第72話 紅の覚悟――怪物を止める半歩
◆南側・丘の上◆
月光が、斜めに落ちる。
淡い光が、
ベニバラの足元を照らしていた。
大型馬車の影。
その闇へ向かって――
ゆっくりと、歩く。
ロートが肩を支える。
血が、砂へ落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
背後。
重い足音。
ドン。
ドン。
ドン。
ラグが、追ってくる。
黒銀の重量甲冑。
焦らない。
逃げる獲物を、
確実に追い詰める、
獣の歩き方。
ベニバラは振り返らない。
ただ、
馬車の影へ。
さらに一歩。
そして、
小さく言う。
「ロート」
「はい」
「私が合図したら――」
一拍。
浅い呼吸。
「馬車を落とせ」
ロートの足が止まる。
「そのお身体では……逃げることが――」
声が、震える。
ベニバラは答えない。
視線は前。
迫る足音を聞きながら。
「私にはかまうな」
低く。
静かに。
「王と、千の民を守るためだ」
血が、
また砂へ落ちる。
ぽたり。
ロートの瞳が、大きく揺れる。
「将軍――」
ベニバラは、わずかに首を振った。
「命令だ」
短い。
だが、
絶対だった。
沈黙。
丘の上。
ヴァレンティスとオルフェンは、
木陰に身を潜めている。
馬車の影。
縄を握る民兵たちが、
息を殺して待つ。
ラグの足音が、近づく。
ドン。
ドン。
ドン。
ロートは俯く。
拳が震える。
歯を食いしばる。
そして――
ゆっくりと、顔を上げた。
それは、
兵士の目だった。
「……分かりました」
走り出そうとした背に、
声が飛ぶ。
「ロート」
ロートが振り返る。
ベニバラが、微笑む。
「大丈夫」
ほんの一瞬の沈黙。
「――私は死なない」
目が合う。
ロートは、答えない。
何か口にすれば、
涙がこぼれそうだった。
深く、一礼する。
そして――
踵を返す。
丘を駆け上がる。
縄を握る者たちのもとへ。
*
ベニバラは、
一人、
大型馬車の影で立ち止まる。
その時。
ラグの巨影が、
地面を這い、
足元まで伸びた。
「……もうそこまでか」
低い声。
下卑た笑い。
「そんな身体じゃ、歩けねぇだろ」
ベニバラは、
ゆっくり振り向く。
紅い髪が、風に揺れる。
紅い瞳。
その奥には、
まだ炎が残っている。
「お前には」
息を整える。
剣を持ち上げる。
震える腕。
それでも、
刃は、まっすぐ。
ラグへ。
水平に突き出される。
「歩けないくらいが丁度いい」
一拍。
そして、
静かに言い切る。
「ここが――お前の墓だ」
鉄仮面の下。
「ほざけ」
ラグの口角が上がる。
一歩。
踏み出そうとした――
その時。
――ジャラリ。
首に吊るした小指が鳴った。
ラグの視線が、丘上で止まる。
薄闇の中。
馬車の影。
そして。
ベニバラの、
ほんのわずか後ろ。
地面の、
不自然な膨らみ。
――落とし穴。
ラグの喉が鳴る。
そして。
「……ハッ」
短く、漏れる。
次の瞬間。
「ハッハハハ――!」
ラグが笑った。
喉の奥で転がる、
濁った笑い。
仮面の奥の目が、
馬車の影。
地面の膨らみ。
落とし穴。
順に、
ゆっくりとなぞる。
「なるほどな」
鼻で笑う。
「穴ァ? くだらねぇ。
――まだあんのかよ」
ラグの視線が落ちた。
ベニバラは、
答えない。
ただ――
踏み込む。
砂を蹴る。
剣が一直線に走る。
胸へ。
――ガキンッ!!
火花。
刃は、弾かれる。
分厚い鋼。
物理攻撃を、完全に弾く重甲冑。
ラグが嗤う。
「言ったろ」
斧が唸る。
「効かねぇーよ」
横薙ぎ。
ブォンッ!!
ベニバラが受ける。
ガギィンッ!!
