第66話 止まらない橋――ただ一つの誤算
◆北側・城門前◆
橋の袂。
重装備を脱ぎ捨てたガルデンたち七十が、駆け込んでくる。
だが――
橋は、すでに吊り上がっていた。
地面から離れ、
外濠の上で傾いている。
足元に広がる闇。
橋板までは、もう届かない。
「くっ……!」
ガルデンの拳が震える。
その時。
傾く橋の上。
アズが踏ん張っていた。
足を大きく開き、
鎖を掴み、体を低く構える。
その前。
「ポコラン!!」
少年が、橋の縁にぶら下がっている。
両手だけで、橋板を掴んでいる。
足は、ぶらぶらと空を蹴るだけ。
下は、深い外濠。
黒い水が、口を開けている。
「しぬしぬしぬしぬ。
――落ちるぅぅぅぅぅ!!」
ポコランの腕が震える。
血が引き、指が白くなる。
汗で、滑る。
指が、ずれる。
一本、外れる。
「掴まって!!」
アズが腹ばいになり、体を前へ投げ出す。
群青の髪が額にかかり、灰青の瞳が揺れる。
細い腕――片手を鎖に絡め、
もう片手を必死に伸ばす。
「アズぅぅ!!」
指と指が触れる。
絡む。
その瞬間。
橋がさらに上がる。
重力が一気に二人を引く。
「くっ、……!!」
歯を食いしばる。
腕が震える。
筋が浮き、
肩が軋む。
関節が悲鳴を上げる。
背後で遊撃二人が、
必死にアズの足を押さえる。
「アズ、離すな!!」
足が、ずれる。
鎖が、甲高く鳴る。
橋は、さらに立ち上がる。
二十度。
二十五度。
重力が、二人を前へ引く。
「くっ……こん、なっ……ろぉぉ……!!」
声にならない唸り。
最後の力。
アズが、体を後ろへ反らす。
肩が引き裂かれそうになる。
ポコランの腕が橋板にかかる。
ずるり。
肘。
肩。
半身。
さらに。
アズが引く。
歯を食いしばり、
背筋を震わせながら。
ポコランが、
斜めに傾いた橋の上へ転がり込む。
その体が前へ滑る。
アズが、咄嗟に抱き寄せる。
「アズぅぅぅ……」
涙目のポコラン。
震える小さな体。
それを、
さらに小さな身体が抱える。
だが。
橋は、止まらない。
さらに上がる。
「このままでは、潰される!」
先頭のクレセントが叫ぶ。
橋上は混乱。
滑る。
転ぶ。
鎖にしがみつく者。
城壁と、吊り上がる橋の間。
その狭間へ、
体が押し込まれていく。
踏み場を失い、
互いにぶつかり合う。
圧が増す。
骨が軋む。
あと数度。
このままでは――
城壁の内扉と橋に挟まれ、
全員が潰れる。
だが。
下では黒い水が、
静かに口を開けて待っている。
落ちるか。
潰れるか。
彼らの選べる未来は、二つだけだった。
――◇――
その時。
馬蹄。
乾いた音が、夜を裂いた。
それは――
戦場を知る者の音だった。
ロザリーナ。
馬を止めると同時に、
状況を一瞬で読む。
橋はすでに二十五度を越えている。
歯車は――巻き上げは止まっていない。
城壁上では、
ニコルたちが敵兵を食い止めている。
橋の上では、
挟まれかけた兵が悲鳴を上げている。
時間はない。
「ガルデン!」
老将が振り向く。
目が、わずかに見開かれた。
「……ロザリーナ?」
低い声。
驚きと、安堵と、期待。
だが、彼女の返事はない。
その瞬間には、もう動いている。
馬上で縄束を解く。
首に担いでいた大縄。
片手で解き放ち、
端を素早く回す。
迷いがない。
絶対に解けぬ結び。
輪を作る。
そこに――
ロートから借りた籠手を結び付ける。
鉄の重み。
即席の錘。
輪は、縄を緩めれば広がる結び。
