第51話 王は祈らず――父の時代を見送る者に
――少し時は遡る。
◆大教会◆
聖堂の奥。
祭壇の上に、
白い法衣が静かに横たわっていた。
老司祭――バルノア・ベネス。
胸元の聖印は灼け、
杖はひび割れ、
その両手は――
雷を招いた形のまま、固く組まれている。
聖堂の壁には、
細かい亀裂が走り、
まだ焦げた石と、
雨上がりの鉄の匂いが残っていた。
ヴァレンティスは、
誰にも付き添わせず、
祭壇の前に立っていた。
兜も、
剣も持たない。
王としてではない。
だが――
王であることを、下ろすこともできない姿で。
長い沈黙。
やがて、
彼はゆっくりと口を開いた。
「五年前……父が死んだ日のことを、覚えている」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、そこにある“存在”に向けた声だった。
「あの日、最後に見た父の城、
――ブラストリア城の城壁はまだ立っていて、
城内に兵は整列し……健在だった」
視線を、伏せる。
「それでも……
父は帰らなかった」
拳が、僅かに握られる。
「わたしは……
あなたの命で、
ガルデンやベニバラに守られながら、
生き延びることが出来た」
喉が、わずかに鳴る。
「逃げろと命じたのは、父だった。
……そして、
その命を“正しい”と、
わたしに納得させたのが――あなたでした」
一拍。
「逃げることを、
恥だと言わなかった」
「王子が背を向けることを、
臆病だとも言わなかった」
ゆっくりと、
祭壇に横たわる老司祭を見る。
「“ただ生き延びろ”と、
あなたはそう言った」
「それは……
王の命ではなく、
父の友の言葉だった」
声が、少しだけ低くなる。
「父が死んだあと、
ブラストリア城を失い、
民も、名も、
あの城に生きていたすべてを、
わたしは何一つ――守れなかった」
「それでも……」
ヴァレンティスは、
一歩、前へ出た。
「それでもあなたは、
わたしを“王子”のまま、
扱い続けた」
「敗者でも、
逃げた者でもなく」
「“まだ終わっていない者”として」
静かに、息を吐く。
「……だから、
わたしは、
ルドグラッド砦を築けた」
「王国を取り戻すためではない。
父の仇を討つためでもない」
「ただ……
人が、人でいられる場所を、
失わせないために――」
膝をつく。
それは、
王の礼ではない。
五年前、
父を守ることが出来なかった、
一人の王子の姿だった。
「……バルノア」
初めて、名を呼ぶ。
「あなたは、
最後まで、
父の城に仕える者でした」
「城が失われても、
王が死んでも、
――人に仕えることを、
やめなかった」
顔を上げる。
「わたしは……
あなたほど、
強くはありません」
「迷うこともあります」
「それでも――」
拳を胸に当てる。
「あなたが、
父と共に守ろうとしたものを、
今度は、
わたしが引き受けます」
ほんの一瞬、言葉が詰まる。
だが、短く、それでも確かに。
「……行ってください」
「父のもとへ。
わたしにはまだ――
やることがありますので、
そちらへは行けません」
「ここから先――
父と一緒に見ていてください。
あなたが信じてくれた者が、
しっかりと抗えるのか……」
一拍。
「このままでは終わらせません。
それが、生き延びた者の、
役目です」
深く、頭を下げる。
それは、
王の送別ではない。
かつての王子が、王となり――
父の時代を見送る、最後の礼だった。
◇
その時。
聖堂の扉が、勢いよく開いた。
「――陛下ッ!!」
荒い息。
汗と煤に汚れた鎧。
飛び込んできたのは、
後ろを守るもの。
砦防衛副官――オルフェン・カーンだった。
ヴァレンティスは、
オルフェンから淡々と被害状況の報告を受けた。
オルフェンは、
額が床に触れるほど、
深く頭を下げた。
「……以上です」
ヴァレンティスは、
すぐには答えなかった。
老司祭バルノアの祭壇を、
一度だけ――
視線の端で、見る。
そして。
「……よく持たせた」
それだけを、言った。
慰めでも、
賞賛でもない。
“王としての事実認識”。
ヴァレンティスは、
オルフェンへ視線を戻す。
「砦の状態は」
オルフェンが、静かに口を開く。
「……砦は」
声は低い。
だが、ためらいはない。
「左城壁が崩壊寸前です」
「至急、補修に回しますか」
崩落寸前。
本来なら、最優先で命じられる判断。
オルフェンは、
それを承知の上で――
王に、問いを投げた。
ヴァレンティスは、
そのすべてを、
一息に――背負うように。
「……いい」
短い返答。
オルフェンの眉が、
ほんのわずかに動いた。
「そのままでいい」
ヴァレンティスは、
はっきりと続ける。
「手は入れるな」
「もう、壁で守る段階ではない」
それは、
防衛の否定。
同時に――
戦い方を変える、という宣言だった。
「代わりに」
王は、
オルフェンを真っ直ぐ見た。
「全員に食料を支給しろ」
「量は均等。
――兵も、民兵も、民もだ」
一拍。
「それから」
声が、少しだけ低くなる。
「王命で別行動中のニコルを除き」
「ガルデン、ベニバラ」
「動ける主要な者を――
作戦室に集めてくれ」
命令だった。
猶予のない、決定事項。
「召集の伝言を頼む」
オルフェンは、
迷わず膝を折った。
「――御意!」
だが、
そこで終わらない。
顔を上げ、
一つだけ――提案を重ねる。
「陛下」
「戦場と、黒帝軍本陣跡に」
「まだ使える武器、
残存食料がある可能性があります」
「民兵にも声をかけ、
回収に回らせたいと存じますが――」
一瞬の、沈黙。
「……良いな」
即答。
「危険区域は、
必ず近衛か遊撃を付けろ」
「これ以上、
無駄に命を散らすことは許さん」
オルフェンは、一歩だけ踏み出した。
「陛下」
「戦場ですが――
もはや敵影はありません」
ヴァレンティスは、黙って続きを促す。
「ライザリオン出現の時点で、
黒帝軍は振り返る余裕もなく全軍撤退」
「その撤退していた兵も――
バルノア殿の禁呪の余波で、
すべて吹き飛ばされています」
淡々とした報告。
だが、その言葉の裏にある光景は――
想像するまでもない。
「砦前の戦場に残っているのは、
……死体だけです」
オルフェンは、
深く、深く――頭を下げた。
「必ず」
「成果を持ち帰ります」
立ち上がり、
踵を返す。
その背に――
ヴァレンティスの声が、静かに届いた。
「オルフェン」
足が止まる。
「――よく支えてくれている」
気持ち、そのままの言葉。
だが、
それだけで十分だった。
「……恐れ入ります」
短く答え、
オルフェンは聖堂を後にした。
◇
静寂。
ヴァレンティスは、
再び祭壇へと視線を戻す。
バルノアの名は、口にしない。
だが――
その不在を、誰よりも強く背負っていた。
「あなたは言いましたね。
――“最後まで諦めるな”、と」
そして――
逆転手を、切る覚悟をした顔で。
「……そうします」
その呟きは、
『祈り』ではない。
撤退でもない。
それは、反撃の『誓い』だった。
王は、
作戦室へ向かうため――
ゆっくりと歩き出した。




