第64話 壊滅か、突破か――動き出す蒼と処刑人
◆南側・丘の上◆
遊撃の角笛が、夜気を裂いた。
低く、長く。
丘の上まで、震えが届く。
ロザリーナが、静かに馬車から降りてきた。
馬車の中。
黒帝二将――ドルグ、ヴァルザークと刃を交えたベニバラは、
横たわったまま、目を閉じていた。
チュニックの胸元には、まだ血の匂いが残る。
かなりの深手だった。
「何かあったのか?」
ヴァレンティスの横に立つオルフェンが振り返る。
短く刈り揃えた髪。
その中に、月光を拾う白が混じる。
「見つかったようです」
「ニコルたちが内側から北門を開けて、
ガルデンたちがそこから突入する手はずだったが――」
ヴァレンティスの声は低い。
ロザリーナは丘へ歩み出る。
夜風に栗色の髪が流れる。
枝の隙間から、巨大な城が夜の大地に沈んでいた。
青銀の瞳が、月光を受けて細くなる。
「……デカいな」
初めて見る――ブラストリア城。
王都エルデンハート城よりは小さい。
だが――十五メートルの壁。
宿屋なら五階を越える高さの城壁が、
背に月明かりを受け、黒い崖のようにそびえていた。
下部がわずかに張り出し、
上へいくほど細くなる。
勾配を持つ要塞壁。
(……正面は硬いな)
「ロート」
「はい」
「あの城壁の高さほどの大縄を持ってきてくれ。馬も」
近衛のロートは一瞬、王を見る。
ヴァレンティスは静かに頷いた。
「傷は、大丈夫なのか」
その問いに、彼女は振り返る。
風に髪が流れ、瞳がわずかに柔らぐ。
「大丈夫です」
ヴァレンティスは小さく笑う。
「其方は……大丈夫しか言わないな」
ロザリーナはわずかに息を吐き、
視線を城へ戻した。
青銀の奥に灯るのは、怯えではない。
測る光。
「オルフェン。
――城の構造を教えてほしい」
その名を呼ばれ、
オルフェンは無意識に金縁の眼鏡を押し上げた。
癖だった。
五年前まで、この城の内政を担っていた男が、
小走りに横へ並ぶ。
「城壁は十五メートルです。
勾配構造で投石にも強い」
淡々とした説明。
だがその声音には、
かつて“守る側”だった者の実感がある。
「外濠は」
「深い水濠です。
橋以外の渡河は困難。
仮に渡れても、その先はあの傾斜壁」
「橋は」
「東西南北、四ヵ所。
すべて一本橋の跳ね橋です」
再び、眼鏡を押し上げる。
「吊り上げる鎖は」
ロザリーナの瞳がわずかに鋭くなる。
「橋の先端の両側に、手首ほどの太さの鍛鉄鎖。
鎖は斜めに張られ、
城壁の三分の二ほどの高さの石枠の穴へ入っています」
ロザリーナは目を凝らす。
黒い鎖の先が、
城壁に開いた小さな穴へ吸い込まれている。
「そこから城壁の内部へ通り、
城内の巻上げ機へ」
「巻上げは一基か?」
「いいえ。左右に二基」
眉がわずかに動く。
「独立式」
「はい。
城門を入った左右に、
円形の巻取り機があります。
二人ずつ押して回す。
声を掛け合いながら――同時に」
ロザリーナの視線が、わずかに細くなる。
「ずれれば?」
「橋が傾きます」
一拍。
「持ち上げる際は軋みます。
片側がわずかに先に上がることもある」
「落ちないのか」
「歯車に逆転防止の爪がかかります。
“カチッ”と段階固定。
手を離しても落ちません」
ロザリーナの吐息が白く揺れた。
「橋は垂直に立つのか」
「いいえ。斜めで止まります。
城壁にある内扉に密着し、門前を塞ぐ蓋のように」
沈黙。
「――内扉?」
「橋の先には城門があり、
観音開きの内扉があります。
