第41話 戻った息と――まだ終わらぬ戦場
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【王館・王室】
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王室の天井近く――
ヴァルザークの背で、
赤褐色の魔翼が、
ゆっくりと、広がった。
空気が、張り詰める。
白いかまいたちのような気流が、
床を這い、
砕けた瓦礫を細かく震わせた。
「俺の異能を見せてやる――」
愉悦を孕んだ声。
ベニバラは、
右手の剣を逆手に持ち替え、
前へ構え、ヴァルザークを見上げた。
呼吸が荒い。
ヴァルザークは、
その標的へ双剣を向け、
両足をゆっくりと後方へ持ち上げる。
身体が、床と水平になった。
「――《紅翼・(クリムゾン……)》」
次の瞬間、
すべてを切り裂く白い風が解き放たれる――
その、直前。
ドン、ドン。
ドコ、ドコ――ドン。
重く、低い振動。
王館の石壁を伝い、
床下から這い上がってくるような――異音。
「……!」
ヴァルザークの声が、途切れた。
翼が、止まる。
太鼓の音。
勝利の合図ではない。
「――全軍撤退、ねぇ?」
赤い瞳が、わずかに細まる。
王室の空気が、
一瞬、意味を失った。
(外で……何が起きた)
厚い石壁の向こう。
戦場の“外”。
この王館を丸ごと揺さぶる、
理屈の外側にある圧倒的な圧が――
遅れて、伝わってきていた。
微かな揺れ。
耳鳴りに似た圧迫感。
獣の咆哮――否。
世界そのものが、歪む気配。
ヴァルザークは、
ふっと鼻で笑った。
「……まあ、いい」
飛行態勢の身体を戻す。
「紅の戦士よ。
お前の死に顔は――
次にとっておいてやる」
捕食者が、
獲物を“保留”するときの声音。
赤い瞳が、
一瞬だけ、ベニバラを捉え――
次の瞬間。
ヴァルザークは背を向け、
王室の外へ――飛び去った。
残されたのは、
破壊の痕と、
生き残った者たちの――沈黙。
◆
気配が、消えた。
その瞬間。
ベニバラの剣が、
からん、と音を立てて床に落ちた。
膝が――崩れる。
「……っ」
胸を押さえ、
身体を折り、
口元から血の泡が零れる。
呼吸が、乱れる。
肺が、悲鳴を上げた。
限界だった。
「将軍!!」
ロートが駆け寄り、
その身体を支える。
「しっかりしてください!」
返事はない。
ただ、
紅い髪の下で、
荒い呼吸だけが――かすかに続いていた。
◆
ヴァレンティスは、
玉座の背後。
支柱崩壊のレバーに掛けていた手を、
ゆっくりと離した。
指先が、震えている。
一歩、下がり、
背を壁に預ける。
そして――天を仰いだ。
王としてではない。
ただの、人として。
「……ふぅ……」
深く、
大きく、
息を吐く。
それは勝利の息ではない。
生き延びたことを、
ようやく身体が理解した――
遅すぎる呼吸だった。
王館の外では、
戦場が――
すでに“別の何か”に喰われている。
それでも、この部屋には、
ひとときの――静寂が戻っていた。
崩れかけた玉座の間で。
王と、
微かに燃え残った紅と、
それを守ろうとする者が――
かろうじて、
“今”を生きていた。
◆◆◆
その頃――砦、城門の内側。
白馬が駆け込んでくる。
蹄が石床を滑り、乱暴に止まった。
怒号。
悲鳴。
駆け寄る足音。
「降ろせ!!」
ガルデンの声は、
もはや命令ではなかった。
喉を裂くような――悲鳴。
老将は、
馬の背に固定された小さな身体へ手を伸ばし、
ほとんど引き剥がすように――抱き下ろす。
「……っ、アズ……!」
太い腕の中で、
最愛の孫は、
ぐったりと力を失っていた。
周囲の兵が、言葉を失う。
「治療所だ! 急げ!!」
怒鳴る声が、
自分のものだと理解するまで、
ほんの一拍遅れた。
兵たちが担架を持ち出し、
アズを乗せて走り出す。
ガルデンも、後を追った。
老いた脚の痛みも、
背に突き刺さる矢の痛みも、
今は――何も感じない。
ただ、砦の奥へ。
「神よ……頼みますじゃ……」
誰に向けた祈りかも、
もはや、分からなかった。
◆
砦の中は、混乱していた。
撤退してきた味方兵。
負傷者。
血と土と、汗の匂い。
城壁の上では、
撤退する黒帝兵が走っている。
「担架を!」
「水を!」
血で滑る石床。
泣きながら、鎧を外す兵。
命令と報告が、交錯する。
だが――
遊撃隊・隊長、
ニコルは、動けなかった。
白馬の手綱を、
無意識に握りしめたまま。
指先が、じんと痺れている。
(……俺が)
喉の奥が、焼ける。
遊撃。
突破。
無理な進軍。
理屈では――
砦を守るための、最善。
そう言い切ることも、できた。
だが。
アズを連れて行ったのも、
持ち場を離れたのも、
俺の判断だった。
そして――
アズは、
今、担架で運ばれていった。
あの、軽すぎる身体で。
(……俺が、指揮を誤った)
