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第82話 逆流する希望――紅の生還と王の断罪

◆南側・丘の上◆


ポコランが、斜面を駆け上がる。


砂が崩れる。

足が滑る。


それでも、止まらない。


ハァ――ッ。

ハァ――ッ。


額から、大粒の汗が落ちる。


呼吸が、焼ける。


――その時。


ポコランの足が、止まった。


そこにあったはずの大型馬車。


ルドグラッド砦から、

ここまで乗ってきた。


アズや王たちと、共に。


――ない。


右横――傾斜の下。


遠く、

横倒しに、折り重なった四台の馬車。


折れて、天を指す車軸。

砕けた木片が、斜面に突き刺さる。


まるで――墓標のように。


――何が、あった?


顔を上げる。


――その馬車の横。


人影。

松明の灯。


そして――王。


「陛下ッ!!」


声が裂ける。


全員が、振り向いた。


「何があったんですか……

 これは?」


横倒しの馬車の傍。


顔を伏せたままのロート。

動かないヴァレンティス。


空気が、重い。


オルフェンが、口を開いた。


「ポコラン……」


一拍。


「……ベニバラ将軍が、見つからない」


言葉が、落ちる。


ポコランの視線が、逸れる。


馬車に下半身を挟まれたままの巨体。

わずかに、動いている。


「え……」


喉が、詰まる。


「落ちてきた馬車に、巻き込まれて……」


言葉が、途切れる。


「……将軍が?」


足元の瓦礫を避けながら、

ポコランは、一歩――斜面を下りた。


その時。


「……ポコラン……」


声。


背後から。


低く。


かすれた。


ポコランの足が、止まる。


振り向く。


暗がりを睨む。


だが――


誰も、いない。


風だけが、抜ける。


――空耳?


息を呑む。


もう一度、


目を凝らす。


動くものは、ない。


ポコランは、


ゆっくりと前を向き――


歩き出そうとした。


その瞬間。


「……ポコラン」


もう一度。


今度は――はっきりと。


息が、止まる。


振り向く。


「将軍ッ――?」


だが、


返事はない。


姿も、ない。


喉が、ひくりと鳴る。


――幽霊?