鉄板張りで、 内側から巨大な木材の閂」
「その奥は」
「城壁の厚みの中を通る門道。
それを抜けると城内です」
「二重構造?」
「そうです。
外濠に架かる跳ね橋。そして内扉」
ロザリーナは頷く。
「城壁の上は」
「歩廊。
左右に胸壁――雉堞。
▮ ▮ ▮ ▮ ▮
兵はその隙間から射ます」
「あの尖った塔は」
ロザリーナが城壁の角を指差した。
「城壁の四隅には円塔。
内部に螺旋階段。
下から城壁上へ直接上がれます」
「接続部は外から狙えるか」
「塔内部を通るので、出入口に立たぬ限り、
矢は中まで届きません」
ロザリーナは城を見つめたまま言う。
月光がその端正な横顔を縁取る。
髪が揺れ、瞳がわずかに細くなる。
「よく考えられている城だ。
……外からは無理だな」
「ええ」
オルフェンも同じ方角を見た。
「あの城は難攻不落です。
橋が上がれば終わり。
内扉の閂が落ちても」
ロザリーナは大きく息を吐いた。
「……厄介だな」
その青銀の瞳には、怯えはない。
あるのは、ただ測る光だけ。
風が吹く。
その時。
ロートが馬を引き、大縄を抱えて戻ってきた。
「どうぞ」
ロザリーナは縄を受け取り、首へ掛ける。
「ありがとう」
馬へ飛び乗る。
髪がふわりと舞い、月光を払う。
「ロート、その籠手をひとつ借りる」
「これですか」
右手の籠手を外し、差し出す。
馬上で受け取ると、軽鎧の胸脇へ差し込んだ。
「頼みます。
将軍たちを――」
ロートの祈るような声。
ロザリーナは頷き、ヴァレンティスへ視線を移す。
青銀の瞳と、王の眼が交わる。
二人が静かに頷く。
無言の理解。
次の瞬間。
ロザリーナは馬腹を蹴った。
丘を駆け下りる。
淡い月明かりの下、
栗色の髪をなびかせ、
黒い要塞へ――まっすぐに。
――◇――
◆北側・城門◆
先に内扉へ辿り着いたのは、
西城壁の見張り塔を駆け下りてきた敵兵五名だった。
城壁の中を通る門道へ。
息を荒げたまま、二人が巨大な閂に手をかける。
持ち上げる。
だが――
扉が、わずかに開いたまま。
溝に、はまらない。
「くそ、閉めろ!」
閂を捨てると、
五人が観音開きの扉へ取りつく。
押す。
重い。
木と鉄が、石畳を削る。
ギギ……ギギギ……。
腹に響く低音。
ゆっくりと、確実に――閉じていく。
その上。
北門の真上、城壁上にはニコルたち遊撃十一名。
マクレブが弓を構え、縁から身を乗り出す。
だが。
下は死角。
敵は――城壁の厚みの穴の中。
「ここからは無理だ」
ニコルが即断。
手立てを探して、辺りを見渡す。
その時。
左右の歩廊。
胸壁の隙間を縫い、東西から駆けてくる影。
敵だ。
「マクレブ、東を止めろ!」
即断。
「三人は俺と西だ!
残りはマクレブに続け!」
足音が石を打つ。
「爺さんたちは、無防具で走って来る。
上から射られたら終わりだ!」
低く、鋭く。
「――この北城壁は、死守するぞ!!」
「御意!」
遊撃が左右へ散る。
だが――
その下。
内扉が。
ピタリ、と閉じた。
二人が手を離す。
閂を拾いに振り返る。
その瞬間。
――バンッ!!
厚い扉が内側へ震える。
――バンバンッ!!
木と鉄が、鳴る。
外だ。
圧が、かかる。
「押せぇぇぇ!!」
クレセントの声が裂ける。
橋の上。
先に辿り着いた二十名が、
一斉に門板へ体をぶつけた。
「うぉぉぉぉぉ!!」
肩。
腕。
背。
骨と板がぶつかる鈍音。
橋が軋む。
扉が震える。
「うぉぉぉぉぉ!
