第62話 暁前夜――気づかれた静寂
夜明け前。
空はまだ、
色を決めかねていた。
蒼とも、灰ともつかぬ薄闇が、
平地を静かに押さえつけている。
風は弱い。
草の先が、わずかに擦れる音だけがある。
ヴァレンティスは、
音を立てぬよう、ゆっくりと馬車を降りた。
革靴が土を踏む。
それだけが、やけに大きく感じられる。
視線を上げる。
林の木々の隙間から、
朧月を背負った巨城が、
闇の中に浮かんでいた。
ブラストリア城。
十五メートルの城壁。
四隅の見張り塔。
槍の穂先のように夜を刺す、黒い稜線。
動かない。
眠っているようで、
しかし確かにそこに在る。
(……父上)
息を吸う。
冷たい空気が、肺の奥まで満ちる。
湿った石の匂い。
鉄の匂い。
遠い炭の、かすかな残り香。
変わっていない。
五年前も。
あの日も。
幼いころ、
父の馬の背で城門をくぐった朝と。
胸の奥に、
一瞬だけ熱が灯る。
だが――
それを、静かに沈めた。
背筋を、わずかに伸ばす。
「……私に力を貸してください」
声は、ほとんど風に溶けるほど小さい。
それでも、確かに届くように。
取り戻すための言葉。
祈りではない。
覚悟の確認。
その横で、
オルフェンが静かに一礼した。
父王に仕え、
この城の帳簿も、民も、争いも見てきた男。
何も言わない。
だがその瞳は、
微塵も揺れていなかった。
――殿下は、戻られた。
その事実だけで十分だ、と。
ヴァレンティスは、
もう一度だけ城を見つめる。
そして、振り返った。
その瞬間、
瞳から、迷いが消えた。
そこにいたのは、紛れもない王だった。
――◇――
同刻。
城の西側に広がる林。
夜露に濡れた枝が、わずかに軋む。
その奥で――
ガルデンが、低く手を振った。
止まれ。
総勢九十名。
ソルディオ。
クレセント。
遊撃を含む主力部隊。
甲冑は布と泥で鈍く曇らせてある。
剣はすべて鞘の内。
光を返すものは、ひとつもない。
進め。
声はない。
林の闇を、影が滑る。
枝を踏まない。
鎧を鳴らさない。
息すら揃える。
目標は北門。
ニコルの待つ場所。
ガルデンの視線は、
城壁から一度も逸れない。
月に縁取られた石の稜線。
そこに、わずかな変化があれば――
即座に伏せる。
ソルディオを先頭に主力七十。
後方にクレセント率いる遊撃二十。
暗い森が、音もなく彼らを呑み込んだ。
――◇――
◆南側高台の林の中◆
馬車の中。
ベニバラは目を閉じている。
浅い呼吸。
向かいではロザリーナもまた、
静かに瞼を下ろしていた。
休息ではない。
来る瞬間へ、力を沈めているだけ。
*
馬車の外。
ヴァレンティスの周囲。
ロートが無言で立つ。
ヴァルザークに削られ、
残った近衛は五名。
たったそれだけ。
盾のように、王を囲む。
まだ何も起きていない。
だが――
すでに戦は始まっていた。
――◇――
ヴァレンティスが一歩前へ出る。
右手をゆっくりと上げる。
ためらいはない。
「……松明を掲げよ」
低く、しかし確実に届く声。
次の瞬間。
闇に、
火が生まれた。
一本。
十本。
百本。
林の奥で、
炎が、揺れ、増え、広がる。
南側高台。
民兵百六十。
震える手。
乾いた喉。
それでも、松明は振り上げられる。
「うおおおおお――ッ!!」
怒号。
叫び。
恐怖を誇張する声。
数を膨らませるための声。
夜を裂く、虚勢の咆哮。
さらに――
ギギィ……ッ。
重く軋む音。
ルドグラッド砦の戦場から持ってきた、
黒帝軍の投石器。
縄が張り、
木枠がきしみ、
張力が限界に達する。
――ドンッ!!
一発。
巨大な石が、
弧を描き、城壁へ叩きつけられる。
石弾が砕け散り、
壁は、びくともしない。
だが。
地面が揺れて、
空気が、震えた。
――ドンッ!!
