表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/44

第42話 悪夢の向こうの喰うもの――等身大の笑い声

◆◇◆


暗い森の中。


人骨の山と、

湿った土の匂い。


そして――

腐った獣の息。


夕暮れでも、夜でもない。

時間の境目のような――

曖昧な世界。


幼い少女が、一人。


手には、剣。

小さな掌には、

あまりにも重い鉄。


目の前で、

巨大なクマのような魔物が、低く唸る。


毛皮に覆われた巨体。


濁った眼。

子供を丸飲みしそうなくらい大きな口。

熱い息が、血の匂いを伴って吐き出される。


(……こわい)


膝が、震える。


それでも少女は、

剣を落とさなかった。


四本足で――

魔物が飛び掛かって来る。


剣で、受け止めた。


――ガンッ!


硬い衝撃。


剣が、

弾き飛ばされた。


宙を舞い、

土の上へ――転がる。


「……っ!」


素手。


魔物が、

二本脚で、すくっと立ち上がる。


太い両腕。

振り上げられる爪。


小さな身体の上に、

大きな影が落ちる。


(――お兄ちゃん……)


後退(あとずさ)ろうとして、

少女は尻持ちを突いた。


魔物が、真上から襲い掛かる。


その瞬間。


――ドン。


空気が、裂けた。


魔物の身体が、

横から――吹き飛んだ。


「……?」


振り向く。


そこにいたのは――

自分と同じ、青銀の瞳をした少年。


背丈は高くない。

だが、

剣だけが――異様に大きい。


一閃。


魔物は、

抵抗する間もなく――地に伏した。


少女は、立ち上がる。

足が、もつれる。


それでも――

呼んだ。


「お兄ちゃん!」


昔と同じ声で……。


帰れば、いつも笑ってくれた。

――お兄ちゃん。


泣いたら、いつも頭を撫でてくれた。

――お兄ちゃん。


だが、少年は振り返らない。


倒れた魔物の前に、

背を向けたまま――座っている。


「……お兄ちゃん?」


もう一度。


返事は、ない。


「……お兄ちゃん!!」


少年がゆっくりと振り返る。

首だけが回り――関節が遅れる。


赤い。


瞳が、

赤く――どす黒く染まっていた。

焦点がずれている。


口元から、

魔物の血が――とろり、と垂れた。


肉。


喰っている。


「……ぁ……」


声が、出ない。


少年の赤い口が、開く。


(間)


「……グルルル……」


だが、漏れたのは――

言葉ではない。


濁った、獣の吐息。


世界が、歪む。


赤が、赤を塗り潰し、

視界を奪った。


――――――


「……っ!!」


次の瞬間。


冷たい石の感触が、

背中に――戻ってきた。


◆◇◆


「……はぁ……っ……」


荒い呼吸。


背は――

城壁。


砦の中。


血と土と、

戦場の匂いが、戻って来る。


ロザリーナは、

壁に寄り掛かったまま、

ゆっくりと目を開いた。


「――兄さん?」


額に浮いた冷たい汗を感じながら、

息を、整える。


心のどこかが――

砦の外にいる“自分と同じ血”の気配を、

確かに、感じ取っていた。


――◇――


■■■■■■■■■

【敵・投石器前】

■■■■■■■■■


黒い巨躯は、

再び、胸を突き出し、

腰に両肘を当てる。


手のひらを上に。

ゆっくりと閉じて、

拳を握り潰すほど固く――

骨が軋む音が、かすかに混じるほどに。


そして――

空を、見上げた。


溜め。


一拍。


戦場が、

呼吸を――止める。


次の瞬間。


喉の奥から。

肺の底から。

腹の底から。


“世界へ叩きつける”ように――

吠えた。


「ギャリィィィィィ―――――!!」


音ではない。

衝撃波だった。


空気が、割れる。

木々が薙ぎ倒され、森が悲鳴を上げる。

飛んでいた鳥が、落ちる。


目に見えるほどの“圧迫感”が、

円を描いて拡がり――

城壁や砦内まで押し寄せてくる。


もうこれは、誰にではなく、

世界そのものへの威圧の放射。


逃げ遅れた黒帝兵たちが、

次々と弾き飛ばされる。


骨のきしむ音。

鎧が千切れる。

盾が回転する。

人が、紙切れのように舞う。


ズズーン――!!


遅れて、

地面が――泣いた。


クレーターの縁が、さらに沈む。

円が、もう一段――深く落ちる。


ダン、ダン、ダン――!!


