第68話 揺れる王――手負いの赤の軍神、再び
「だからこそですじゃ」
ダルパスは、笑った。
「奴が向かって来たら、
わしら逃げ回ります。
ちょいと追いかけさせるだけですじゃ」
後ろの老人たちが、
「そうじゃ」
「走るくらいはまだ出来るぞ」と頷く。
「止めても無理ですじゃ」
「わしらが決めたことですからな」
決意は固い。
ヴァレンティスは、後方を見上げる。
丘の上。
三台の荷馬車が、
斜面を引き上げられている。
縄で固定。
位置の微調整。
その後で、石を積み込む。
視線を戻す。
ダルパスと目が合う。
ほんの一瞬。
王と民。
「……すまない」
低く。
だが、はっきりと。
「決して無理はするな」
「へい!」
老人たちが槍を構え、
声を張り上げて、夜の下へ降りて行く。
そのとき。
「どうした?」
振り向く。
ロートに肩を借りたベニバラ。
大型馬車を使うので、ロートが起こして連れてきた。
左腕は吊られ、 顔色は悪い。
だが、目は死んでいない。
「将軍。
ここへ敵の刺客が向かっています」
オルフェンは簡潔に告げる。
「民の馬車を逃がすのに時間が必要です。
罠を仕掛けています。
完成までの――足止めを」
ベニバラは、わずかに視線を細める。
「馬車を捨て、散開させられないのか」
即断。
オルフェンは首を振る。
「この辺りは狼の群れが出ます。
足の悪い老人も、幼子もいます」
夜風が丘を渡る。
草が擦れ合う音。
ベニバラはゆっくりと丘を見上げた。
斜面の上。
三台の馬車。
その下に、自分が乗っていた大型馬車。
配置。
傾斜。
視界。
遮蔽物。
一瞬で、すべてを読む。
「……まだ、掛かるな」
短く、息を吐く。
ヴァレンティスが口を開く。
「医師に聞いた。
お前は重傷だ。
常なら歩ける状態ではない」
一拍。
「下の馬車で安静にしていろ」
ベニバラは、かすかに笑う。
「殿下。
分かっています」
静かな声。
「――戦えません」
だが。
「ただ、一つだけ頼みがあります」
ロートの肩を借り、
丘の上の石を積み込んでいる大型馬車の下へ。
血の滲む腹を押さえながら。
「ここに、穴を」
「穴?」
オルフェンが目を細める。
「“ひとり”が落ちる程度でいい。
広げる必要はない」
一拍。
「――落とし穴があると、分かるように」
オルフェンの眼鏡が、きらりと光る。
「なるほど……
視線を下へ誘導するのですね」
「穴に意識が落ちれば、
“上”への注意は散る」
ベニバラは答えない。
ただ、唇の端が僅かに上がる。
それは、
彼女が時折みせる、
自分だけ楽しんでいる時の悪い顔つきだった。
「確かに。
一つ穴があれば、他にもあると疑う。
足元に視線が落ちれば、馬車への警戒は緩む」
オルフェンは即座に頷く。
「穴掘りの得意な者を!」
民兵たちが走り出す。
松明が揺れる。
影が、長く伸びる。
丘の上では。
悪い顔で微笑んだ将が、
静かに盤を動かし始めていた。
*
そのとき。
丘の下から、
悲鳴が上がった。
「ぎゃぁぁぁ!!」
降りていった民兵たちの声。
逃げ回るだけではなかった。
最初から。
――止めるつもりだった。
命を、杭にしてでも。
ラグを囲む。
白髪の輪。
震える槍先が、一斉に突き出される。
「今じゃ!」
三方向。
同時。
喉元。
脇腹。
膝裏。
殺す気で、突いた。
だが――
ラグの斧が、横薙ぎに振るわれる。
首から吊るされた小指が、ぶらり、と揺れる。
仮面の奥の視線は、
丘の上から一度も外れない。
ブォンッ!!
空気が裂ける。
次の瞬間。
ドォォン!!