二発目。
轟音が夜を引き裂く。
平地が唸る。
森の鳥が一斉に飛び立つ。
南城壁の上。
「て、敵襲!!」
叫び。
「松明が多いぞ!」
「数が見えん!!」
鉄鑼が、
打ち鳴らされる。
ゴォォォン……
ゴォォォン……
低く、腹に響く警報。
「敵襲!――敵襲!!」
喉を裂く怒号。
等間隔に設けられた弓台へ、
兵が駆け寄る。
弓を掴む。
矢を番える。
だが――遠すぎる。
「レッドバルム様を呼べ!!」
グラ亡きいま、
この城を預かる仮の指揮官。
「御意!」
伝令が、
南西の見張り塔の螺旋階段を駆け下りる。
鉄靴が石を打つ。
宿舎へ。
混乱は、まだ初動。
兵は揺らぐ。
だが――
強固な城壁は、まったく揺らいでいなかった。
――◇――
◆北側・城壁上◆
南からの鉄鑼の音が、
わずかに遅れて届く。
ゴォォォン……
夜風が、城壁を撫でる。
「……始まったな」
ニコルが、兜の奥で小さく笑う。
声は低い。
余計な熱はない。
「お前たち、二人で――」
二人の肩を、ぽんぽんと軽く叩く。
「今から、
下の内扉の閂を外せ。
見つかるなよ。音も立てるな」
城門を塞ぐ構造は、二重。
外側は吊り橋。
その内側に、観音開きの頑丈な内扉。
そしてそこに、閂が。
それを外せば――
獣は腹を晒す。
「そして、主力が入ったら」
ニコルの視線が、東と西の城壁上へ流れる。
「俺は西、マクレブは東。
二手に分かれて、
城壁の敵を削りながら南へ向かう」
「了解」
短い返答。
無駄な声はない。
二人が見張り塔への階段へ向かう。
ヴァレンティスの策略が、
北側で、音を立てずに進んでいた。
――◇――
◆南側◆
城の向こう。
淡い満月の輪郭が、
空に溶けようとしていた。
ヴァレンティスは、
南城壁を静かに見上げている。
「いよいよですね」
背後から、ソルディオの低い声。
「そうだな」
視線は逸らさない。
グラはいない。
ニコルは潜入済み。
ガルデンの主力は北へ回った。
夜明け前。
歯車は、
――すべてが予定通りに噛み合っていた。
――◇――
◆南側・城壁上◆
南の混乱は、
波紋のように城全体へ広がっていた。
松明の火が石壁を這う。
鉄鑼の余韻がまだ空気を震わせている。
「何があった」
低く、抑えた怒声。
レッドバルムが、
二名の巨躯を従え、
見張り塔の石階段を駆け上がってきた。
甲冑の金具が、短く鳴る。
「敵襲です」
兵が息を切らし、外を指差す。
「――あれを」
南の平地。
揺れる炎。
怒号。
数えきれぬ松明。
レッドバルムの眉間に皺が刻まれる。
「敵襲だと……?」
誰が。
この世界で。
黒帝軍に歯向かう者がいるのか。
信じ難い。
だが、命令は迷わない。
「弓兵二十、ここへ上げろ」
「はっ!」
「残りは城門前で待機。
散開するな。持ち場を守れ」
即応。
隊列の隙間を抜け、
弓兵が見張り塔の石階段へ消えていく。
レッドバルムが周囲を見渡す。
城壁の上に立てる人数が、
目に見えて薄い。
東西南北に各十名。
南のみ、増員二十。
城内に残る兵は、およそ八十。
ルドグラッド砦で削られ、
黒帝軍といえど、
兵力は潤沢ではなかった。
レッドバルムは、
城壁の石を拳で叩いた。
重い。
冷たい。
びくともしない。
「慌てるな」
声を張る。
「この城は落ちん」
兵の背筋が、わずかに伸びる。
「数は多いが……前に出てこないな」
「はい!」
炎は揺れる。
だが前進はない。
城壁は微塵も崩れていない。
レッドバルムの片眉がわずかに上がる。
(……陽動か)
その瞬間。
石階段から、増援の弓兵が駆け上がってきた。
「他はどうだ!」
城内へ怒鳴る。
「東側、異常なし!」
「西側、異常なし!」
即答。
北側――
一拍おいて。
「北側異常なし!!」
怒鳴ったのは、マクレブ。
声は力強い。
迷いもない。
だが。
(……北が静かすぎる)
レッドバルムの脳裏に、
一瞬だけ、違和感がよぎる。
「五人ずつに分かれて、各城壁へ回れ!」
判断は早い。
「火矢を放て! 外を照らせ!」
南城壁から、
五名ずつが駆け出す。
東へ五。
西へ五。
そして――
北へも五。
だが。
今は誰もが信じていた。
この城は絶対に落ちない、と。
――◇――
◆北側・城壁◆
南城壁から――
五名の弓兵が走ってくる。
西側城壁の上を駆け抜け、
北へ。
鉄靴が石を打つ。
乾いた、短い音。
松明の炎が揺れる。
影が伸び、
重なり、
石壁に歪む。
息を荒げた背中が、
ニコルの前を通り過ぎた。
疑いは、ない。
北城壁。
弓兵は一人置きに間へ入り、
外へ弓を構える。
弦を引く音。
ぎり、と軋む木。
林の奥を睨む視線。
松明に照らされた兜の縁。
その背を見ながら――
ニコルは、
半歩だけ下がる。
音を立てず。
呼吸も変えず。
兜の内側で、
口元だけが、ゆっくり歪む。
視線を、マクレブへ。
一瞬。
ほんの刹那。
マクレブの目が、細くなる。
合図。
――次の瞬間。
風が、ひとつ抜けた。
一人目は。
喉を。
後ろへ沈む。
二人目。
膝が抜け、
弓が石に触れる前に支えられる。
三人目。
息が詰まり、
声にならない。
四人目。
首が引かれ、
影に消える。
五人目。
弦を握ったまま、
闇に溶けた。
音は、落ちない。
兜が石に触れることもない。
ただ―― そこにあったはずの“気配”だけが、消えた。
南は、騒いでいる。
また鉄鑼が鳴り出し、
怒号が空を裂く。
北は――
凪いでいる。
不自然なほどに。
だが。
その時。
北城壁の端――東側。
弓兵を仕留めたマクレブが、
膝をついた姿勢のまま、
わずかな気配に、顔を上げた。
視線の先。
北東角の見張り塔。
闇の中から――
遅れて現れた影。
矢筒を抱え、
補充に来た兵。
まだ状況を理解していない目。
松明に照らされた兜の縁。
そして。
マクレブと敵兵。
視線が、合う。
時間が、止まる。
「――っ」
吸気。
喉が震える。
「て、敵襲ッ!!
――北にも敵襲!!」
その叫びは、
凪いでいた北の空気を、
無残に引き裂いた。