岩盤が軋み、

土が裂け、

戦場そのものが――沈み込む。


まるで――

この場所そのものを、

押し潰し、

強烈に圧迫するかのように。


「……グルルル……」


黒い巨躯は、

吠えながら、血の匂いを吸い込む。


次の餌を探す目。

赤黒い、獣の目。


だが――

周囲に、立っている兵はいなかった。


舞い上がった土煙が、

雪のように静かに降り積もる。


◆◆◆


■■■■■■■

【砦・治療所】

■■■■■■■


薬草の匂いが、鼻を刺した。


血と汗の匂いに混じって、

煮詰めた薬と、乾いた包帯の匂いが漂っている。


「……っ、アズ……!」


治療所の扉が、勢いよく開いた。


ポコランは、息も整えずに中へ飛び込む。

視線は一直線に、奥の寝台へ――


そこに。


白い包帯に巻かれ、

簡素な毛布を胸元まで掛けられた身体が、

横たわっていた。


灰青の瞳。


その瞳が――

ゆっくりと、こちらを向いた。


「……あ」


その一瞬で。


ポコランの胸の奥に溜め込まれていたものが、

一気に、決壊した。


「アズ……!!」


駆け寄る。

叫ぶ。

――泣きそうになる。


いや、もう泣いていた。


「よ、よかった……!

 本当に……ほんとに……!」


声が震える。

目の奥が、熱い。


思わず、

ぎゅっと――

抱きつこうとして。


「――っ」


寸前で、止まった。


(……あ)


距離。


包帯。


治療所。


それに――

アズが動けない。


顔が、近いところまで来て、

ポコランは、ぴたりと動きを止めた。


耳まで、熱い。

頬が、じわっと赤くなる。


固まったまま、

両手が宙で止まる。


それを見て。


アズは、

寝台の上で小さく、目を細めた。


「……いいよ」


かすれた声。


「でも――

 怪我してるから、そっと、ね」


そう言って、

痛む身体を気にするように、

ゆっくりと上半身を起こした。


包帯の巻かれた肩。

動かすたびに、わずかに眉が寄る。


「……っ」


ポコランは、

その仕草に、逆に動けなくなった。


「え、えっと……

 拾っといた、その……さっき……

 剣が……アズの剣が……」


視線が、泳ぐ。

言葉が迷子になり、

やっぱり、主語と動詞が死んでいた。


「……」


目が合う。


沈黙。


その沈黙に、

アズが、ふっと小さく息を吐いた。


次の瞬間。


包帯だらけの右手が――

ポコランの首の後ろへ、そっと回った。


「えっ……!?」


軽く、

でも逃げられない程度に。


ぐい、と引き寄せる。


「ちょ、ちょっと……!」

「声、大きい」


アズは、

小さく笑った。


「私、こんな怪我、

 ……ぜんぜんへっちゃらだから……」


気づけば。


ポコランの額が、

アズの肩口に、触れていた。


薬草の匂いに、

少女の匂いが混ざる。


包帯の感触。

生きている、体温。


それが――

はっきりと、伝わってくる。


「……バカ……」


ポコランの声が、震える。


「……死ぬかと、思ったんだぞ……」


言葉の最後が、掠れた。

目から涙が噴き出した。


アズは、

そのまま、ポコランの頭に、

自分の額をそっと寄せた。


首へ回した――手の力は、弱い。


でも、

確かに――そこにある。


「……ごめん」


「……!」


そして少しだけ、

胸を張るように。


「だから……

 もう大丈夫だから」


ポコランは、

しばらく何も言えなかった。


そして――

ぐっと、顔を上げる。


「アズ、……無茶、するなよ……」


「する」


即答。


「……即答するな!」


「だって、天才戦士だし」


一拍。


「……」

「……でも」


アズは、

少しだけ声を落とした。


「……心配してくれる人がいるの、

 悪くないな、って思った」


ポコランの頬が、

さらに赤くなる。


「じゃあ……もう一回……」


「ん?」


「もう一回、いい」


「え、なにが?」


アズが首を傾げた。


「ぎゅってやつ」


「バカか!」


「これも即答かよ!」


「あははは……」


笑った拍子に、

アズはまた小さく息を詰めた。


「痛い、痛いって――」


アズは、わき腹を押さえる。


「あっはははは……」


それでも二人は、大きな声で笑った。



治療所の外では、

まだ戦場の気配が残っている。


それでも、この寝台の上だけは――


ほんのひととき、

十五歳と十六歳が、

ちゃんと“戻ってきた”場所だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