一歩、


踏み出す。


「ここだ……」


すぐ近くで、声。


だが――


見えない。


「どこですか」


さらに一歩。


「将軍――」


足元の松明を拾い、


前へ翳す。


揺れる光が、


地面を舐める。


影が、歪む。


左右を見渡す。


人影は、ない。


動くものも、ない。


だが――


「……え」


少し先。


崩れた土の中に、


不自然な影。


ぽっかりと、


口を開けた穴。


暗闇が、


そこだけ、深い。


ポコランの目が、


見開かれた。


――まさか。


次の瞬間。


ポコランは、走っていた。


瓦礫を蹴る。

足が滑る。


それでも――飛び込むように。


穴の縁へ。


膝をつく。


身を乗り出す。


松明の灯を、下へ。


揺れる光が、闇を舐める。


――いた。


「……っ」


喉が、詰まる。


丸く掘られた穴の中。


その奥で。


壁に背を預けるようにして、


立っている影。


血に濡れた紅。

泥に汚れたチュニック。


それでも――倒れていない。


かろうじて、立っている。


ベニバラだった。


「将軍ッ!!」


声が、裂けた。


その声に――


下の広場。


ロートが顔を上げる。

ヴァレンティスが振り向く。


「……ポコラン?」


次の瞬間。


全員が、走った。


斜面を駆け上がる。


石が弾ける。

砂が崩れる。


「こっちです!!」


ポコランが叫ぶ。


「穴です!! ここに――!!」


ロートが、滑り込むように縁へ辿り着く。


覗き込む。


「……っ」


言葉を失う。


その縁で。


ヴァレンティスが、静かに立つ。


見下ろす。


一拍。


「……ベニバラ」


低い声。


確かめるように。


穴の底。


ベニバラが、わずかに顔を上げた。


片目が開く。


「……陛下」


掠れた声。


だが――


笑っていた。



ロートが、地に腹をつける。


穴の中へ、半身を乗り出す。

腕を、限界まで伸ばす。


その足を、近衛兵二人が押さえた。


「この手を――掴んでください!」


声が、震える。


ベニバラが、ゆっくりと右手を上げる。


血に濡れた指が、空を掴む。


――届かない。


もう、少し。


ロートが、さらに身を乗り出す。


「……っ」


指先が、触れる。


掴む。


――ギリッ。


引く。


ベニバラの右腕に――全体重。


筋肉が軋む。

歯が、食いしばられる。


ズル……ッ。


土が崩れる。


身体が、わずかに浮く。


「引けッ!!」


ロートの声が、裂けた。


近衛兵が、ロートの足を引き上げる。


――ズルズルッ。


土と血を引きずりながら、


地面へ。


引き上げられた身体が、崩れ落ちる。


ロートが、すぐに抱き止めた。

肩に掛かる、長い紅の髪。


「将軍……!」


声が、震える。


今にも、崩れそうな顔。


ベニバラが、薄く目を開ける。


その視線が、ロートを捉える。


「……ロート」


一拍。


「死なないと……言っただろ」


息が、止まる。


ロートの目が、見開かれる。


顔が、歪む。


声は、出ない。


喉が、詰まる。


ベニバラは――


かすかに、口角を上げた。


その笑みを見て、


オルフェンは思い出した。


あの時――


落とし穴を掘らせた時に見せた、

自分だけ楽しんでいる時の、

――“悪い顔”を。


「将軍は、

 ……最初から、これが目的で――穴を」


理解した。


静かに。


オルフェンは、金縁の眼鏡を中指で押し上げた。


その時――


「なんだよ、なんだよ」


背後の暗闇から、

粘りつくような声が這い出す。


「今頃はミンチになって、

 女の皮が土に張り付いてると思ったのによ」


瓦礫の下。


血を吐きながら、ラグが笑う。


歪んだ口元。

ひび割れた歯。


「まあいいや」


「そろそろ、ここから出してくれよ」


空気が、凍る。


「――何?」


ベニバラが、顔を上げた。


「……生きているのか」


視線の先。


馬車の下敷きになったままのラグ。


ベニバラが、ロートの肩を借りて立ち上がる。


「ロート、剣を」


ロートの腰から剣を抜き取る。


そのまま――剣を引きずるように、歩き出す。


一歩。


左腕は吊られ、

肋骨は折れ、

足元は、ふらつく。


二歩。


視界は霞み、

赤が、地面にこぼれる。


それでも、止まらない。


その時。


肩に、手が置かれた。


止められる。


振り返る。


ヴァレンティスだった。


視線が、交差する。


短い沈黙。


「もういい」


ヴァレンティスが、わずかに首を振る。


「ですが――」


言葉を、遮るように。


「一人で、全てを背負うな」


静かな声。


だが、揺るがない。


決意が、そこにある。


ヴァレンティスは、ベニバラの手から剣を取る。


