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第59話 風はまだ微かに――谷と蒼の予兆

薄暗い酒場の空気は、まだ揺れていた。


砕けた椅子。

壁にめり込んだ斧。

床に広がる酒と血の匂い。

店主が、カウンターから顔を上げた。


誰も声を出さない。

奥の卓では、酔客が杯を握ったまま凍りついている。

震える視線だけが、三人を追っていた。



ダリウスは槍を背へ戻す。


重さが消えると、空気が少しだけ軽くなった。


「……ベル、無事か」


低い声。

確認だけ。


ベルは小さく息を吐く。


「あんたたち……派手にやりすぎだよ」


キリクが肩をすくめる。


「え? 俺じゃないって。

 全部兄貴が悪い――」


ダリウスの手が、弟の肩を掴む。


「黙れ」


短い。


そして――ベルを見る。


ほんの一瞬だけ。

バーガンディの瞳が柔らぐ。


「……無茶はするな。命令だ」


ダリウスは、この遠征隊の指揮を

レヴァンから直接任されている。


ベルは立ち上がる。


ヴェールを整えながら、睨み返す。


「無茶してるの、どっち?」


キリクが吹き出す。


「ははっ、兄貴、またベルに怒られてる。

 谷に戻ったらレヴァンにも言っとこ」


「言うな」


即答。


キリクは笑う。


「だってさー、あの人また泣くよ?

 “妹に危ないことさせるなァァ!”って」


ベルがため息をつく。


「……私たちが遠征に出る前の日。

 あれは誰のせいで泣いてたの?」


たしかに、レヴァンは泣いていた。


キリクは真顔になる。


「あれは、芝居」


「は?」


「旅一座のさ、“勇者が村を守れず死ぬやつ”。

 あれ見て、号泣してさ。

 この二人、酒五樽空けて、

 最後にレヴァンは“おれが守る!”って白象の顔に抱きついてた」


キリクに視線を向けられて、ダリウスが低く呟く。


「翌朝、記憶はない」


ベルはこめかみを押さえた。


「……兄は、ホント戦い以外ポンコツなんだから」


キリクが笑う。


「でも強さは本物だよ。

 あの戦斧、振ったら山が吹っ飛ぶし」


「“おもしれェ。おらァ、ぶっきれたぜッ!!”

 って言ったら、もう誰にも止められないもんねぇ」


酒場の客が、ひそひそと顔を見合わせる。


谷の覇者。


白象に跨る男。


戦では獣。

普段は民と同じ卓で肉を食い、酒を飲み、子どもと腕相撲をする王。


それが、レヴァン・サフィール。


ベルは静かに言う。


「……あの人は、谷の民を死なせるのが一番嫌いなんだよ」


「だから、俺たちに焼けって命じた」


空気が締まる。


三人は座り直す。


ベルの瞳が、戦士に変わる。


「なにがあったの?」


ダリウスの声が低く沈む。


「見つけた」


一拍。


「“折れない武器”を作っている拠点だ」


「――黒帝軍の武具鋳造所(ぶぐちゅうぞうじょ)