引けば、締まる。
「……なんじゃ、それは」
馬の下から、ガルデンが声を上げる。
ロザリーナは答えない。
視線は、橋。
三十度。
三十五度。
歯車の音は止まらない。
ギリ……ギリ……。
鎖が悲鳴を上げる。
――時間がない。
その時。
「閉まったぞ!!」
中から敵の怒号。
内扉の閂が落ちる音。
退路は、断たれた。
ロザリーナは、ゆっくりと顔を戻す。
「剣を一本ほしい。
敵の――折れない剣を」
ガルデンが、躊躇なく剣を放る。
「ほれ、受け取れ」
それは、
砦で奪った、黒帝軍の折れない剣。
空中で掴む。
重みを確かめ、背に差す。
「何をする気じゃ」
ロザリーナの視線は、
すでに城壁上へ走っていた。
鎖が通る、城壁に開いた石枠。
青銀の瞳が、細くなる。
「あれを止めてくる」
そう言うと同時に、
馬の背に立ち上がる。
目の前には、
吊り上がり続ける橋。
傾斜した板壁。
時間は、あとわずか。
それでも。
彼女の呼吸は乱れていない。
「ガルデン。
兵の半分に鎧を着けて、西門へ回して」
どこに突破口ができるのか、
彼女にも分からない。
「考えでもあるのか?」
「選択肢は――増やす方がいい」
それは、
幾多の修羅場を潜ってきた者の言葉。
言い終わると同時に。
ロザリーナは馬の背を蹴った。
月光を裂き、
蒼の風を巻き込み、
宙を裂く。
傾きかけた橋の端へ――
掴む。
下は外濠。
黒い水。
「ロザリーナ様ぁっ!!」
後ろから歓声が上がる。
だが橋は止まらない。
ガルデンが振り返る。
「ソルディオ!
半数に鎧を付けろ!
お前たちは、西門へ回れ!」
「はっ!」
ソルディオが兵を率い、林の闇へ駆け戻る。
橋の上。
ロザリーナは両手で縁を掴む。
右足を掛ける。
体を引き上げる。
斜めに突き出た角。
そこに立つ。
目の前――遊撃兵たちが滑るように重なっている。
城門側へ押し込まれている。
鎖が鳴る。
橋の右端。
鉄鎖が橋に繋がる基部へ。
辿り着く。
背に担いできた“黒帝の剣”。
力一杯に振り下ろす。
ガンッ!!
火花。
鎖はびくともしない。
こぶしより太い鉄。
もう一撃。
ガンッ!!
火花だけが散る。
斬れない。
ならば――
鎖の上を駆ける。
一本の動く足場。
揺れる。
踏み外せば死。
下から、アズとポコランが息を呑む。
「ロザリーナさん!」
クレセントの祈るような声が響く。
ロザリーナは城壁へ辿り着く。
鎖の上に立つ。
落ちないよう、壁に両手をつく。
「ニコル!!」
上を見て、声を張る。
「誰かをよこして!!」
城壁上。
ニコルの足元には、すでに四人。
だが――
前へ、出られない。
歩廊は、狭すぎた。
胸壁と石壁に挟まれた、逃げ場のない一本道。
左手に構える、鋼の円盾。
その奥から――
槍。
三本。
四本。
重なり合う穂先。
隙間が、ない。
ニコルが踏み込む。
速い。
誰よりも速い。
だが――
ギィンッ。
穂先が、壁のように並ぶ。
かわす。
だが次が来る。
さらに次。
速いニコルの動きが、地形に封じられていた。
ここでは、速さが“圧倒的な力”にはならない。
「アラン!
ここはいい!
ロザリーナを!」
ニコルが前を見たまま、怒鳴る。
「了解!」
遊撃の一人――
アランが槍を引き、駆ける。
城壁の上――
ニコル、マクレブと遊撃隊。
城門の外――
橋の上にクレセントと、アズ、ポコランたち。
その城門の上――北城壁の中央。
胸壁の隙間から、アランが顔を出す。
「アランです。
ロザリーナさん!