「あとは、私がやる」


剣が手から離れた瞬間。


ベニバラの膝が、


崩れた。


「将軍ッ!」


ロートが叫ぶ。


ベニバラが、


ヴァレンティスの胸に崩れ落ちる。


彼は、


その身体を抱き止めた。


「ロート、ベニバラを馬車へ」


一拍。


「手当てを頼む」


「……はっ」


ロートと近衛兵が、


ベニバラを抱え上げる。


固く閉じられた瞳。


意識は、もうない。


そのまま、


馬車へ運ばれていく。


足音が、


遠ざかる。



「……ケケッ」


ラグが笑う。


「おどかすなよ」


ゆっくりと近づいてくるヴァレンティスを見て、

歪んだ顔を持ち上げる。


「王様がよ――

 降参してる相手、斬れるわけねぇよな?」


唾と血を吐く。


「助けを乞う奴を殺したなんて知れたら、

 王の権威も、民の信も、全部吹き飛ぶ」


にやり、と歯を見せる。


「王様ってのは、“綺麗でいなきゃ”困るんだろ?」


ヴァレンティスは、何も言わない。


ただ、見下ろしている。


「いてぇんだよ……」


顔を歪める。


「いいから早く、この馬車どかせ」


沈黙。


一拍。


「……勘違いするな」


低く。


静かに。


「王は、民の命を守るものだ」


ラグの笑みが、わずかに止まる。


一歩、近づく。


「お前が生きている限り、

 この先で、罪もない命が奪われる」


足音が、重く響く。


「王の権威が失せたとしても、

 私はそれを見過ごすわけにはいかない」


ラグの顔色が、変わる。


「ちょ、ちょっと待て……!」


声が裏返る。


「謝る!

 今までのこと、全部――!」


「お前は」


言葉を、断つように。


「その首にぶら下げていた小指の持ち主たちの、

 最後の声を聞いたか」


沈黙。


ヴァレンティスは、剣を握る。


両手で。


静かに。


頭上へ、掲げた。


風が――止む。


ラグの喉が、鳴る。


「ま、待て……」


掠れた声。


「改心するって、言ってんだろ……」


震えている。


あれほどの巨体が。


あれほどの怪物が。


今は――ただの命乞い。


ヴァレンティスは、動かない。


ただ、見下ろしている。


「……聞こえたか」


低く。


「――ん?」


「お前が奪った命の、最後の声が」


ラグの目が、泳ぐ。


「し、知らねぇよ……そんなもん……」


視線を逸らす。


逃げ場は、ない。


「……そうか」


王が言った。


静かに。


短く。


ただ、それだけを。


次の瞬間――


――振り下ろされた。


剣が重い馬車の車輪を断ち割り、


その下の首を捉えた。


ゴッ。


鈍い音。


正確に。

確実に。


首を、断つ。


血が、噴き上がる。


闇に、赤が散る。


一拍。


巨体の腕が、力なく落ちた。


沈黙。


誰も、声を出さない。


風が、戻る。


松明が、揺れる。


ヴァレンティスは、剣を下ろしたまま――動かない。


血が、剣先から滴る。


ぽたり。

ぽたり。


地面に、吸い込まれる音。


やがて――


ゆっくりと、振り返る。


「陛下」


オルフェンが、深く頭を下げる。


ポコランは――動けなかった。


ただ、見ていた。


王の背を。


ヴァレンティスは、わずかに頷く。


迷いは、ない。


その瞳が――ポコランへ向く。


「ポコラン」


静かに。


「なぜ、ここへ来た」


「あっ……!」


ポコランの呼吸が、跳ねる。


思い出す。


自分の役目を。


「陛下!!」


一歩、踏み出す。


「……援軍を、お願いします!」


声を、振り絞る。


「西門が……大変なんです!

 敵が多くて……!」


息が乱れる。


それでも、止まらない。


「ニコル隊長も、マクレブ副将も、

 みんな必死で食い止めてます!」


拳を握る。


「民兵でも……一人でもいいんです!

 城へ……加勢をお願いします!!」


沈黙。


丘の上に、風が流れる。


そして――


「分かった」


短く。


即答だった。


「オルフェン。ロートと近衛を呼べ。

 事情を伝え、志願する民兵を馬車に乗せろ」


一拍。


「私も行く」


「……いえ、それは」


遮るように。


「命令だ」


低く。


揺るがない。


「……御意」


オルフェンが、頭を下げる。


すぐに、ポコランとともに走り出した。


足音が、夜を裂く。


――戦場は、まだ終わっていない。



ロートたちは、ベニバラを馬車へ運んだ。


これから――


王と民兵は、戦場へ向かう。


巨大な亡霊の腹の内へ。


だが――


一つの“断罪”は、終わった。


王の手で。


丘の上に、


そのことが、


静かに、刻まれた。

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