衝撃が腕を貫く。
折れた肋骨が軋む。
肺から息が漏れる。
だが――
退かない。
一歩。
また一歩。
二人は、
横並びに、
大型馬車の下へ。
横腹を見せた巨大な車体。
斜面に据えられ、
重く沈んでいる。
だが――
車輪は押されれば、
一撃で外れる仕組み。
衝撃が加われば、
そのまま崩れて転がる。
巨大な罠。
その真下で、
二人は刃を交えていた。
ラグの斧が振るわれる。
縦。
横。
重い。
ベニバラは受ける。
弾く。
滑らせる。
だが――
鎧は、通らない。
ラグが嗤う。
「どうした軍神」
斧が振り上がる。
「さっきの威勢は――」
太い腕が上がった。
その瞬間。
ベニバラは、
剣を――
投げた。
仮面へ。
真正面。
――ガキィンッ!!
鋼が鳴る。
火花。
刃先が仮面にぶち当たる。
だが、刺さらない。
金色の刃は、
足元へ落ちた。
ラグの顔が弾かれる。
「っ――」
顎が、わずかに上がる。
次の瞬間。
その死角。
胸へ。
ベニバラは、
身体ごと突っ込んだ。
ドンッ!!
右肩から。
全体重で。
折れた肋骨が軋む。
肺が潰れる。
不意を突かれ、
ラグの巨体が、
半歩、
後ろへ動く。
左足が、
わずかに浮いた。
その背後。
横腹を向けた大型馬車。
そして――
ベニバラ。
紅い瞳が、
丘の上を射抜く。
「ロート――」
息を吐き切る。
「いまだ!!」
丘の上。
ロートが叫ぶ。
「斬れ!!」
声が裏返りかける。
ザンッ!
ザンッ!
ザンッ!
縄が、次々に切られる。
次の瞬間。
丘の上。
三台の馬車が――
動いた。
後ろ向きに吊られていた荷車が、
一斉に傾く。
石。
土。
瓦礫。
そのすべてを抱えたまま――
斜面を、
滑り出す。
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!
轟音。
丘が、唸る。
砂が爆ぜる。
土が崩れる。
ラグが振り返る。
大型馬車の向こう。
闇の中から。
迫る。
三つの影。
月光の下。
土砂を巻き上げながら、
三台の荷車が、
一直線に突進してくる。
「なにっ――!?」
ラグが踏み出す。
だが――
鉄靴が、
砂を噛む。
滑る。
体勢が、
崩れる。
その瞬間。
頭上。
ドォォォォンッ!!
一台目。
荷車が、
横腹を向けた大型馬車へ激突した。
木が裂ける。
鉄が軋む。
石が弾け飛ぶ。
続けて。
二台目。
三台目。
ドォォンッ!!
衝突。
土と瓦礫が爆ぜ、
車体が跳ね上がる。
すべてが、
押し潰される。
大型馬車の車輪が、
衝撃で吹き飛ぶ。
――バキィンッ!!
巨大な車体が、
その勢いのまま、
横へ崩れる。
その真下。
ラグと、
ベニバラ。
逃げ場はない。
ドゴォォォォォォンッ!!
四台の馬車が、
土砂と石を巻き込みながら、
斜面を転がる。
木が砕ける。
車軸が飛ぶ。
石が跳ねる。
砂煙が、
夜空へ噴き上がる。
丘が、
震える。
地面が、
波打つ。
ゴロゴロゴロゴロゴロッ!!
巨大な塊が、
すべてを押し潰しながら、
転がり続ける。
そして――
ガガガガガガッ!!
最後の衝撃。
四台の馬車が、
折り重なったまま、
斜面の途中で止まった。
沈黙。
砂煙が、
ゆっくりと広がる。
「……ベニバラ!!」
ヴァレンティスが声を上げる。
「将軍!」
ロートが駆け下りてくる。
だが――
返事はない。
砂煙。
砕けた木。
抉れた斜面。
転がる石。
すべてが、
頭上から覆いかぶさり、
飲み込み、
崩れ落ちていった。
まだ、
何も見えない。
土煙だけが、
静かに、
丘を覆っている。
砂煙の向こうに、紅が消えた。
怪物を止める半歩だけを、残したままで――。




