第42話 悪夢の向こうの喰うもの――等身大の笑い声
◆◇◆
暗い森の中。
人骨の山と、
湿った土の匂い。
そして――
腐った獣の息。
夕暮れでも、夜でもない。
時間の境目のような――
曖昧な世界。
幼い少女が、一人。
手には、剣。
小さな掌には、
あまりにも重い鉄。
目の前で、
巨大なクマのような魔物が、低く唸る。
毛皮に覆われた巨体。
濁った眼。
子供を丸飲みしそうなくらい大きな口。
熱い息が、血の匂いを伴って吐き出される。
(……こわい)
膝が、震える。
それでも少女は、
剣を落とさなかった。
四本足で――
魔物が飛び掛かって来る。
剣で、受け止めた。
――ガンッ!
硬い衝撃。
剣が、
弾き飛ばされた。
宙を舞い、
土の上へ――転がる。
「……っ!」
素手。
魔物が、
二本脚で、すくっと立ち上がる。
太い両腕。
振り上げられる爪。
小さな身体の上に、
大きな影が落ちる。
(――お兄ちゃん……)
後退ろうとして、
少女は尻持ちを突いた。
魔物が、真上から襲い掛かる。
その瞬間。
――ドン。
空気が、裂けた。
魔物の身体が、
横から――吹き飛んだ。
「……?」
振り向く。
そこにいたのは――
自分と同じ、青銀の瞳をした少年。
背丈は高くない。
だが、
剣だけが――異様に大きい。
一閃。
魔物は、
抵抗する間もなく――地に伏した。
少女は、立ち上がる。
足が、もつれる。
それでも――
呼んだ。
「お兄ちゃん!」
昔と同じ声で……。
帰れば、いつも笑ってくれた。
――お兄ちゃん。
泣いたら、いつも頭を撫でてくれた。
――お兄ちゃん。
だが、少年は振り返らない。
倒れた魔物の前に、
背を向けたまま――座っている。
「……お兄ちゃん?」
もう一度。
返事は、ない。
「……お兄ちゃん!!」
少年がゆっくりと振り返る。
首だけが回り――関節が遅れる。
赤い。
瞳が、
赤く――どす黒く染まっていた。
焦点がずれている。
口元から、
魔物の血が――とろり、と垂れた。
肉。
喰っている。
「……ぁ……」
声が、出ない。
少年の赤い口が、開く。
(間)
「……グルルル……」
だが、漏れたのは――
言葉ではない。
濁った、獣の吐息。
世界が、歪む。
赤が、赤を塗り潰し、
視界を奪った。
――――――
「……っ!!」
次の瞬間。
冷たい石の感触が、
背中に――戻ってきた。
◆◇◆
「……はぁ……っ……」
荒い呼吸。
背は――
城壁。
砦の中。
血と土と、
戦場の匂いが、戻って来る。
ロザリーナは、
壁に寄り掛かったまま、
ゆっくりと目を開いた。
「――兄さん?」
額に浮いた冷たい汗を感じながら、
息を、整える。
心のどこかが――
砦の外にいる“自分と同じ血”の気配を、
確かに、感じ取っていた。
――◇――
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【敵・投石器前】
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黒い巨躯は、
再び、胸を突き出し、
腰に両肘を当てる。
手のひらを上に。
ゆっくりと閉じて、
拳を握り潰すほど固く――
骨が軋む音が、かすかに混じるほどに。
そして――
空を、見上げた。
溜め。
一拍。
戦場が、
呼吸を――止める。
次の瞬間。
喉の奥から。
肺の底から。
腹の底から。
“世界へ叩きつける”ように――
吠えた。
「ギャリィィィィィ―――――!!」
音ではない。
衝撃波だった。
空気が、割れる。
木々が薙ぎ倒され、森が悲鳴を上げる。
飛んでいた鳥が、落ちる。
目に見えるほどの“圧迫感”が、
円を描いて拡がり――
城壁や砦内まで押し寄せてくる。
もうこれは、誰にではなく、
世界そのものへの威圧の放射。
逃げ遅れた黒帝兵たちが、
次々と弾き飛ばされる。
骨のきしむ音。
鎧が千切れる。
盾が回転する。
人が、紙切れのように舞う。
ズズーン――!!
遅れて、
地面が――泣いた。
クレーターの縁が、さらに沈む。
円が、もう一段――深く落ちる。
ダン、ダン、ダン――!!
