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第44話 蒼と黒の再会――鐘楼の禁呪の残滓

夕陽に染まる戦場で、

獣は――動かなかった。


沈みかけた太陽が、

砦の外縁と、崩れた大地と、

その中央に立つ黒い影を、

同じ赤で塗り潰した。


風はない。

悲鳴もない。

戦場は、息を止めたまま――

二つの存在を見守っている。


ロザリーナは、歩いて来た。


走らない。

剣も抜かない。

ただ、まっすぐに。


あの日。

王都が陥ち、

王も、仲間も、

そして“家族”も、

――そのすべてを失った。


五年間。

絶望に沈んだ世界を、

一人で歩き続けた。


飢え。

寒さ。

死の気配。


それでも折れなかった理由は、

たった一つ。


――兄が、生きていると信じていたから。


唯一の肉親。

自分の半分。

ロザリーナが“人でいられた理由”。


その兄が、

いま――目の前に立っていた。


槍を握る手は、

異様に膨れ上がり。


赤黒く濁った瞳。

獣の呼吸。


艶を失った髪。

裂け、歪み、血に染みた黒鎧。


五年間。

獣界で、ただ一人の人間が――

食べ物もなく、

魔物を殺し、喰らい、

生き延びてきた。


その熾烈で過酷な年月の“重さ”が、

この姿そのものだった。


「……兄さん」


声は、震えていなかった。

だが、喉の奥が――焼ける。


かつて。

民に称えられ、

いつも眩しい光の中にいた。


その自分と同じ青銀の瞳も、

優しく包んでくれた手も。


王都の英雄の姿は――

もうどこにも、ない。


それでも。


兄は、兄だった。


ロザリーナは、

ゆっくりと双剣を腰へ戻した。


戦うためではない。

“人として向き合う”ために。


「兄さん……」


一歩、近づく。


「……髪、伸びたね」


昔と同じ。

何気ない言葉。

戦場には、あまりにも不釣り合いな声。


頬を伝う一滴の涙を、

夕陽が赤く照らした。


(……やっと、会えた)


ロザリーナは、

その細い腕を、伸ばした。


触れられる距離まで――

あと、半歩。


その瞬間。


ギュィ――ンと、

空気が撓った。


次の瞬間、

ライザリオンの槍が――

横殴りに、音を置き去りにして振るわれた。


首へ。


迷いはない。

躊躇もない。

“殺すためだけの軌道”。


ロザリーナは、

反射だけで後方へ跳んだ。


風圧が、

頬を裂く。


槍の先端が、

栗色の髪を一房だけ刈り取り、

地面へ舞い落ちる。


「兄さん……私よ。

 ――ちゃんと見て」


だが、ライザリオンは止まらない。

意に介さず。


一歩。

踏み込み。


槍が、再び突き出される。


ロザリーナは身体を反転し、

槍刃すれすれで躱す。


「正気に戻ってッ!」


背に、槍をやり過ごし、

そのまま、懐へ――

距離を潰す。


その勢いで右肘を、

顔面へ叩き込んだ。


だが。


倒れない。

効いていない。


ライザリオンは、

両腕でロザリーナの腰を掴みに来る。


掴まれれば、終わり。


ロザリーナは跳躍して逃れ、

距離を取った。


着地。

浅く息を吐く。


「兄さん……やめて……」


分かっていた。

分かっていたはずだった。


もう――

“言葉”は、届かない。


唸り声。

突き出される槍。


赤黒い瞳に、

感情はない。


理解も、

記憶も、

そこには見えない。


あるのは――

餌か。

それとも、

排除すべき“障害”か。


ロザリーナは、

静かに双剣を抜いた。


金属音が、

沈黙に溶ける。


(……止めなきゃ)


胸の奥が、

きしむ。


(私が、止めなきゃ……)


砦の向こう。

城壁の内側。

まだ、生きている人たち。


この獣を、

ここで止められるのは――

自分だけ。


「……ごめんね」


それは、

謝罪だったのか。

決別だったのか。


ライザリオンの槍が、突き出される。


ロザリーナは、最小限の動きで躱した。


次の瞬間――

双剣が煌めく。


雷のように、

二振りの剣が疾走し、

蒼銀の軌跡が風を裂く。


一瞬、

剣が消えた。


次に見えたのは――

空に刻まれた「X」。


正確に、

胸を捉えた。


血が――

噴き出すはずだった。


だが、

何も起きない。


冷え固まった溶岩のような外皮は、

斬れない。

刺さらない。


「――なっ……?」


手応えが、なかった。

斬った感触すら、ない。


(……物理攻撃が、効かない)


そしてそれは――


剣士としての常識が、

この戦場では、

一切、通用しないという宣告だった。


◆◆◆


その頃――

王館裏手の大教会では。


最上部にある鐘楼(しょうろう)へ向かう、

細く、急な螺旋の石階段を――

二人の影が、ゆっくりと上っていた。


石壁に反響する、

荒い呼吸。

靴底が擦れる音。


途中。

階段の踊り場で、

小さい方の影が、ついに腰を落とした。


「……はぁ……っ」


老人――ダルパスだった。


額からは、

大粒の汗が、

ぽた、ぽた、と石段に落ちる。


その様子に、

一段上で足を止めていたマクレブが、振り返る。


「大丈夫ですか」


声は低く、

しかし、はっきりと。


ダルパスは、

息を整えようとしながら、

壁に手をついた。


「……いや……ちと、休めば……」


民が逃げる際、

囮の馬車になるはずだった老人。


王の命を、

老司祭バルノアと共に聞き――

止めるなら、

自分も一緒に行くべきだと、

そう判断して、着いて来た。


「ここで待っていてください」


マクレブは、

無理に明るくならぬよう、

だが、命令口調にならぬよう、

言葉を選んだ。


「私だけで行ってきますので……」


ダルパスは、

苦しそうに息を吸い、

それでも、首を横に振る。


「わしと、バルノア殿が……

 王から、直接受けた話ですじゃ」


汗で濡れた額を、

袖で乱暴に拭う。


「バルノア殿を止めるなら……

 わしの口からも、

 ちゃんと、話さんと……」


そう言って、

もう一度、階段を見上げた。


「……ちょっとだけ……

 休ませてくだされ」


その声に、

弱さはあったが、

迷いはなかった。


ダルパスの額から、

また一粒、

汗が落ちる。


「階段は……

 あと、どのくらいあるんかな」


問いというより、

覚悟の確認だった。


マクレブは、

一瞬だけ視線を逸らし、

頭を掻いた。


そして、

正直に答える。


「……いや……

 まだ、半分も登ってませんよ」


ダルパスは、

小さく、喉を鳴らすように笑った。


「……」


言葉は、出ない。


それでも、

壁に手をつき、

ゆっくりと――立ち上がる。


一歩、

足を出そうとして。


――力が、抜けた。


尻が、

もう一度、石段へ戻る。


「……すまんのお」


息を整えながら、

かすかに首を振る。


「もう……

 ちょっとだけ……」


その声には、

諦めも、甘えもなかった。


ただ、

“まだ行く”という意思だけが、

はっきりと残っていた。


その時、上から――

かすかに鐘の金属が、風に鳴った。

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