キリクが続ける。


「隙を見て、全部焼き払う予定だったんだけどねー」


ダリウスの拳が、静かにテーブルへ落ちる。


重い音。


「だが――急に守りの兵が減った」


ベルの眉がわずかに動く。


「……罠?」


「かもしれない」


否定しない。


「でもさぁ」


キリクが笑う。


「焼くより、奪えた方がよくない?」


「作戦変更ってこと」


ベルの翡翠が、二人を射抜く。


「……レヴァンには?」


ダリウスは即答する。


「谷には、まだ知らせてない。

 だけど、きっと奪えるなら奪え、と言うだろう」


キリクが笑う。


「そうそう絶対言う。

 “面白ぇ! 武器ごとかっぱらうぞォ!”って」


ベルは、わずかに目を細めた。


あの人はそうだ。


民が笑って食えるなら、

自分が泥をかぶる。


勝てるなら、奪う。

守れるなら、前に出る。



大陸最北端。

ブルームロアの谷。


青霧が立ち込める断崖。

洞窟が連なる岩壁。

巨大な白象の生息する大地。


その中心に立つ男。


レヴァン・サフィール(32)。


谷の王。


戦斧が振り下ろされれば、鎧は割れた。

巨象の群れが突き進めば、

剣は砕け、敵はまとめて宙を舞った。


――以前は。


だが今は違う。


黒帝軍の武器は折れない。


軽く、しなり、強い。


巨象の突進を受けても、砕けない。


谷の戦いが、変わり始めていた。


だから命が下った。


「製造拠点を潰せ」


炉も、鉄も、図面も、鍛冶師も――

焼き払う。


それが任務だった。


だが今――


「奪えたら」


ダリウスが言う。


「谷は、最強の武器を手に入れられる」


酒場の灯が揺れる。


焼けば、単純。

だが、奪えば、未来が変わる。


「分かったわ。

 ――他の者は?」


ダリウスたちは、十人で来ている。


「ああ、鋳造所の周囲で見張ってるよー」


キリクが、最後の燻製を指でつまみ上げる。


「夜が明けたら、向かいましょう。

 私も行くわ」


ベルは頷いた。

迷いはない。


キリクが、首を傾げる。


「でもさぁ」


声が、少しだけ軽くなる。


「なんで守備兵が減ったんだろ」


一拍。


「どっかで、でっかい戦でもあった?」


「ない」


ダリウスは即答した。


考える間もなく。


「奴らは、ザイラス軍八将――

 ブラストリア城主グラ=シャルンの直轄だ」


間を置かない。


「兵を引き戻す理由がない」


キリクが、鼻を鳴らす。


「だよねぇ~」


燻製を噛みながら、続ける。


「この世界で、ザイラスに刃向かう馬鹿なんてさぁ」


肩をすくめる。


「俺たち以外、いるわけないよねぇ~」


言葉の軽さとは裏腹に、

酒場の空気が、わずかに冷えた。


だが。


その言葉に――

ベルだけが、黙ったままだった。


グラスの中、

琥珀の揺らぎに、青銀の瞳がよぎる。


毒に侵された身体で、

少女を胸に抱え、

栗色の長い髪をなびかせ、

夜を裂くように駆け抜けていく影。


――あの蒼。


胸の奥に、わずかな熱が灯る。


「……いるのかもしれない」


ぽつり。


誰に向けたわけでもない声。


「……まだ、この世界にも」


胸の奥で、鼓動が一つ、強く打った。


その瞬間。


酒場の油灯が、ふ、と揺れた。


窓の隙間から、森を渡る風が滑り込む。


ざわ、と。


空気が、ほんのわずかに向きを変える。


遠く。


名も知らぬ王と、砦の戦士たちが。


巨大な支配の歯車に、

ほんの小さな砂を噛ませていることを――


この場の誰も知らない。


だが。


確かに。


目には見えぬほど小さな綻びが、

世界のどこかで生まれていた。


そして。


――風向きは、変わり始めていた。


――◇――


◆ブラストリア城・北側城壁◆


月が雲に滲み、

城壁の上の松明だけが、

黒い石の縁を細く舐めていた。


「――交替ですよ」


巡回の黒帝兵が、こちらへ歩いてくる。

松明の火が、兜の縁を一瞬だけ照らした。


「……交替には、まだ二刻はあるだろ」


咎める声。

だが、疑う声ではない。

“規則”を言っているだけの口調だった。


ニコルは、肩をすくめるように、軽く手を上げる。


「へへ。あと、二刻かぁ。

 ……ちょっと、早くきちゃったみたいですねぇ~」


気の抜けた調子。

敗残兵の“いつもの”声。


「寝ぼけて時間、間違えちゃいましたぁ~」


黒帝兵が眉をひそめ、歩みを詰める。


「貴様――」


言葉が、最後まで形にならなかった。


――す、と。


ニコルの拳が、甲冑の隙間へ滑り込む。

叩くのではない。

沈める。


鈍い衝撃が、腹の奥で止まった。


黒帝兵の喉が鳴り、

息が抜ける音もなく、膝が折れた。


その背後。


松明の影で、

別の黒帝兵が、一人、一人と同じように崩れていく。

首を掴まれ、壁際へ。

意識が途切れ、音は落ちない。


ニコルは、

倒れかけた兵の兜を手で押さえ、

石の上に当たる音すら消した。


「……交替、完了っと」


囁くような声。


「隊長。こちらも終わりました」


「ご苦労さん。

 縛って、隠しておいて」


指が、城壁の継ぎ目を示す。

死角。風下。視線の抜けない溝。


「次の交替が来るのは、二刻後だ。

 “気づく余裕”を、与えるな」


「了解」


縄が締まる音すら、夜に溶ける。


ニコルは、雲の向こうの月を一瞬だけ見上げた。

息を吐く。


(……あとは、待つだけか)


闇の中に、城がまだ眠っているうちに。

巨獣が、自分の腹に刺さった棘に気づく前に。


石壁の上を、風が撫でる。


兜の奥で、口元だけが静かに歪んだ。


もうすぐだ。


――真の王が、帰還する。


そのとき。


この城は、迎えるのか。

それとも、血を吐くのか。


夜は、まだ何も答えてはくれなかった。

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