岩盤が軋み、
土が裂け、
戦場そのものが――沈み込む。
まるで――
この場所そのものを、
押し潰し、
強烈に圧迫するかのように。
「……グルルル……」
黒い巨躯は、
吠えながら、血の匂いを吸い込む。
次の餌を探す目。
赤黒い、獣の目。
だが――
周囲に、立っている兵はいなかった。
舞い上がった土煙が、
雪のように静かに降り積もる。
◆◆◆
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【砦・治療所】
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薬草の匂いが、鼻を刺した。
血と汗の匂いに混じって、
煮詰めた薬と、乾いた包帯の匂いが漂っている。
「……っ、アズ……!」
治療所の扉が、勢いよく開いた。
ポコランは、息も整えずに中へ飛び込む。
視線は一直線に、奥の寝台へ――
そこに。
白い包帯に巻かれ、
簡素な毛布を胸元まで掛けられた身体が、
横たわっていた。
灰青の瞳。
その瞳が――
ゆっくりと、こちらを向いた。
「……あ」
その一瞬で。
ポコランの胸の奥に溜め込まれていたものが、
一気に、決壊した。
「アズ……!!」
駆け寄る。
叫ぶ。
――泣きそうになる。
いや、もう泣いていた。
「よ、よかった……!
本当に……ほんとに……!」
声が震える。
目の奥が、熱い。
思わず、
ぎゅっと――
抱きつこうとして。
「――っ」
寸前で、止まった。
(……あ)
距離。
包帯。
治療所。
それに――
アズが動けない。
顔が、近いところまで来て、
ポコランは、ぴたりと動きを止めた。
耳まで、熱い。
頬が、じわっと赤くなる。
固まったまま、
両手が宙で止まる。
それを見て。
アズは、
寝台の上で小さく、目を細めた。
「……いいよ」
かすれた声。
「でも――
怪我してるから、そっと、ね」
そう言って、
痛む身体を気にするように、
ゆっくりと上半身を起こした。
包帯の巻かれた肩。
動かすたびに、わずかに眉が寄る。
「……っ」
ポコランは、
その仕草に、逆に動けなくなった。
「え、えっと……
拾っといた、その……さっき……
剣が……アズの剣が……」
視線が、泳ぐ。
言葉が迷子になり、
やっぱり、主語と動詞が死んでいた。
「……」
目が合う。
沈黙。
その沈黙に、
アズが、ふっと小さく息を吐いた。
次の瞬間。
包帯だらけの右手が――
ポコランの首の後ろへ、そっと回った。
「えっ……!?」
軽く、
でも逃げられない程度に。
ぐい、と引き寄せる。
「ちょ、ちょっと……!」
「声、大きい」
アズは、
小さく笑った。
「私、こんな怪我、
……ぜんぜんへっちゃらだから……」
気づけば。
ポコランの額が、
アズの肩口に、触れていた。
薬草の匂いに、
少女の匂いが混ざる。
包帯の感触。
生きている、体温。
それが――
はっきりと、伝わってくる。
「……バカ……」
ポコランの声が、震える。
「……死ぬかと、思ったんだぞ……」
言葉の最後が、掠れた。
目から涙が噴き出した。
アズは、
そのまま、ポコランの頭に、
自分の額をそっと寄せた。
首へ回した――手の力は、弱い。
でも、
確かに――そこにある。
「……ごめん」
「……!」
そして少しだけ、
胸を張るように。
「だから……
もう大丈夫だから」
ポコランは、
しばらく何も言えなかった。
そして――
ぐっと、顔を上げる。
「アズ、……無茶、するなよ……」
「する」
即答。
「……即答するな!」
「だって、天才戦士だし」
一拍。
「……」
「……でも」
アズは、
少しだけ声を落とした。
「……心配してくれる人がいるの、
悪くないな、って思った」
ポコランの頬が、
さらに赤くなる。
「じゃあ……もう一回……」
「ん?」
「もう一回、いい」
「え、なにが?」
アズが首を傾げた。
「ぎゅってやつ」
「バカか!」
「これも即答かよ!」
「あははは……」
笑った拍子に、
アズはまた小さく息を詰めた。
「痛い、痛いって――」
アズは、わき腹を押さえる。
「あっはははは……」
それでも二人は、大きな声で笑った。
*
治療所の外では、
まだ戦場の気配が残っている。
それでも、この寝台の上だけは――
ほんのひととき、
十五歳と十六歳が、
ちゃんと“戻ってきた”場所だった。




