第73話 盤上崩壊――城が死に始める夜
◆西側城壁・歩廊◆
レッドバルムは歩いていた。
西城壁を通り北へ。
東側から向かったルグと、
北城壁を挟み撃ちにする。
その途中だった。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!
南。
遠く丘の方角。
大地が、低く唸る。
レッドバルムが振り返る。
闇の向こう。
鈍い轟音が、
夜気を震わせていた。
口元が、わずかに歪む。
「……始めたか」
処刑人ラグ。
あの怪物が動けば、
あれくらいの騒ぎにはなる。
「終わりだな」
低く、笑う。
その時。
前方から走ってくる黒帝兵が、
声を上げた。
「レッドバルム様!!」
「どうした」
「西の橋が――」
一拍。
兵が叫ぶ。
「下りています!!」
空気が止まった。
「……何?」
レッドバルムが胸壁へ駆け寄る。
外へ身を乗り出す。
その下。
西城門。
巨大な跳ね橋。
それが――
ゆっくりと、
下りていく。
ギィィィ……
ギィィィィ……
鉄鎖が軋む。
巻き上げ機が、
逆に回っている。
レッドバルムの眉が跳ね上がる。
「止めろ!!」
叫ぶ。
だが兵たちは、
動かない。
いや――
前面の敵に手いっぱいで動けない。
巻き上げ機の横。
本来あるはずの
留め具の鉄棒が外されていた。
誰かが、
外した。
レッドバルムの視線が、
城壁の下――
城内側へ落ちる。
西城門の内側。
門の下。
松明の光の中に――
三人。
黒帝軍の鎧。
だが。
「……誰だ」
レッドバルムの目が細くなる。
あの位置。
あの距離。
そして――
動かない。
「……内通者か?」
眉が、わずかに動く。
橋は、
すでに半分以上、
下りていた。
ギィィィ……
ギィィィィ……
このままでは――
外から誰でも入れる。
「西門へ回るぞ!!」
レッドバルムが叫ぶ。
駆け出そうとする。
だが――
前方。
西城壁の北側歩廊。
敵兵。
双短剣の少女が先頭で押している。
戦闘。
道が詰まっている。
アズ。
ポコラン。
クレセントの遊撃が、
黒帝兵を押し戻していた。
「俺の城で……何が起きている?」
レッドバルムが歯を噛む。
「ルグは何をやっている」
前へは進めない。
一瞬の判断。
振り返る。
「戻るぞ!!」
来た道。
南城壁へ。
「南西の塔から降りる!!」
レッドバルムが走り出す。
城壁の上――
「西の橋が下りています!!」
その声は、
北城門前の兵たちにも届いていた。
「西門――」
「橋が下りている!?」
黒帝兵たちが顔を見合わせる。
どよめき。
動揺。
次の瞬間。
北門前にいた黒帝兵の
半数が――
西門へ向かって駆け出した。
北さえ押さえれば
勝ちだったはずの戦線が、
ただ一つ、
盤上に存在しないはずの異物に、
音もなく、
崩れ始めていた。
――◇――
◆北城壁・東側◆
その城壁の上。
ルグの巨体が、
まだ横たわっている。
怪物。
胸壁には、
黒い血が、
まだ流れていた。
ロザリーナは、
城壁の外へ、
視線を落とす。
下。
橋の上。
ガルデン。
老将が、
両膝に手をついていた。
肩が、
激しく上下している。
疲弊。
だが――
その周囲では、
兵たちが、
まだ戦っていた。
「押せ!!」
「体当たりだ!!」
北門の
内扉。
それはまだ、
開いていない。
黒帝兵が、
内側から押している。
ガルデンの兵たちが、
体当たりを繰り返していた。
ドンッ!!
ドンッ!!
ドォン!!