――うぉぉぉぉぉ!!」
門板一枚を挟み――
外と内。
二つの力が、激突する。
閂を拾いに行った敵兵二人が慌てて戻る。
内側から五。
外側から二十。
木が、唸る。
足元の橋板が、悲鳴を上げる。
ギシ……ギギ……。
だが。
ほんの、わずか。
扉が――戻る。
「止めろ!押し返せ!」
内側で怒号。
その背後。
石畳を打つ音が、重なった。
ガン、ガン、ガン――
聞こえてくる。
確かに。
速い。
南から駆けつける、四十の足音。
内側の兵が、一瞬だけ振り返る。
その視線の先。
門道の先。
黒い甲冑の塊が、こちらへ迫ってくるのが見えた。
(まずい――)
クレセントが呟く。
扉の隙間が、わずかに開く。
そこから見えた、向こう。
黒い兵たち。
押し寄せる影。
「押せ!押せぇ!
――早くしろ!!」
外で咆哮。
「もう少しだ!
踏ん張れぇぇぇ!!」
内で絶叫。
北門の外。
あと、数十息。
ガルデンたちの足音も、
橋へ近づいている。
いま。
わずか一枚の扉を巡り、
力と力が、
時間と時間が、
真正面から噛み合った。
――◇――
◆南側・城壁◆
「北門が開いています!
そこから――敵が!!」
伝令が、息を裂きながら石段を駆け上がる。
「なに!?」
レッドバルムの声が裏返った。
だが。
次の瞬間には、表情から色が消えている。
理解した。
――陽動。
「全兵、北門へ向かえ!」
拳が、胸壁を叩いた。
鈍い音が石に沈む。
「――走れ!!」
躊躇はない。
迷いもない。
「城壁上は五名残せ!
弓兵はそのまま南を牽制!」
振り返る。
「残り十名は、西城壁上を北へ走れ!
地上部隊は最短で直行だ!!」
一拍。
「盾や兜は捨てろ。
――剣だけでいい!」
「はっ!」
下で待機していた兵四十が、一斉に動いた。
ガン、ガン、ガン――
鉄靴が石畳を打つ。
盾が投げ捨てられ、
兜が転がり、
剣だけを握りしめ、
黒い奔流が北へ流れる。
城壁上でも、弓を抱えた兵が駆ける。
胸壁の隙間を抜け、
歩廊を北へ。
松明が揺れ、
影が石壁を疾走する。
レッドバルムは一瞬だけ北を睨む。
(南は攻めてこない……)
(北が本命だ)
歯が、きしむ。
その時。
「俺たちはどうする」
背後から、低い声。
振り返る。
二つの巨大な影が、松明の光を遮って前へ出た。
側近。
鉄塊のような肩。
分厚い前腕。
頭部を覆うのは、呼吸穴すらない鋳鉄の仮面。
黒い覗き穴の奥には、感情を削ぎ落とした闇がある。
握るのは巨岩を砕く処刑斧。
鎧に絡む首の細鎖には、断頭者の干からびた指が下がっている。
揺れるたび、死者が鳴る。
グラ出陣時、この城を預かる者。
別の名を――
“破壊の処刑人”。
石畳が、わずかに軋む。
彼らは、まだ一歩も動いていない。
だが。
動けば、何かが壊れる。
レッドバルムの片側の唇が、ゆっくりと吊り上がる。
それは焦りではない。
追い詰められた笑みでもない。
盤上に残っていた最後の一枚――
戦局そのものを引き裂く“切り札”を見つけた、
獣の笑みだった。
*
北門は、こじ開けられるのか。
それとも、押し負けるのか。
夜を駆ける蒼は、
何に賭けるつもりだ。
隠密は、終わった。
残るのは――
突破か。
壊滅か。
ブラストリア城は、
誰の帰還を許すのか。
その答えは、まだ遠い夜の底に沈んでいる。




