第48話 覚悟の餌――天はまだ終わりを告げない
薙ぎ倒された木々。
沈み込んだ大地。
砕けた土嚢。
引き裂かれた空の“縫い目”。
そして、
神すら、通じない。
戦場は――
終わったのではなく、
息の仕方を忘れていた。
◇
城壁の上。
「……」
ニコルは、
言葉を失っていた。
喉が、
ひくりと鳴る。
(じょ……冗談だろ)
終焉の雷。
バルノアの命を懸けた、
最後の禁呪。
それを――
“受けた場所”から。
何事もなかったかのように、
立ち上がる存在。
「……っ」
誰かが、
短く息を呑んだ。
遊撃兵の一人が、
首を振りながら後ずさる。
「……効いてない。……何も」
呟きは、
風に溶ける前に――
砕けた。
獣は、
吠えない。
威嚇もしない。
ただ、
首をわずかに傾け――
空を、見上げている。
◇
雷が、
落ちてきた場所。
裂けた空が、
世界の傷を隠すように閉じていく。
そこに――
もう、何もない。
獣は、
しばらくそれを眺め。
次に、
ゆっくりと――視線を下げた。
赤黒い瞳が、
戦場をなぞる。
死体。
血。
陥没した地面。
――そして。
――餌を探し。
城壁。
その上に立つ、
星月のマント。
ニコルと――
視線が、噛み合った。
一瞬。
獣の喉が、
低く――鳴った。
「……グルゥゥ……」
それは、
敵意でも、怒りでもない。
ただ“見つけた”
という、
捕食者の声だった。
◇
ニコルは、
深く――息を吐いた。
笑みを作る。
いつものように。
軽口が、
舌の先に――乗りかける。
だが。
それを、
飲み込んだ。
(……やるか)
視線を、
左へ。
北側――
崖。
下に激流が流れる、
奈落。
「……クレセント!」
声は、低く。
だが、
はっきりと。
城壁の下、
遊撃隊最年少のクレセントが、
びくりと肩を揺らした。
「特大の丸太をつけて、馬車を持って来い」
「丸太馬車戦法――?」
クレセントが、声を張り上げた。
「違う」
否定。
「えっ?」
「――《恐怖の丸太ブーメラン騎兵隊》!」
「ながっ……」
「ちゃんと言え。
それで俺に――ついて来い」
命令。
他に説明は、ない。
クレセントは、
一瞬だけ目を見開き――
(長いんだよなぁ……)
小声で呟くと、
馬屋へ走り出した。
◇
ニコルは、口笛を鳴らすと、
走って来た白馬に飛び乗った。
「城門を開けろ!」
馬の腹を――蹴った。
城門が軋みながら開く。
外へ走りだす。
獣の視線は、
確かに――追ってきている。
ニコルは、
それから目を逸らさずに走った。
(……どこまで腹減ってんだよ?)
わざと――
近づくように速度を落とす。
そして、左手。
――崖へ。
◇
獣は、
歩き出した。
走らない。
跳ばない。
確実に、
距離を――詰めてくる。
その足取りは、
焦りを知らない。
崖が近づく。
ニコルは、
馬を――止めた。
下りる。
崖の縁。
その向こうは、
奈落の闇。
馬の尻を叩いた。
走り去る馬を横目で見て、
獣は、
立ち止まった。
そしてまた歩き出す。
一歩。
また、一歩。
鼻先に、
餌の匂い。
崖ギリギリに立つ、ニコル。
首の付け根の留め具を外している。
それでも。
――生き残る算段なんて、最初から無かった。
ライザリオンは、
その手前まで歩いて来た。
一歩踏み出して手を伸ばせば届く位置。
だが、その時――
**“落ちたら喰えない”**という本能が、
わずかな――慎重さを生んだ。
一瞬の、
迷い。
その瞬間。
◇
――ゴロゴロゴロ……!!
背後。
地鳴り。
丸太馬車。
全速。
クレセントが、
歯を食いしばり、
手綱を引いている。
ライザリオンは、
餌に集中していて気づかなかった。
ニコルは、
一歩踏み込んだ。
獣の頭上へ。
星月のマントを――
翻すと、頭に被せるように叩きつける。
視界を、奪う。
次の瞬間。
ニコル自身が、
マントの両角を掴んで、
背から崖の外へ――消える。
だが、獣が、
引きずられながらも、
踏ん張った。
崖縁の岩――足元が砕ける。
踏み留まった。
――耐えた、
その瞬間。
◇
ドォン――ッ!!
巨大な丸太。
背を直撃。
衝撃。
骨に響く、鈍い重さ。
獣の身体が、
崖下――後方へ弾かれる。
だが。
宙に浮いたまま――
両手が、伸びた。
掴んだ。
丸太を。
掴み、
引いた。
馬車ごと。
車輪が岩を削る。
縄が、
軋む。
限界。
「――っ!!」
クレセントは、
剣を抜き――
断つ。
丸太の縄が、
弾けた。
彼は、
地面へ――転がる。
次の瞬間。
馬の嘶き。
馬車。
重さ。
止まらない。
勢い。
馬車から――
馬を引きずりながら奈落へ。
◇
崖下は闇。
音が、
落ちていく。
何かが、
激流に落ちた音。
闇の底で、
“岩が砕ける音”が遅れて響いた。
それきり――
何も、返ってこなかった。
静寂。
◇
「た……隊長……!?」
ニコルの姿は無い。
クレセントは、
這いつくばり――
崖の縁へ。
恐る恐る、
覗き込む。
闇。
――見えない。
その時。
岩の縁から。
――白い手が、伸びてきた。
鋭い爪をした、
指。
「……っ!」
クレセントは、
迷わず――掴んだ。
「隊長ッ!!」
引く。
全力で。
ニコルの身体が、
崖の上へ――転がり出る。
息を、
荒く吐きながら。
「……はぁ……はぁ」
ニコルは、
空を――見上げた。
陽はないが、
空は僅かにまだ赤い。
「マジ、……ネコ科で良かったわ。
…………ザリガニ科とかだったら、
終わってたなぁ」
かすれた声。
軽い身体。
爪を岩に立て、
辛うじてしがみついていた。
「さすが、隊長!」
と、その時。
「ぅあぁぁぁぁぁぁ!!!」
ニコルが声を上げた。
「一番、お気に入りのマント。
あいつに持ってかれた!」
クレセントは、
膝をつき――
震える息で、笑った。
◇
崖の下。
闇の底。
激流の音だけが、上がって来る。
だが、
終焉を阻んだ脅威は――遠ざかった。
世界は、
まだ――終わっていない。
今は、
そのことだけが、確かだった。




