第67話 傾いた命の天秤――選択肢を増やす者たち
夜明け前。
東の空が、薄紫にほどけ始めている。
だが城壁の上は、まだ夜だ。
冷たい風が石を撫で、
鉄鎖を鳴らす。
ギリ……ギリ……。
巻き上げられ続ける橋が、
夜を拒むように軋んでいる。
ロザリーナは胸壁の縁に立った。
栗色の長い髪が風に揺れる。
青銀の瞳が、静かに落ちる。
彼女の身体に合わせて、
曲線的な装甲板が幾重にも重ねられている。
――深い蒼の甲冑。
その腹。
貫かれた痕。
兄ライザリオンから受けた一撃。
止血はしている。
だが、奥で鈍く疼く。
ロザリーナは、そっとそこに手を当てた。
指先に伝わるのは、痛みではない。
――まだ生きているという事実。
子供たちの名前は、忘れてはいない。
(……まだ終われない)
ロザリーナは、
息を、ひとつ吐いた。
感情を切り離す。
胸壁の狭い隙間へ、半身を大きく乗り出した。
下。
北城門の内側。
城壁に開けられた門洞の中に、黒帝兵が密集している。
肩をぶつけ合い、
怒号を重ね、
内扉と閂に全体重を預けている。
「押せ! 開けさせるな!」
「橋を上げろ!」
怒号が渦を巻く。
そして――
右。
城壁内側の据え付け台。
円形の木製基台。
二人の兵が、歯車に通した鉄棒を押している。
鎖を巻き上げる軸。
歯車。
その側面に、規則正しく上下する鉄の爪。
カチッ。
――カチッ。
逆転防止。
あれがある限り、橋は落ちない。
「あった。……あれか」
声は低い。
確信だけがある。
「アラン!」
歩廊の向こう。
ニコルの元へ戻ろうとしていたアランが振り向いた。
「槍を!」
一瞬も迷わない。
「受けてください!」
アランは握っていた槍を放った。
空を裂く。
ロザリーナは振り返らない。
顔は城内。
右手だけで掴む。
重さ。
長さ。
重心。
瞬時に読む。
カチッ。
カチッ。
歯車は止まらない。
鎖が唸る。
橋は、三十五度を超えた。
立っていられる角度じゃない。
下。
橋の上。
クレセントが叫びながら縄を引く。
「上がれ! 急げ!」
先頭――ポコラン。
縄を握り、
足を壁に押し当て、
必死に登ってくる。
その後ろに遊撃兵。
一人。
また一人。
鎧を捨てた身体が、
縄に揺れ、
夜風に煽られながら這い上がる。
城壁の上では、アズが腹ばいになって待っていた。
「――急いで!」
アズが、胸の前で小さな拳を握る。
もう少し。
だが。
「うわっ――!」
ポコランの手が滑った。
一瞬、世界が落ちた。
「ポコラン!!」
アズの手が、ポコランの背を掴んだ。
◇
ギリ……ッ。
橋が、さらに一段、持ち上がった。
クレセントは、縄の端を掴み、
最後尾を待つ。
時間がない。
このままでは、潰れる。
ロザリーナは槍を握り直す。
一歩。
胸壁の凹の上へ踏み出す。
足場は、拳二つ分。
夜風が裾を揺らす。
左手を胸壁の角へ回し、
外へ身を乗り出す。
下を見る。
歯車の回転。
“戻り”の瞬間を読む。
カチッ――
逆転防止の爪が、
一定の間隔で噛み合う。
噛み、外れ、
次へ移る刹那。
その瞬間。
腹の傷が軋む。
だが、構わない。
右手。
槍を、叩き込む。
ガァァンッ――!!
火花。
鉄が裂ける。
爪が弾け飛ぶ。
逆転防止の鉄片が、
宙を舞い、
夜に散る。
歯車が沈み込む。
一瞬、空転。
次の瞬間。
ギリギリギリギリギリギギギギギギィ――!!
こぶし大の鉄鎖が、
唸りを上げて巻取り軸から跳ねた。
巨大な鉄鎖が暴れ、
鉄棒を押していた二人の兵の頬を掠める。
悲鳴。
二人が後方へ弾かれ、
石畳に転がる。
テンションが、抜ける。
巻取り機が、空転する。
制御を失った鎖が、
一気に外へ滑る。
橋が――
片側だけ、落ちた。
ドドドドドドドンッ!!
