第71話 蒼の逆算――瞬殺の支点崩壊
◆北城壁・東側◆
狭い歩廊。
黒帝兵は十五。
そのうち六名は、すでに倒れている。
対するマクレブ隊は八。
負傷している者もいるが、
まだ全員が立っていた。
その時。
「――ギャァァァァ!」
三人の遊撃兵が、同時に宙を舞った。
一人は胸壁を越え、闇へ。
二人は石壁へ叩きつけられ、
そのまま崩れ落ちる。
石が震える。
空気が凍る。
ジャリ……。
巨大な斧の刃先が、
石畳を削りながら現れた。
黒銀の重量鉄甲。
処刑人――ルグ。
「ルグ様だ!」
九名の黒帝兵の顔に、露骨な安堵が走る。
「貴様ら。
これで、終わりだ!」
勝利の確信。
絶対の処刑装置が、到着した。
巨体のマクレブでさえ、
その頭は、ルグの胸に届く高さだ。
マクレブが歯を食いしばる。
「下がれ!!」
異様な圧。
空気そのものが押し潰される。
兵の足が、わずかにもつれる。
それでも。
マクレブは一歩、前へ出る。
槍を突き出す。
ギィンッ!!
火花。
刺さらない。
穂先が、重厚な胸甲に弾かれる。
衝撃が腕を逆流し、
肩まで痺れる。
「……硬い」
それでも踏み込む。
胸。
脇腹。
継ぎ目。
関節。
隙を探る。
だが――
ドォンッ!!
斧が横薙ぎに振るわれる。
一撃。
槍が弾き飛ばされる。
腕が跳ね上がる。
ルグは、止まらない。
マクレブは即座に槍を握り直す。
狙いは、鎧の継ぎ目。
ギィッ!!
金属の擦過音。
分厚い鋼の下で、
衝撃が吸われる。
効いていない。
次の瞬間。
太い左手が、槍を掴んだ。
黒い刺青が、血管とともに浮き上がる。
ぐい、と。
力任せではない。
ただ、質量で引く。
マクレブの体が、前へ引き寄せられる。
「くっ……!」
斧が振り下ろされる。
首へ。
空気が裂ける。
死が、一直線に落ちてくる。
次の瞬間。
マクレブは、横へ転がった。
――ドォォンッ!!
斧が石床を打つ。
甲冑ごと叩き込まれた衝撃で、
石が爆ぜる。
マクレブの体が弾かれ、
胸壁に激突する。
額がぶつかる。
鈍い音。
血が、冷たく流れる。
ほんの、指一本分。
遅れていれば、
首はなかった。
「副将!」
兵の声が震える。
マクレブは弱くはない。
だが。
押されている。
明らかに。
「後退だ!」
即断。
倒れている一人の腕を掴む。
後ろの兵が、もう一人を引きずる。
狭い歩廊を、
後ろへ。
後ろへ。
だが。
ジャリ……。
ルグは、止まらない。
歩幅は変わらない。
焦りもない。
ゆっくりと。
確実に。
距離を詰める。
「退け! 急げ!!」
マクレブが叫ぶ。
槍を突く。
弾かれる。
効かない。
質量。
破壊。
ルグが踏み込む。
ドン。
目の前。
巨斧が、振り翳される。
その瞬間――
歩廊の向こう。
風が、
止んだ。
蒼。
振り向いたマクレブの視界に、
栗色の長い髪が翻る。
「ロザリーナ!?」
青銀の瞳が、
まっすぐ前を射抜く。
瞬きもない。
その先で――
ルグが、止まった。
ほんの、半歩。
だが。
確かに。
斧を握る腕が、
わずかに、沈む。
カチリ。
首から吊るされた小指が揺れる。
「……なんだ、お前は」
低い声。
今まで対峙してきた幾多の殺気とは、
まったく質が違う。
怪物が、
初めて混じる、違和。
二人の間の空気が、
逃げ場を失い、軋んだ。
*
遊撃兵が負傷者を引きずり、
ロザリーナの脇を後退していく。
彼女は顔を向けない。
そっと、
腹へ手を当てる。
温い。
指に、赤が滲む。