盾ごと。
槍ごと。
三人まとめて弾き飛ばされる。
ラグにとって、
彼らは人間ですらない。
道を塞ぐ、
ただの障害物。
老人たちが地面を転がる。
土煙が噴き上がる。
血が飛ぶ。
呻き。
骨の折れる音。
だが。
それでも止まらない。
逃げる。
散る。
引きつける。
そして背から、槍を突き出す。
だが――重い。
刃は、刺さらない。
巨躯は振り向きもしない。
太い腕が払う。
片足を引きずっていた男が、宙を舞う。
処刑人は、止まらない。
*
丘の上。
ヴァレンティスが駆け寄る。
下を見る。
倒れている者。
地を這いながら、なお槍を離さぬ者。
正面で逃げ惑い、
振り返って石を投げる者。
背後から、
震える腕で槍を突き出す者。
罠は、まだ未完成。
斜面の上では、
縄が結ばれ直され、
石が積まれていく。
あと、わずか。
だが――
その“わずか”が、遠い。
時間を、血で買う。
それしかないのか。
ヴァレンティスの瞳が揺れる。
背後には、千の民。
馬車の中の子ども。
母の胸に顔を埋める小さな手。
まだ状況を知らぬ、笑い声。
ダルパスたちは、知って降りた。
自分たちが“時間”になるために。
王の手が、剣の柄を握る。
一歩、踏み出しかける。
そのとき。
「ロート!」
低く。
だが、鋭い声。
ベニバラだった。
ヴァレンティスが振り向く。
赤く滲む腹を押さえ、
ロートに支えられたまま立っている。
それでも、目は揺れない。
「私の剣を」
「ベニバラ!」
ヴァレンティスの声が荒れる。
「これ以上は――」
“死ぬぞ”と言う言葉が、止まった。
オルフェンとロートが、同時にベニバラを見る。
一拍。
風が止まる。
丘の下で、また名も知らぬ老人が弾き飛ばされる。
ベニバラは、王を見た。
静かに。
「……殿下」
「私が死んだとしても」
さらに一拍。
「私一人と、
千の民の命。
王として、どちらが重いですか」
ヴァレンティスは、言葉に出来なかった。
ベニバラが続ける。
「子らの笑い声を、
私は、いつまでも聞いていたい」
王の瞳が伏せられる。
拳が、白くなる。
やがて。
ゆっくりと顔を上げる。
「……分かった」
短い。
だが、それは王の決断だった。
ベニバラは、小さく礼をする。
「ありがとうございます」
「ロート。槍を。
……それから、私の剣を」
「……はい」
ロートの瞳が潤む。
走る。
赤の軍神――
その象徴たる、金色の刃を取りに。
ヴァレンティスが言う。
「ベニバラ、鎧は」
「今は重すぎます」
純白のチュニックに、血が滲んでいる。
「死ぬことは許さない」
低い声。
命令ではない。
祈りに近い。
ベニバラは、わずかに肩を竦める。
ロートから剣を受け取る。
その重みが、掌に戻る。
「殿下」
右手に、力を込める。
柄が鳴る。
「私が――」
一拍。
「この剣を握っているうちは、
まだ何も終わらせません」
その紅い瞳に、迷いはない。
丘の下。
ラグが、ゆっくりと顔を上げた。
仮面の奥の闇が、丘を見据える。
戦は――
いま、この丘で。
千の命の重みを、
秤にかけ始めていた。
――◇―― ――◇―― ――◇――
◆北側・城門前◆
その頃、北門では――
橋。
右側の鎖は、たるんだまま。
左側だけが、
ピンと張り詰めている。
橋は斜め。
全重量が左へ。
不自然な均衡。
そして――
左側の巻取り機が、悲鳴を上げた。
ギギギ……ギィィィィィッ!!
次の瞬間。
ギィィィィィッ……ガクーーン!!
斜めにぶら下がる橋板が、一段右へ落ちた。
「ぐわぁ――!!」
橋上の兵が一斉に左へ崩れる。
左の巻取り機。
歯車。
木製基台。
固定杭。
すべてが軋む。
ミシ……ッ。
軸が、土台ごと傾いた。
「も、持たんぞ……!」
鉄棒を握る腕が震える。
歯車の歯が、ひとつ、滑る。
グツンッ。
橋が、さらに数寸、沈む。
橋上の身体が、揺さぶられる。
鎖が、引き絞られる。
ギィィィィンッ……!
張力が限界へ達する。
その刹那。
左側――
木製基台の固定杭。
バキィーーンッ!!
支柱が根元から吹き飛んだ。
歯車が弾ける。
門の外。
ガッシャァァァァァン!!
巨大な跳ね橋が、落ちた。
地面を叩く衝撃。
石と木が大きく爆ぜる。
空気が震える。
城壁が、揺れる。
橋は撓み――
弾み――
跳ね返る。
その上。
遊撃二名。
踏み場を失い、
鎖を掴み損ねる。
「うわっ――!」
指が、空を掻く。
次の瞬間。
二つの影が、橋の縁を越えた。
月光に縁取られ――
闇へ。
ドボォンッ!!
重い水音が、外濠を打つ。
黒い水面が揺れ、
波紋が広がる。
橋はようやく地に伏し、
低く震えながら、
止まった。
静寂。
荒い息。
血と水の匂い。
そして。
城壁の蒼。
丘の上の紅。
夜明け前の空が、
ゆっくりと、
色を変え始めていた。




