だが、確かに震えた声。
その名が落ちた瞬間――
背後の兵たちが、ざわめいた。
「……今、なんて」
「ヴァレンティス……?」
「まさか……」
「――王子……?」
誰かが、息を呑む。
五年前。
守りきれなかった王都。
守れなかった王。
その血を継ぐ者。
「……殿下……?」
掠れた声が、零れる。
一人。
また一人。
膝が――崩れるように落ちた。
「生きて……おられた……」
「殿下……!」
震える声。
誰も命じていない。
だが、止められない。
次々と、膝が地に着く。
頭が垂れる。
「……お守りできず……」
「この城を……我らは……!」
言葉が、途切れる。
悔恨。
後悔。
五年間、胸に抱え続けたものが、
今――溢れ出す。
それでも。
その中にあるのは、
ただ一つの救い。
――生きていた。
ヴァレンティスは、ジークを見る。
その姿を。
五年前、父の隣に立っていた男。
ブラストリア最強の剣士。
そして――
幼い自分の相手をしてくれた、父の友人。
「ジーク……」
一歩、踏み出す。
周囲で、兵たちが震えているのを感じながら。
「……生きていてくれたか」
静かに。
だが、はっきりと。
その言葉が落ちる。
責める響きは、ない。
ただの――安堵。
ただの――喜び。
それだけでよかった。
それだけで、十分だった。
ヴァレンティスは、ゆっくりと周囲を見渡す。
跪く、父の兵たち。
一人。
また一人。
その顔を、確かめるように。
そして――
「……やめてくれ」
小さく、告げる。
「そんな顔をしなくていい」
一拍。
言葉を選ぶ。
「……皆、生きていてくれて、ありがとう」
空気が、止まる。
兵たちの肩が震える。
誰かが、嗚咽を漏らす。
「……殿下……!」
それで、足りていた。
ジークの口元が、わずかに歪む。
「お前の父の兵だった、
――俺たちは簡単には死なん」
短く。
だが、強く。
五年。
失われたはずの時間が、そこに戻る。
ジークの背後で、誰かが小さく呟く。
「……よかった……」
「俺たちは……まだ……」
言葉は続かない。
だが、その震えがすべてだった。
やがて――
ジークの視線が、わずかに揺れる。
たった一人、そこにいない――紅。
「……ベニバラは?」
その名に、空気が引き締まる。
ヴァレンティスが答える。
「丘の上だ」
一拍。
「馬車の中にいる」
さらに、わずかに言葉を置く。
「……かなりの重傷だが」
沈黙。
ジークの独眼が、わずかに細まった。
「そうか」
短く。
それだけ。
だが――
それで十分だった。
生きている。
それだけで。
*
「――そういえばさぁ」
背後から、ニコルの声。
「ヤバいのが丘に行ったろ。
どうなった?」
マクレブが続ける。
「重装で、首から指を下げてるような奴だ」
ロートが、顔を上げた。
「ベニバラ将軍が、
――一人で倒しました」
一瞬。
「……は?」
ニコルが眉を上げる。
「剣もまともに握れねぇ状態で、か」
肩をすくめる。
「……あの怖い人、やっぱり化け物だな~」
ジークが、小さく笑った。
「なるほどな」
それだけだった。
だが、その一言に、重さがあった。
*
その時――
城壁から駆け下りてきた兵が叫ぶ。
「我らの旗を掲げました!」
南側の城壁。
夜風の中、父王の旗が翻る。
それを見て――
兵たちが声を上げる。
――おうッ!!
拳が上がる。
――おおおおおおうッ!!
地面が震える。
だが。
「待て」
ヴァレンティスが、右手を前に出した。
一瞬で、声が止まる。
「ニコル」
「外から見える旗は、黒帝軍のものに戻せ」
「城壁上の兵には、黒帝兵の鎧を着せろ」
声色が、変わる。
「……了解」
ニコルの顔が、
一瞬で引き締まった。
「ダルパス」
兵たちの後方。
老人が、呼ばれて駆け出す。
「頼みがある」
一拍。
「民兵を使って、
城内の死体を、片付けてほしい」
静かに続ける。
「――子らが、ここに来る前に」
ダルパスの目が、
わずかに細くなる。
「分かりもうした」
深く頭を下げると、
馬車から降りてきた民兵たちを率いて走り出した。
ヴァレンティスは、振り返る。
「ガルデン」
「丘に残っている馬車を、夜が明ける前に城へ入れろ」
「すべてが入ったら、門を閉じ、橋を上げろ――四つともだ」
「了解じゃ」
(――もう次を見ておるわ)
ガルデンが苦く笑った。
「北門はわしらが壊しちまったから。
応急で誤魔化すか」
老将が頭を掻く。
「ロート」
「外に札を立てろ」
「新城主が決まるまで、城門は閉鎖する――そう記せ」
「丘にいるオルフェンが入城次第、伝えろ」
「城内の食料、武具、物資の総量を確認するように」
ブラストリア城主――
黒帝八将グラ=シャルンは、
すでに、いない。
「御意!」
ロートが、頭を下げる。
「しばらくは、平常を装う」
「時間を稼ぐんじゃな」
ガルデンが、低く応じた。
そのやり取りを見て、
ジークが、顎に手を当てた。
(……これが、五年間、生き延びた理由か)
わずかに、笑う。
「俺たちは何をする?」
迷いはない。
ヴァレンティスは即答した。
「まもなく――」
「千の民を乗せた馬車列が来る」
一拍。
「城内の安全確認と、
住居区を、使える状態にしてくれ」
さらに、続ける。
「……ここに捕らわれていた兵の中には、」
「馬車に、その家族がいる者もいる――」
一瞬。
誰かが、息を呑んだ。
五年前。
この城を守るために残った者。
王子ヴァレンティスと共に逃れた者。
――失われたと思っていた者たち。
「その者たちが、再会できるように――」
静かに。
だが、強く。
それは命令であり――願いだった。
「分かった」
ジークが頷き、
歩き出そうとして――
止まる。
振り返る。
「ヴァレンティス」
王を、呼ぶ。
一拍。
残った独眼が、静かに細められる。
「お前の……その瞳の奥に宿る光」
「――父に、よく似てきたな」
やわらかな声。
だが、その奥にあるのは、
確かな敬意と――
選び直した忠誠。
ジークは、わずかに笑った。
その笑顔は、
過去の王へではない。
――これからの王に、剣を捧げるという決意だった。
*
兵たちが、動き出す。
走る。
叫ぶ。
指示が飛ぶ。
戻ってきた者。
守り続けた者。
その喧噪の中で――
確かに。
何かが、繋がり始めていた。
ロザリーナはいない。
ベニバラも、ここにはいない。
そして――
黒帝軍との戦いは、微塵も終わっていない。
それでも。
取り戻した城。
戻ってきた王。
生き残った者たち。
五年の断絶を越えて、再び結ばれた命。
ブラストリアは――
ここから、動き出す。
世界の絶望に。
抗うために。
その、わずかな灯火を掲げて。




