第58話 紫煙の夜――ブルームロア、森湖に集結
昼。
北の山に、
晴れ渡った空を裂くように――
細く、真っ直ぐな紫煙が立ちのぼっていた。
谷の合図。
「集結せよ」
それを見た瞬間、
仮面の踊り子――ベル・サフィール(24)は、
グラの村を出た。
振り返らない。
足も止めない。
同時にブルームロアから選ばれた十人。
帝王ザイラスへの妨害工作を担う影たち。
それを率いるのは――
ストームクラッシュ兄弟。
ベルは単独で、
西方に抗う反乱分子の噂を追っていた。
だが今、
その兄弟側から煙が上がった。
何かが動いた。
紫煙を背に、ベルは夜まで歩いた。
――集合の場所へと。
*
夜の底が最も深まる刻。
星が天頂を越え、
世界がひととき息を潜める時間。
碧い湖を抱く森深い村。
その外れに佇む古びた約束の酒場。
油灯が揺れ、
酒と汗と、乾いた血の匂いが
天井に貼りついている。
ベルは入口から最も遠い隅に座っていた。
背後は壁。
視界に扉。
窓。
軋む階段。
逃走路は三つ。
冷めきった子豚のシチュー。
杯には触れていない。
輝く金混じりの銀髪。
顔半分を覆う淡いヴェールの、
翡翠の瞳が、静かに扉を待っていた。
(……兄弟側に進展があったのかな?)
店の中央では荒くれたちが騒いでいる。
粗末な毛皮。
裂けた革鎧。
古傷だらけの腕。
酔っている。
だが――目だけは獣だった。
ベルは視線を落とす。
手元のグラスの琥珀色が、
油灯の火を歪める。
その揺らぎの中に――
夕暮れの丘。
銀砂の髪。
瑠璃色の瞳。
甘く、冷たい香り。
――三歩半。
人が、音もなく崩れた。
目が合った。
(……近づいたら、終わる)
その顔が、
泡が弾けて、沈み込む。
空気が、切れた。
小さな羽虫が油灯に張りつき、
グラスの中から、夜が戻った。
不意に気配――
ベルの上に、
巨大な影が落ちた。
「……お前、俺たちと楽しまねぇーか」
腐った酒と血の臭いが鼻を刺す。
ベルはゆっくり顔を上げた。
男たちが囲んでいた。
(……六人)
視線だけで距離を測る。
立ち位置。
出口までの秒数。
カウンターの中へ――視線を送る。
店主は卑しげな笑みを返した。
止める気はない。
(やっぱり、……この世界は相変わらずだね)
この村で血を流せば、余計な耳が増える。
男の一人がヴェールに手を伸ばした。
「顔、見せろよ」
――その瞬間。
ベルの指が、
男のごつい親指を掴む。
ほんのわずかに。
関節を、逆へ。
ミシ。
小さな音。
「……やめておいた方がいいよ」
低い。
冷たい。
大男の顔色が変わる。
骨は折っていない。
ただ、大事なことを教えてあげただけ。
空気が張り詰める。
周囲の客が、
ざわ、と視線を向けた。
*
そのとき――
酒場の扉が、
外れそうな勢いで叩き開かれた。
夜風が流れ込む。
油灯が大きく揺れ、羽虫が飛び立つ。
影が、二つ。
やばい嵐が、入ってきた。
二メートル近い巨躯。
天井が低く見える。
短く刈った黒髪。
バーガンディ色の鋭い瞳。
一歩踏み込むだけで、
床板がきしむ。
兄――
ダリウス・ストームクラッシュ(23)。
その隣。
細身で、軽やかな影。
ライムグリーンの長髪を無造作に束ね、
同じバーガンディの瞳で、
獣のように笑っている。
弟――
キリク・ストームクラッシュ(17)。
兄とは正反対。
無茶で、無謀で、風のような少年。
「あらら~ぁ?」
キリクが店内を見回し、肩をすくめる。
「なんか大変なことになってんじゃん?」
その視線が、
六人に囲まれたベルで止まった。
「なんだ、お前ら!」
山賊が怒鳴る。
「どっか行ってろ!
お前らも“大変なこと”になりてぇーのか!」
ダリウスは答えない。
ただ、一歩。
店内へ踏み込む。
床板が、きし、と鳴った。
背には、
天井を擦るくらいに長い《双頭の重槍》。
視線はベルへ。
無傷。
状況確認。
完了。
キリクが口元を歪める。
「いやいや“大変なこと”ってのはさ~」
くるり、と短剣を人差し指で回す。
「それ、あんたらのことだよ?」
キリクがベルに片目を瞑って見せた。
「俺の兄貴を怒らせるなんてさ、
あんたら、お葬式の予約はしてあんの?」
前に立つダリウスは笑わない。
山賊の一人が吠え、
斧を振り上げて斬りかかる。
速い。
だが。
ダリウスは、動かない。
重槍が、
音もなく床を滑る。
石突が膝を払う。
浮いた腹へ、反対側の穂先が――抉った。
ゴン、と鈍い音。
二人まとめて、壁へ叩きつけられた。
椅子が砕ける。
酒瓶が弾け、
琥珀色が床に広がる。
店主がカウンターの下へ頭を隠す。
ダリウスは一歩も退かない。
前へ。
ただ、それだけで制圧していた。
残る四人。
「な、なんだ!」
「こいつら、やべぇ!」
「――逃げるぞ!!」
低い舌打ち。
「チッ……!」
大男たちは動いた。
テーブルを蹴り飛ばし、
壁を踏み、
出口へなだれ込む。
だが。
その前に。
驚いた顔のキリクが――。
「うわ、こっちくんのかよ?
兄貴の方へ行けばいいじゃん」
ひょい、と軽やかな影が、
笑いながら、短剣を握りなおす。
逃げ場は、ない。
四人の足が止まる。
背後には壁。
前には、風。
そして――
「そのくらいにしときなよ」
静かな声。
ベルだった。
一瞬で空気が変わる。
キリクが肩をすくめる。
「えー、もう終わり?」
ベルは立ち上がらない。
ただ、言う。
「あなたたち、
そこに転がってるのも、連れていきな」
視線が冷たい。
「ここで血を増やす気はないよ」
四人は、互いの顔を見合わせる。
選択肢は一つ。
倒れている仲間を担ぎ上げる。
壁にめり込んだ一人も引きずり出す。
足音が遠ざかる。
扉が、荒く閉まる。
静寂。
割れた瓶から滴る酒の音だけが残る。
油灯の火が、ゆっくりと元の高さに戻っていく。
店の外。
森を渡る夜風が、ひゅう、と軒を鳴らした。
湖面が、かすかに揺れる。
風のせいか。
それとも――。
――谷は、静かに動き出していた。
夜は深い。
――反旗は、もう回り始めている。