(……開いたか)
眉が、わずかに寄る。
「ロザリーナ、大丈夫なのか?」
マクレブの声。
腹を貫かれたことは知っている。
横を向いた。
「心配ない」
無表情。
呼吸は乱れていない。
マクレブはルグから目を離さず言う。
「あいつは固い。化け物だ。
剣も槍も、通らん」
ロザリーナの視線が、ルグをなぞる。
装飾のない黒銀の重量甲冑。
分厚い鋼板。
胴を塞ぎ、
肋も、腹も、心臓も、
隙間なく閉ざす構造。
喉元まで覆う鋳鉄の仮面。
呼吸穴は、細い。
肩甲冑の下。
剥き出しの上腕。
断頭台と鎖の刺青。
隆起する筋肉。
そこだけが、可動。
足元。
鋲打ちの鉄靴。
重量。
重心。
一瞬。
すべてを読む。
「全身を甲冑で守っている、ということは」
青銀の瞳が、細くなる。
「――中は通る」
ルグの鉄仮面が、わずかに傾く。
「おいおい」
低い声。
「無視かよ」
斧が石畳を削る。
「俺は、断頭のルグ様だ。
処刑前に名を聞いてやる」
怒号が、歩廊を震わせる。
だが。
ロザリーナは振り向きもしない。
小さな声で。
「身体には、鍛えにくい場所がある。
――喉だ」
マクレブが息を詰める。
「それは、
――顎下まで、あの仮面が……」
「問題ない」
視線は、喉。
「奴が顎を上げた瞬間。
そこを射抜いてくれ」
焦りはない。
冗談でもない。
ただ、いつもの低い声。
ルグが苛立ちながら怒鳴る。
「この指はなぁ!
名のあるやつらからもぎ取ったもんだ」
首から吊るされた小指が、揺れる。
「おまえの綺麗な指も、
ここに並べてやるよ」
仮面の奥で、くぐもった笑い。
「すぐに干からびちまうけどな」
一歩。
ドン。
城壁が、鳴る。
ロザリーナは、
腹へ、
ほんの一瞬だけ視線を落とす。
赤。
(……長くは戦えない)
呼吸を整える。
鼓動を抑える。
血の流れを、
意志で遅らせるように。
「マクレブ。一瞬で終わらせる」
低い。
揺れない声。
「合図で、喉へ」
「そんなことが可能なのか――?」
だが。
青銀の瞳を見た瞬間。
疑問は、消えた。
そこには、
勝算の色しかなかった。
「わ、……分かった」
マクレブが、槍を握り直す。
汗が、柄を濡らす。
だが、手は震えていない。
「てめぇら!
どこまで無視してんだ!」
ルグが、さらに踏み出す。
振動が胸壁に響く。
それは足音ではない。
空気が、
押し潰される音。
鋳鉄の仮面が、わずかに傾く。
見ている。
怒りの籠った目で、彼女だけを。
ロザリーナは、ようやく顔を上げた。
間近の巨躯を、静かに見上げる。
そして言う。
「――しゃべりすぎだよ」
低い。
抑揚のない声。
怒りでも、嘲りでもない。
ただの事実。
その一言で、
後ろにいた遊撃たちの腕に、
粟立つものが走った。
「マクレブ、その盾を」
「ああ」
黒帝軍の鋼の円盾が渡される。
ずしり。
左に盾。
右に剣。
ロザリーナの視線が、
自然とルグの足元へ落ちる。
完全装甲。
脛から足先まで鋼。
斬れば――弾かれる。
直感が告げる。
「てめぇー!!」
ルグが斧を持ち上げる。
ロザリーナは、
右手の剣を振る。
一閃。
蒼が走る。
胸へ。
斬。
――キィンッ!!
火花。
刃が弾かれる。
厚い鋼板。
ルグは避けない。
ただ、踏み込む。
前へ。
左足。
ドン。
石が鳴る。
質量が迫る。
両手持ちの処刑斧が、横薙ぎ。
ロザリーナは退かない。
斜めに踏み込む。
前屈み。
下から、鋼盾をぶち当てる。
ガギィンッ!!
