第61話 狩場となった王都――勝利なき封印
馬車の軋みが、静寂の闇へ溶けていく。
車内の灯が、ふ、と揺れる。
影が伸び、
揺れ、
歪む。
その中で。
ヴァレンティスが、口を開いた。
「ザイラスが、戦いの形を変えたのだ」
声は静かだった。
怒りも、焦りもない。
ただ、事実だけを告げる王の声。
「魔獣を――“戦争”に巻き込んだ」
本来、魔獣は戦争をしない。
命令も受けず、
ただ喰らうためだけに動く存在だ。
だが、五年前は違った。
ロザリーナが、静かに言う。
「王都は……ただの狩場になった」
防衛線は、削られていった。
一体を討てば、次が来る。
次を斬れば、さらに後ろが押し寄せる。
終わらない。
減らない。
「数ではなく、理屈でもなく……」
ロザリーナの声が、かすかに沈む。
「“尽きないことが力”という事実が、戦場を壊した」
アズが首をかしげる。
「あの戦いは……
人と人が戦ったわけじゃ、なかった?」
その問いに、
ロザリーナの指が、わずかに握り締められた。
「五年前の戦いは……
覇権争いでも、領土争いでもない」
ヴァレンティスは、遠くを見るように続ける。
「ザイラス・オズグリアが――
“世界災害”を、戦争に引きずり出した戦いだった」
「……世界災害?」
アズの声が、震える。
ロザリーナが、低く補足する。
「魔獣王――ビオラング」
その名を口にした瞬間、
空気が、わずかに重くなった。
「魔獣王は……
ただ強い魔獣じゃない」
淡々とした声。
だが、その奥には、焼き付いた記憶がある。
「魔獣という“種そのもの”の王。
本能も、群れも、捕食も……
すべてを束ねる存在」
ヴァレンティスが頷く。
「本来、魔獣は戦争をしない。
――喰らうために動くだけだ」
「だが、あの時は違った」
ロザリーナが続ける。
「魔獣たちは、軍のように動いた。
波のように押し寄せて、
防衛線を……群れで踏み潰した」
ポコランの目が見開かれる。
「……考えて、戦ったってこと?」
「そうだ」
ヴァレンティスは短く答えた。
「たった一体の魔獣が、
“戦争”を“狩り”という定義に変えた」
「魔獣王ビオラングが、
無数の魔獣を従え、
意思をもって人間を喰いに来た」
王都が包囲され、
尽きることなく魔獣が押し寄せた理由。
それは――
そこが“最高の狩場”だったからだ。
「……でも」
アズが必死に問う。
「そんな化け物を……
どうやってザイラスは動かしたの?」
ヴァレンティスの口元が、わずかに歪む。
「支配したわけではない」
「ザイラスは――
魔獣と“会話”が出来る」
ロザリーナが、言葉を継ぐ。
「命令したわけでもない。
服従させたわけでもない」
一拍。
「あれは……利害の一致」
「利害の一致……?」
アズの声が、細い。
「ザイラスは、世界を制覇したい」
「魔獣王は、喰い尽くせる狩場が欲しい」
敵対する理由が、なかった。
互いに争うよりも――
二つの欲望は、
ぴたりと、噛み合った。
「その瞬間――
人間側は、もう勝てなかった」
ガルデンの声が、低く落ちる。
「奴らは恐怖を知らん。
補給も必要とせん。
倒しても、倒しても尽きんのじゃ」
「人は守るために戦う。
魔獣は喰うために進む」
「戦争そのものが、否定された」
ロザリーナは目を伏せる。
「……その裏で」
「黒帝八将が動いた」
ヴァレンティスが続ける。
「魔獣が踏み潰した後を、
正確に、切り取るように」
方面城を落とし。
英雄を狩り。
将を斬り。
指揮系統を、壊した。
前線は削られ。
希望は刈り取られ。
王都は――
静かに、息を失った。
「その時点で」
ヴァレンティスの声が、沈む。
「王都はもう……
守れる場所ではなかった」
「終わりを迎える場所になった」
沈黙が落ちる。
アズは、唇を噛みしめる。
「……それで……
世界が……」
「そう」
ロザリーナが、静かに言う。
「最後に王都は選んだ」
《絶界封印の術》
「魔獣と。
魔獣王と。
獣界そのものを――
世界から切り離す禁術」
ヴァレンティスは、拳を握る。
「王都最高位の大魔導士の命を贄に。
世界は、音を立てて二つに裂けた」
魔獣も。
魔獣王も。
獣界へ通じる深淵の裂け目へ。
光に呑まれ、消えた。
そして――
目の前で。
兄の背が、白に溶けていった。
(……兄さん……)
その心の声だけが、沈む。
長い沈黙。
やがて、アズが震える声で言った。
「……魔獣に勝ったのに……
負けた、ってこと?」
ロザリーナは、ゆっくりと頷く。
「魔獣は追い払えた。
でも……ザイラス軍は残った」
「既に瀕死だった世界に、
抗う力は残っていなかった」
そして。
「だから――」
ロザリーナは、首を横に振る。
「……あれは、完全な敗北だった」
アズが俯く。
ポコランが、唇を噛む。
その小さな二人の背を見つめながら、
ヴァレンティスは、心の奥で呟く。
(あの時は……)
(父の城が落ちるなどとは、思ってもいなかった)
拳が、膝の上で震える。
(だからこそ)
一度、目を閉じる。
(もう一度)
(“人が人として、生きられる場所”を――)
灯が、揺れる。
(あなたたちに生かしてもらった、この手で)
(……作らねばならない)
胸の奥に。
その決意だけが、確かに灯っていた。
*
馬車が、ゆるやかな上り坂へとかかる。
車輪が小石を踏み。
ごとり。
鈍い音が、夜へ沈んだ。
森が――途切れる。
ざわめいていた木々の壁が切れ。
遮られていた空が、ひらける。
次の瞬間。
冷たい平地の風が、
一気に吹き抜けた。
護衛隊の先頭を走っていたソルディオが、
右手を静かに上げた。
無言の合図。
馬が脚を止める。
後方の馬車も、
ひとつ、
またひとつと、
わずかに揺れながら止まった。
車軸が、低く軋む。
視界が、開ける。
「……やっと戻って来た」
息を呑む。
闇の向こう。
遠く。
そこには――
巨大な影が、浮かび上がっていた。
平地の中央に横たわる、
黒々とした城壁。
十五メートル。
断崖のように、夜を遮る。
四隅の塔が、
槍の穂先のように夜空へ突き立つ。
そして、その背後。
雲に半ば隠れた、巨大な満月。
白い光が、
城を縁取る。
壁の輪郭を。
塔の稜線を。
冷たく、
容赦なく、照らす。
まるで――
闇の海に浮かぶ、
巨大な亡霊。
――ブラストリア城。
五年前、失われた城。
血と。
誓いと。
守れなかった約束が眠る場所。
月光に包まれた巨城は、
何も語らず、
ただそこに在る。
迎えは、ない。
歓声も、角笛も。
だからこそ――
彼らは、戻ってきた。
自ら、奪われたこの場所へ。