木と鉄が、
悲鳴を上げる。
それでも閂は、まだ落ちない。
まだ、折れない。
ロザリーナが呼ぶ。
「マクレブ」
背後。
槍を握る巨漢が振り向く。
「その黒帝兵たちを倒し――」
城壁の歩廊。
ルグが倒れ、
後退りする黒帝兵。
ロザリーナの視線が、
南へ向く。
「そのまま、南へ向かえ」
マクレブの眉が動く。
「南?」
「その先の丘に、
王たちが待機している」
一拍。
「南門を開けろ」
マクレブが頷く。
「……任せろ」
巨躯が振り向く。
槍を構え、
東城壁へ退き始めていた黒帝兵へ突進する。
ロザリーナは、
壁に手をつく。
腹。
鎧の隙間。
血が、
まだ流れていた。
手で押さえる。
温かい。
指の隙間から、
赤が滲む。
ロザリーナは、
剣を拾うと腰に戻した。
その足元に。
黒帝兵の死体。
その肩から、
黒いマントを引き剥がす。
バサリ。
肩へ掛ける。
蒼の鎧が、
闇に紛れる。
そして――
ロザリーナは歩き出した。
北東角の塔。
石造りの円塔。
その入口へ。
中は暗い。
螺旋階段。
石の階段が、
下へ続いている。
ロザリーナは、
降りていく。
血を押さえながら。
黒帝のマントを揺らしながら。
一段。
また一段。
ロザリーナは、
ゆっくりと、
塔の闇へ消えた。
――◇――
◆南側城壁◆
南城壁へ、
レッドバルムが戻ってきた。
そこに残っていたのは、
五人の黒帝兵。
レッドバルムの視線が、
城内を走る。
(……兵が足りない)
一瞬。
判断。
一緒に駆けてきた兵に告げる。
「お前」
「は、はい!」
「地下牢へ行け」
兵の顔が固まる。
「囚人を出してこい」
一拍。
「賞金と自由を与えると言え」
兵が目を見開く。
「敵を殺した者は、
金を渡して解放するとな」
兵が戸惑う。
「ですが……」
レッドバルムの目が細くなる。
「闘技場で戦う奴らは、
みんな戦士だ」
「山賊もいる。
奴隷も反逆者もいる」
低く笑う。
「だが全員――」
「殺し合いには慣れている」
黒帝闘技場。
黒帝軍の娯楽。
元王都の中心、
ザイラスの居城となった
エルデンハート城の脇に築かれた巨大な闘技場。
東西南北の方面城から
百人規模の囚人戦士が集められ、
そこで殺し合いをさせられる。
そのために。
各城の地下には、
巨大な牢獄がある。
試合を待つ囚人たち。
荒くれ。
殺人者。
狂戦士。
だが――
レッドバルムは、
指を一本立てた。
「ただし――」
兵を見る。
声が低くなる。
「“あいつだけは出すな”」
各城の最強の囚人を戦わせる
年一度の王者戦。
その二年連続の覇者。
――白鋼の牢獄独眼王。
兵が息を飲む。
地下牢。
最深部。
鎖に繋がれた、
そのただ一人の、男。
「分かったな」
兵が強く頷く。
「はっ!」
踵を返す。
牢獄の塔の入口へ向けて、
塔を駆け降りていく。
レッドバルムは振り返る。
「お前ら、着いて来い」
短く。
「――降りるぞ」
レッドバルムが
五名の兵を引き連れ、
塔の石階段を駆け下りる。
暗い螺旋階段。
その途中、
レッドバルムの思考がよぎる。
(……おかしい)
わずかな違和感。
(俺の盤上に無い何かが――)
その正体には、
まだ気づいていない。
レッドバルムは、
塔の闇の中へ消えた。
――◇――
◆北東角の塔出口◆
石の扉が、
わずかに軋んだ。
ギィ……
その薄暗い北東角の塔から。
一つの影が現れる。
ロザリーナ。
黒帝兵のマントを肩に掛け、
蒼の鎧を闇に隠している。
腹を押さえながら、
静かに外へ出た。
外。
そこは、
かつて有事に民が避難する住居地区だった。
だが今は――
誰もいない。
崩れた家。
割れた窓。
打ち捨てられた扉。
戦争で放棄された街区が、
夜の中に沈んでいる。
ロザリーナは、
周囲を一度だけ見る。
北城門の前。
そこではまだ、
黒帝兵四十が、
内扉を押し支えていた。
その視線を避けるように、
ロザリーナは、
マントのフードを深く被る。
そして――
静かに。
住居の間。
細い路地へ。
影の中へ滑り込む。
路地には、風の音しかなかった。
足音は、自分のものだけのはずだった。
だが――その時。
北城門前。
三人の黒帝兵が、
その動きを見ていた。
(見たか――)
短い目配せ。
三人の兵は、
声を出さない。
ただ、
互いに頷く。
そして――
静かに走り出す。
ロザリーナが消えた、
その細い路地へ。
剣を抜かない。
足音も立てない。
背後から、
気づかれずに、
そっと仕留めるつもりだった。
*
その頃。
路地の奥。
ロザリーナは、
足を止めた。
石の壁。
そこに、
一枚の張り紙。
風に揺れている。
ロザリーナの視線が止まる。
闘技大会。
黒帝闘技場。
開催日時。
その中央。
大きく描かれている、
一人の男。
片目。
白鋼の鎧。
そして、
太い文字。
《二年連続王者》
《西部・ブラストリア城》
《――白鋼の牢獄独眼王》
(……白鋼……?)
ロザリーナの青銀の瞳が、
わずかに細くなる。
その背後。
暗い路地。
三つの影が、
静かに迫る。
*
その夜。
城はまだ立っている。
だが――
戦場の盤上は、
すでに狂い始めていた。