石粉が舞う。
衝撃が城壁を震わせる。
左は持ち上がったまま。
右が、一気に沈む。
斜め。
軋む。
木板が悲鳴を上げる。
橋上。
「うわぁぁぁ!!」
全員が、一斉に滑る。
右へ。
下へ。
足が浮く。
身体が流れる。
クレセントが膝を突く。
片手で縄を掴み、
もう片手を床板に。
滑る。
橋がねじれる。
左から右へ。
傾斜が右下へ変わる。
「鎖を掴め!!」
「落ちるな!!」
叫びが重なる。
橋に、亀裂が走る。
ミシッ。
右へ滑り落ちた数名。
身体は外。
掴んだ鎖に、指が食い込む。
皮が裂け、血が滲む。
「助けてくれぇー!」
橋は完全に制御を失う。
暴れ。
震え。
ねじれ。
木板が軋み、鉄が泣く。
だが――
やがて。
ギシ……ギ……
震えが、弱まる。
左側の歯車も止まり、
その側の鎖だけが張っている。
橋は、
斜めに浮いたまま、
かろうじて――
止まった。
◇
薄闇の中。
音が消えた。
誰もが、数瞬、動けなかった。
城壁に登ったポコランが、下を覗き込む。
橋は――
右へ沈み、
左へ吊られ、
まるで壊れかけた天秤のように、
不気味な均衡を保っている。
ギリ……ギギギッ……
鎖が、まだ低く唸っている。
その時。
後方。
重い足音。
手押し荷車。
鉄と鉄がぶつかる音。
ガン、ガン、ガン――
戻って来た。
鎧を着けたソルディオたちが、
盾と鎧を運んで駆け込んでくる。
荷台の上――月光を受けた胸甲が、
白く鈍く光った。
「将軍!」
ソルディオが叫ぶ。
ガルデンが振り返る。
「戻ったか!」
「将軍たちの鎧と盾を持ってきました!」
兵たちが、次々と装備を地面へ放り投げる。
鉄の音が石を打つ。
重みのある現実の音。
「橋は!?」
ソルディオの目が、斜めに浮いた橋を捉える。
「持っておる……今は、な」
ガルデンの声は低い。
「いつ割れてもおかしくない」
一瞬。
互いの目が合う。
言葉はいらない。
状況は、理解している。
ソルディオが短く頷いた。
「俺たちは、西門へ向かいます」
声は、静かだった。
「頼むぞ」
ガルデンが、わずかに口の端を上げる。
「勝ちの選択肢を増やす」
戦況が固定されるのを嫌う、
ロザリーナが言った言葉だった。
「はっ!」
ソルディオが振り返る。
「行くぞ!」
盾を背負い、
剣を握り、
鎧を鳴らしながら、
城壁を右回りに、闇の中へと駆け出した。
西門へ。
橋は傾き、
北門は閉ざされた。
だが、戦いはまだ終わらない。
――◇―― ――◇―― ――◇――
◆南側・丘の上◆
民兵たちに罠の指示を終え――
オルフェンが戻ってきた。
息は乱れていない。
だが、金縁の眼鏡の奥、額に汗が光っている。
ヴァレンティスは振り向かない。
視線の先。
丘の下を見据えたまま。
巨大な斧を担ぎ。
鋳鉄の仮面。
鉄塊のような肩。
ラグは、城の前に広がる、
平地の中ほどまで迫っていた。
ゆっくり。
だが、確実に。
「馬車の手筈は、指示済です」
オルフェンが報告する。
「大型馬車のさらに上の斜面に三台。
荷台に土と石を満載し、
縄で縛り、後ろ向きに固定します」
一拍。
「合図で、
その縄を斬れば、三台は一気に落下。
真下にある大型馬車を巻き込み――」
視線を伏せる。
「退路は断てます」
指示以上の備え。
それが彼の流儀だ。
「承知した」
だが、ヴァレンティスは、振り返らない。
ただ、着くまでの距離を測る。
斧の重さ。
歩幅。
踏み込みの速さ。
「……間に合うか」
低く、自分に問うように言う。
「――難しいですね。
まだ、わずかに時間が必要です」
(……先に来たら終わってしまう)
そのとき。
背後から、しゃがれた声。
「王様!」
振り向く。
老人ダルパス。
そして、同じく白髪を揺らす民兵二十名。
皆、槍を握っている。
若くはない。
だが、その目は決まっていた。
「わしらが、少し時間稼ぎをしてきますじゃ」
「それは駄目です」
即座に、オルフェンが止める。
「危険すぎます。
相手は黒帝軍――」
「だからこそですじゃ」
ダルパスは、笑った。
皺だらけの顔で。
*
処刑人は、必ずここへ来る。
罠は、まだ間に合わない。
その時間を買うには――
あと何人の命を差し出せば、足りるのか。




