第70話 軍神の残火――丘はまだ答えを持たない
◆南側・丘の下◆
月明かりに縁どられた巨大なブラストリア城。
その影の先。
砂塵が、低く這う。
白髪が揺れる。
ダルパスが走る。
「こっちじゃ、化け物!」
わざと大きく叫ぶ。
黒い巨躯が、
倒れた老人の腕を、
無造作に踏み折る。
そこへ。
槍を突き出す。
――ガキンッ。
乾いた拒絶。
刃が、通らない。
全身、黒銀の重量甲冑。
鈍く光る、分厚い鋼。
とにかく――重い。
ラグは、歩いているだけだ。
ゆっくり。
だが、確実に。
大斧を振るう。
ブォンッ!!
土が爆ぜる。
老人たちが横へ転がる。
「逃げろ!」
「散れ!散れ!」
ダルパスが、わざと背を向ける。
追わせる。
時間を、買う。
だが。
ラグは追わない。
視線は、丘。
常に。
獲物は、上。
そのとき。
林の闇に――
一瞬、紅。
月光を裂いて。
――ヒュン。
鋭い風切り。
槍。
一直線。
迷いのない軌道。
ラグは、避けない。
胸へ。
ガキンッ!!
重甲冑が鳴る。
鋼は軋まない。
鈍く、重い音。
槍は――
刺さらない。
鋼に、止められる。
胸で受け止めた。
わざと。
嘲るように。
弾き飛ばす。
槍が宙を舞い、
くるり、と回転し、
土へ突き立つ。
ラグが、口の端を上げる。
「……ほう」
丘の上。
紅い髪が、風に揺れる。
ベニバラ。
左腕は吊られたまま。
右手で、剣を抜く。
その姿は、満身創痍。
だが、立っている。
「爺さんたちは、もういい」
声は、低い。
震えない。
「ここからは、私がやる」
ダルパスが振り向く。
一瞬。
目が合う。
言葉はいらない。
互いに、理解している。
頷く。
「わしらは退くぞー!」
怪我人を肩に担ぐ。
血を引きずる。
足をもつれさせながら、
それでも。
老人たちは、
ベニバラに振り返って、
深々と一礼した。
*
砂塵の向こうで、
紅と黒が、対峙する。
ラグは、目を細めた。
「……お前」
一歩。
ドン。
地面が、沈む。
「ボロボロじゃねぇか」
左腕は吊られ、
鎧もない。
白いチュニック。
脇腹に、濃く滲む赤。
立っているのが、不思議なくらいだ。
「私がやる、だと?」
鼻で笑う。
「――その無様な格好で、何をやるつもりだ?」
嘲りは、低い。
重い。
ベニバラは、答えない。
息を整える。
肋骨が、きしむ。
肺が、焼ける。
それでも。
前へ。
一歩。
踏み出す。
その瞬間。
ラグの視線が、止まる。
紅い髪。
紅い眼。
「……思い出したぜ」
片眉が吊り上がる。
「聞いたことがある」
低く。
「八将を、一人落とした女」
空気が、ぴたりと止まる。
「紅の軍神、だったか?」
月光が、二人を照らす。
ラグの瞳に、初めて色が宿る。
獲物を見つけた、色。
「……いいねぇ」
斧を肩に担ぐ。
鉄が、軋む。
「お前を殺せば、俺の名が上がるぜ」
一歩。
ドン。
「八将殺しの女を倒したラグ、ってな」
名を、刻むように。
誇示するように。
「八将にもなれない奴が――」
ベニバラの瞳が、
見上げるほどの巨躯を、射抜く。
「よく吠える」
薄く、笑う。
鉄仮面の奥。
ラグの目に、わずかに怒りが混じる。
「……ほざくな」
首に吊られた小指が、揺れる。
乾いた音。
「この指はな」
一本、揺れる。
「お前ら王国の“勇者”どものもんだ」
鎖が、鳴る。
「逃げ惑う英雄気取りの首は、よく飛んだぜ」
そして。
踏み込む。
ドンッ!!