――何を!」
ロザリーナは動く足元を見る。
城壁の穴へ引き込まれる鎖。
その輪の中へ、剣を突き刺す。
ギシッ――
少しずつ、剣が引き込まれる。
だが穴に引っかかる。
止まった。
だが。
ミシ……ミシ……
石枠が軋み、削れる音。
ぎり……ぎり……
折れる音が、そこに混ざる。
僅かな時間稼ぎ。
「アラン、これを投げるから、
受け取って!
輪を広げて、胸壁に――!」
「分かりました!」
ロザリーナは籠手を重りにした縄を伸ばす。
左手を壁につき。
右手で、回して投げる。
だが。
壁が近すぎる。
角度が無い。
弾かれる。
もう一度。
失敗。
三度。
壁にぶつかる。
「そこからは、無理じゃ!」
ガルデンの声。
両手を水平に広げ。
バランスを取って。
少し下がる。
だが。
鎖が揺れる。
足場が不安定。
とても投げられない。
その時。
足下の、橋の上から声。
「ロザリーナさん!」
アズ。
「縄をこっちに!
私をそこへ引き上げて!」
一瞬。
迷わない。
ロザリーナは壁に戻り、縄を下へ垂らす。
アズが登る。
鎖の上へ。
ロザリーナの背へ。
足場が揺れる。
細い腕が、前の細い腰を掴む。
ロザリーナの足元の剣が軋む。
カチッ…カチッ…
石枠に、少しずつ引き込まれていく。
時間がない。
「私は身軽だから、肩に乗って投げてみる!」
アズが背から肩へ。
そして、壁に手をつき立ち上がる。
下から縄を受け取る。
その瞬間。
上から、アランの槍が伸びる。
刃先。
手を伸ばせば届く距離。
アズが、縄に結ばれた籠手の隙間に通す。
アランが慎重に引き上げる。
歓声。
城壁上。
アランが輪を緩める。
籠手を外す。
ぽい、と外へ放る。
「……あ」
ロザリーナの声。
籠手は、彼女の脇を通り過ぎて闇へ。
外濠の水音。
貸してくれたロートの顔が、一瞬よぎる。
「どうしたの?」
アズが足の下を見る。
「いや……なんでもない」
ロザリーナは顔を上げない。
アランが輪を胸壁へ掛ける。
固定。
「アズ、いいぞ!」
アランの声に、アズが上り出す。
その瞬間。
剣が、穴の縁で“くの字”に歪んだ。
ギンッ!!
ロザリーナの足元の剣が折れた。
一瞬、勢いよく鎖が引き込まれる。
「――ぅわっ!」
彼女の足が奪われる。
体が後ろへ傾く。
両足が鎖から離れる。
だが。
左手で、掴んだ縄。
持ちこたえる。
アズが城壁へ上がる。
次はロザリーナ。
壁を蹴り、一気に駆け登る。
城壁の上へ。
すぐさま縄を下へ落とす。
城門と、吊り上がる橋の狭間。
クレセントの前へ。
「これで!!」
縄がクレセントの手に届いた。
◇
蒼が、そこに立った。
やっと立った。
城壁の上に。
東からは――
ルグが来る。
その先に、マクレブたち八名。
南。
ラグは丘へ。
王と、民の首を刈るために。
そして。
レッドバルム。
余裕の歩みで北門へ向かう。
すべて計算通り。
西部最大のブラストリア城。
その黒帝軍総指揮官。
半獣でもない彼が、
この城の総指揮に立っている。
それだけで、
実力を測るのは十分だった。
だが。
その知略の天才の冷徹な思考にも、
一つだけ、
予想していないものがあった。
『いい加減、分かれよ』と言われて、
世界が理解を諦めた。
その理不尽過ぎる化け物――
兄、ライザリオンと剣だけで渡り合った。
蒼。
この世界にとっての――とてつもない異物。
レッドバルムの、
知略の盤上に、存在しないはずの駒。
それが今、
戦場の中央――
はじめて敵の前に立った。




