第60話 五年前の真実――王都最期の戦い
夜の森は、深く、重かった。
月は雲に半ば隠れ、
銀色の光が、枝葉の隙間からまだらに落ちる。
その下を――
黒く塗られた馬車列が、
音を殺して進んでいた。
木々の間を縫うように、
長い影が連なっていく。
あと一つ。
この尾根を越えれば――
視界は開ける。
森が途切れ、
月光を遮るもののない平地が広がる。
そして、その中央に。
静まり返った大地の上に、
巨大な影が立つ。
かつて、西部を守った要塞。
亡き、
グラ=シャルンの居城。
――ブラストリア城。
五年前に失われた城。
それでもなお。
崩れもせず、
朽ちもせず。
抗う力を持たぬまま、
夜の底で静かに息を潜めている。
*
大型馬車の中。
深夜の森を抜ける振動が、
板張りの床からじわりと伝わってくる。
七人は、それぞれの思考を抱えたまま、
揺れに身を預けていた。
ベニバラは壁にもたれ、静かに眠っている。
浅い呼吸だけが、規則正しく続いていた。
そのとき――
ポコランが、ぽつりと呟いた。
「……ジークさんもいるし、
そんなに強いブラストリア城が、なんで落ちたの?」
誰かに向けた問いではない。
ただ、胸の奥に刺さっていた疑問が、
耐えきれず零れ落ちただけだった。
馬車の中が、わずかに静まる。
壁板の隙間から、
外の松明の火がゆらりと流れていく。
やがて――
ガルデンが、低く息を吐いた。
「……まず、王都からの伝令じゃった」
老将の声は、揺れに合わせてゆっくりと続く。
「五年前。
王都から、急報が届いた」
――黒帝軍、東部防衛線を突破。
――王都、包囲の恐れあり。
――各方面城、即時援軍を出せ。
「ブラストリアも、即座に動いた」
ヴァレンティスが、静かに頷く。
「父は、迷わなかった」
城門が開き、
精鋭三百。
ジークを総大将に、
ガルデン、ブランニューを伴い、
王都へ向けて進軍を開始した。
「わしらは途中で、
南部方面軍の二百と合流した。
合わせて五百」
老将の目が、わずかに細くなる。
「だが――」
声が、低く沈んだ。
「峰を越えた先で、丘の上から見た」
「……それは軍ではなかった」
ポコランが、息を呑む。
「……魔獣?」
「群れ、などという言葉では足りん」
ヴァレンティスが、静かに継いだ。
「視界の端から端まで、
地平が、うごめいていたそうだ」
黒。
うねり。
蠢き。
牙。
角。
鱗。
地を埋め尽くす獣の影。
「数えることも、陣を敷くこともできなかった」
ガルデンの拳が、ゆっくりと握られる。
「波じゃった」
「黒い濁流が、王都へ向かって流れておった」
押し寄せる。
途切れない。
尽きない。
「五百の兵では、
どう足掻いても呑み込まれるだけじゃった」
静かな断言だった。
ポコランの喉が鳴る。
「……それで、どうしたんですか」
「戻った」
たった一言。
その四文字に、
五百の命と、王都の灯が、沈んでいた。
ガルデンは、ゆっくりと続ける。
「突破して進めば、
僅かな兵は、王都へ辿り着けたかもしれん」
一拍。
「じゃが――」
拳が、さらに強く握られる。
「その時点で、背後のブラストリアは手薄になる」
「城も、民も、守れぬ」
ヴァレンティスが、低く告げる。
「ジークが判断した」
風のない夜。
それでも、誰かの息が震えた。
「獣の群れを見ながら、
『王都はもう守れぬ』と言った」
「あの男の拳は、
血が滲むほど握られとった」
ガルデンの顔は、苦しい。
老将の皺の奥に、
五年前の決断がまだ残っている。
――王都は、もはや持たぬ。
――ブラストリアを、王国の最後の盾とする。
――そして、王都から逃げ延びた者を、受け入れる城にする。
撤退は、逃亡ではない。
守る場所を選び直すための、
苦渋の決断だった。
城へ帰還したその日のうちに、
第二の命が下る。
「ヴァレンティス王子を、西へ」
ガルデンが、ちらりと王を見る。
「民を率いて退け、と」
ポコランが、思わず声を上げた。
「えっ……?
それって……」
「自分の城を、戦場にするということだ」
ヴァレンティスの声は、驚くほど穏やかだった。
「父は、分かっていた」
「王都は、もう守れない。
――次は、必ずここへ来ると」
その言葉に、
馬車の空気が、わずかに冷える。
(……何もできなかった)
言葉には出さない。
だが、その沈黙がすべてを語っていた。
ヴァレンティスは、ロザリーナを見る。
非力だった自分への悔しさを、
隠さぬ目で。
彼女は――
ゆっくりと顔を上げた。
「王都は……」
静かに、言葉を選ぶ。
「魔獣に、包囲されていた」
一拍。
瞳を閉じる。
まるで――
五年前のあの戦場へ、
再び立つかのように。
――◇――
◆五年前◆
この大陸には、まだ王国があった。
エルデンハート王国。
その中心に聳える王城――《エルデンハート城》。
それを核に広がる巨大な王都。
王城を囲むように、
東西南北――四方に築かれた方面城。
軍事も、政治も、信仰も。
すべては王都から発せられ、
すべては王城へと集約されていた。
王位にあったのは、
ロザリーナの父の兄にあたる王。
そして――
王都軍総大将を務めていたのが、
ロザリーナの兄、ライザリオン。
「兄は……王都を守ることを、誇りにしていた」
ロザリーナは、淡々と語る。
「守れると、信じていた。
守るだけの力が、自分にはあると」
だが――
五年前の大戦は、そのすべてを打ち砕いた。
「兄と私は、王城の正門を守っていた」
揺れる灯に、蒼い瞳が映る。
「兄は、センサクさんに打ってもらった
王剣で、魔獣を薙ぎ倒していた」
一振りごとに、
肉が裂け、
血が跳ね、
石畳が滑った。
「それでも……魔獣は、途切れなかった」
声が、わずかに沈む。
「獣は巨大で、外皮は固かった。
兵たちが、
数人がかりで斬っても、
突いても――」
鈍い音。
刃が、弾かれる。
火花が散る。
「……簡単には倒れない」
そして。
槍や剣が折れる。
盾が砕ける。
潰れる悲鳴。
「手負いの獣は、
さらに狂暴になって向かって来た」
血を浴び。
泡を吹き。
それでも、止まらない。
「――戦場は修羅だった」
牙を剥き。
絶叫し。
死を知らぬかのように。
「センサクさんに頼んでいた――
折れない双剣は、間に合わなかった」
一拍。
「……私は、剣が折れないように戦った」
それは守る戦いではなかった。
壊れないように、
ただ持ち堪えるための戦いだった。
「兄の背を見ながら……」
そこで、言葉が止まる。
そして――
エルデンハート城は、陥落した。
戦場の王旗は裂け。
王城の鐘が鳴り止んだ。
七百年にわたり栄華を誇った王国は、
その夜、終わった。
五年後――
王城は今も、王都の中心に聳え立っている。
だがそれは、もはや希望ではない。
黒帝軍の皇帝ザイラスの居城となり、
今は**“王国の墓標”**として、
世界に刻みつけられていた。