火花が爆ぜる。
受けない。
止めない。
ただ、角度を変える。
斧の軌道を、
上へ。
流す。
ルグの体幹が、わずかに崩れる。
重心が、右腰へ沈む。
左足が、軸になる。
踏み込みの癖。
体重の逃げ場。
(ここだ)
ロザリーナは、剣を放した。
カラン。
石を打つ、乾いた音。
「えっ――?」
マクレブの喉が鳴る。
(――無防備?)
ルグの目が、わずかに揺れる。
次の瞬間。
盾を両手で掴み、
頭上へ。
「――っ!!」
腹が、熱い。
鎧の内側で、
ぬるり、と何かが動いた。
大きく息を吸う。
「――ハァッ!!」
体を、強く沈める。
速い。
狙いは――そこ。
(足)
――ガツンッ!!
鋼盾が、
槌のように叩き込まれる。
全体重。
一点へ。
左足のつま先。
鈍い衝撃。
――グシャリ!
鋼靴の先端が、
内側へ、
潰れる。
逃げ場は、ない。
その内側で。
指が、
砕ける。
「ぐぅ――ッ!!」
巨体が揺れる。
支点が、崩れる。
右膝が、石を打つ。
ドンッ。
城壁が、わずかに震えた。
その瞬間。
ロザリーナは、
もう動いている。
踏み込む。
両手で盾を握り締め、
全身を捻る。
腰から。
肩から。
横殴り。
――ガァンッ!!
鉄仮面に直撃。
衝撃が、
首を弾く。
顎が、
跳ね上がる。
顎下の装甲が、
わずかに、
浮く。
一瞬。
本当に一瞬。
喉元が、
露出する。
「今――!」
マクレブの槍が閃く。
迷いはない。
一直線。
隙間へ。
――ブスリ。
肉を裂く音。
鉄ではない、場所の音。
だが――
ルグは、終わらない。
膝をついたまま。
崩れながらも。
処刑斧を、
振るう。
ただ。
処理する機械のように。
横薙ぎ。
――ドォォンッ!!
胸壁が削れる。
石が砕ける。
火花と破片が爆ぜる。
胸壁の一角が、弾け飛んだ。
ロザリーナが顔を逸らす。
尖った石片が頬を裂き、
血が、蒼の甲冑に細い線を引く。
それでも。
槍は、抜けない。
喉骨を噛む感触。
マクレブが両腕で柄を握る。
「――貫けッ!!」
押し込む。
さらに奥へ。
首の後ろ――後頸部へ。
突き抜ける。
なおも。
斧が、半振りだけ、動く。
執念か。
ただの反射か。
――その瞬間。
仮面の奥の目が、
初めて“焦点”を失った。
光が、抜ける。
そして。
止まる。
ガラン。
鉄が石に転がる。
重量甲冑の巨体が、
両膝をついたまま、
ゆっくりと、
後ろへ崩れる。
胸壁にもたれ、
仮面が、
夜空を向く。
動かない。
沈黙。
黒帝兵たちが、立ち尽くす。
「……なっ?」
かすれた声。
「う、嘘だろ……」
槍が、石に落ちる。
乾いた音。
「ルグ様が……?」
「そんなはずが……」
誰も、前へ出られない。
怪物が倒れたのではない。
彼らの“絶対”が、
崩れたのだ。
巨躯は動かない。
血の滴る音だけが、
石を伝う。
ぽたり。
ぽたり。
ロザリーナが、息を吐く。
短く。
「……終わった」
マクレブが槍を引き抜く。
(本当に、……一瞬だったな)
その瞳は、
戦場で初めて、
奇跡を見た者の色だった。
構造を殺し、
常識を崩し、
連携で、
怪物を倒した。
――それでも、
三つの戦場は、
なお、同時に燃えている。
ルグは倒れた。
だが。
ロザリーナの腹から、
細い血が、
止まらずに流れている。
怪物を倒すたびに。
彼女の時間も、
確実に削れていた。
そのとき。
遠くで別の轟音が響いた。
夜は――まだ明けない。