地面が、沈む。
斧。
横薙ぎ。
空気が裂ける。
ベニバラ、受ける。
ガギィンッ!!
凄まじい衝撃。
右腕が、痺れる。
骨が、軋む。
折れている肋骨が、悲鳴を上げる。
肺が潰れ、
息が、漏れる。
「ぐっ……!」
足が、半歩、下がる。
砂が、削れる。
ラグは、止まらない。
縦。
横。
振り下ろし。
振り抜き。
重い。
速い。
一撃一撃が、処刑。
受けるたびに、
衝撃が骨を叩く。
ベニバラの剣が、左右へ弾かれる。
火花。
砂。
血。
*
丘の上。
ロートが叫ぶ。
「将軍!」
届かない。
ラグが嗤う。
「どうした、軍神さんよ」
振り下ろし。
ドォンッ!!
地面が抉れる。
「お前も名ばかりか?」
ベニバラは、立つ。
踏みとどまる。
食いしばる唇から、赤がしたたる。
ラグが、さらに笑う。
「折れてんだろ?」
一歩、近づく。
「いろんなとこが」
斧を胸に振り切る。
ガツンッ!!
空気が抜ける。
「ここも――」
腹を打つ。
「ここも――」
ガツンッ!!
ベニバラは剣で受ける。
衝撃が腕に――
そして肋骨へ走る。
息が、抜ける。
視界が、白む。
膝が、揺れる。
それでも。
退かない。
「死にぞこないが!」
もう一撃。
上から。
斧が振り下ろされる。
受ける。
衝撃。
膝が、地面に触れる。
ドサッ。
砂が舞う。
腹から、
血がしたたり落ちる。
新鮮な赤。
生きている色。
それが月明かりの下で、黒く光る。
だが。
目は、死んでいない。
ラグが、斧を振り上げる。
影が、覆う。
「終わりだ」
その時。
丘の上。
ブオォォォ――ッ!!
けたたましい、遊撃の角笛。
夜気を裂く。
続けて。
松明が、横へ三度、振られる。
合図。
罠、完了。
ラグの視線が、わずかに上を向く。
ほんの、一瞬。
ベニバラは、
剣を杖代わりに体重を預け、
顔を上げる。
だが。
「うっ……ぶはっ!」
血を吹き出す。
胸の奥が焼ける。
視界が、揺れる。
(頑張ってくれ……もう、少しだけ)
自分に、言い聞かせる。
立つ。
膝が、震える。
それでも、立つ。
ラグから視線を外さず、
ゆっくりと、
丘の上へ。
背を見せない。
一歩。
剣を前に。
また一歩。
「将軍!
大丈夫ですか!」
我慢できなくなったロートが、
丘の中腹まで駆け降りる。
ベニバラが顔を上げる。
呼吸を整える。
喉が、ひくりと鳴る。
「……ロート」
「はい」
声が、近い。
「指先の感覚がない。
剣を……強く握らせてくれ」
一瞬。
ロートの喉が詰まる。
「将軍……」
震える両手で、
彼女の右手を包む。
剣の柄を、
無理やり握らせる。
力を、
押し込む。
「すまない」
ベニバラは、ほんの僅かに笑った。
ロートの肩を借り、
斜面の上の大型馬車の方へ。
砂に、血の跡が残る。
ラグは、走らない。
大斧を肩に担ぎ。
ゆっくりと、歩く。
重い足音。
ドン。
ドン。
(もう少しで――)
(八将殺しの紅を、俺が斬る)
ラグの頭にあるのは、
それだけだった。
*
丘の上。
静かに、
獲物を待つものが、素知らぬ顔で迎えている。
三台の馬車は縄で張られ、
その下に大型馬車。
石は積まれ。
穴は、隠された。
計算通り。
すべて――整った。
だが。
夜風が、ひとつ、強く吹く。
ラグの足は、
本当に罠の“下”へ来るのか?
誰が、誘導する。
そして、どう逃げる。
それは。
誰にも、分からない。
崩れるのは、
奴か。
こちらか。
丘は、
答えてくれない。
だが、血は確かに流れている。