言葉は、そこで止まった。
言い訳も。
仮定も。
反論も。
すべて、
胸の奥で形を持たないまま――沈んでいく。
◆
ポコランは、
その場に立ち尽くしていた。
小刻みに震える指先。
目の前で起きたことが、
まだ、一つの現実として繋がらない。
ついさっきまで――
一緒にいた。
顔の汚れを拭いてくれた。
声を聞いた。
名前を呼んだ。
それなのに。
「……アズ……」
小さく呼んでも、返事はない。
追いかけたい。
何か、しなきゃいけない。
そう思うのに、
脚が、動かない。
自分が動けば、邪魔になる気がして。
自分には、何もできないと分かってしまって。
ただ―― 立って、見送ることしかできなかった。
◆
砦の奥へ。
ガルデンの背中が、
恐慌の喧噪の向こうへ消えていく。
それと入れ替わるように、
王館からヴァレンティスが姿を現した。
「――今のは、アズか」
ニコルの脇に歩いて来ると、
静かに問いかける。
ニコルは答えられず、
視線を落とした。
ヴァレンティスは、
それだけですべてを悟った。
その肩にそっと手を置く。
「最善だと思っても」
「最初から、満点が用意されていない戦いもある」
一拍。
「結果が満点でなくても、
それが最善の選択だったなら――
それ以上は、もうどうしようもない」
「アズも戦士だ」
「……祈ろう」
ニコルは、
ようやく顔を上げ、
小さく頷いた。
◆
二人は、
生き残っている左城壁の石階段を昇る。
外を見るために。
まだ――
この戦場には、“あれ”がいる。
城壁の上。
砦の外では、
黒帝軍が散り散りに退いていく。
そのさらに奥。
投石器前の窪地、その中心に、
――黒い巨躯が、立っていた。
「……あれは」
ヴァレンティスが低く呟く。
「今のところは、何も分からない」
ニコルは答えた。
「ただ……
人の理性や、
戦争の論理で動いているものではなかった」
「あれが、黒帝軍が退いた理由、か」
「はい。
八将のグラを喰い、
ドルグすら退かせた……
規格外です」
そこへ、
マクレブが小走りに駆け寄ってきた。
「陛下、ご無事で!」
「ああ。今のところはな」
ヴァレンティスは小さく笑い、
すぐに表情を引き締める。
「――で、アズは」
マクレブの顔が、
わずかに和らいだ。
「意識は戻りました」
その一言で。
ニコルの胸が、
初めて大きく上下した。
「良かった!」
マクレブの後ろでポコランが、
膝が抜けるように座り込んだ。
マクレブが続ける。
「脳震盪と全身の打撲はありますが」
「命に別状はありません」
「……そうか」
ニコルの声は掠れていたが、
確かな安堵が滲んでいた。
もし、あの子に何かあったら。
その先の人生で、
自分のことを赦せなかっただろう。
「あいつ、咄嗟に両腕で防いだそうです。
――ドルグの一撃を」
「……あいつらしい」
ヴァレンティスが、静かに言う。
マクレブは、
少し言いにくそうに続けた。
「それと……
隊長に伝言があります」
ニコルを見る。
「きっと隊長は、
自分のせいだと思って、
しょげているはずだから」
「――そうじゃないって、伝えてほしいと。
……いや、俺が言ったんじゃないですよ」
一拍。
「あと、……それから」
「“ごめんなさい”と」
ニコルは、しばらく黙っていた。
そして――
小さく、深く息を吐く。
「……ごめんなさい、か」
謝らなければならないのは、俺の方だった。
その言葉を飲み込み、
ニコルはただ、自分の不甲斐なさを噛み締めた。
城壁の外では、
まだ“獣”が、世界の理からはみ出したまま立っている。
だが――
今は、ほんのわずか。
人は、
息をつくことを許されていた。
ヴァレンティスは、
外の戦場から視線を切り、
静かに口を開いた。
「マクレブ」
「はっ」
「砦の被害状況を確認し、まとめて報告してくれ」
「城壁、門、倉庫、負傷者の数――
まだ“戦いは終わってない”が、すべてだ」
短く、的確な指示。
「それから――」
ヴァレンティスは、一瞬だけ言葉を選んだ。
「王館の裏に待機させている、
民たちの避難用馬車」
「解除していい。
今は、まだ逃げる時ではない」
マクレブが、はっと息を呑む。
「そして、教会の鐘楼にいるバルノアへ伝えろ」
「――術を解除し、王室へ来るように、と」
「御意!」
マクレブは深く一礼し、
石階段を駆け下りていった。
足音が遠ざかる。
残されたのは、
城壁の上の冷たい風と、
まだ終わっていない戦場。
ヴァレンティスは、
ゆっくりとニコルへ向き直った。
「グラの兵をかなり削れたな」
「――グラは、本当に死んだんだな」
「はい」
そして――
誰にも聞こえない距離まで近づくと、
低く、耳打ちした。
ニコルは目を細めて、頷いた。
ヴァレンティスは、
静かに背を向けた。
「今は――
“あいつ”を砦から遠ざけてくれ」
それだけを残し、
王は王館へと戻っていく。
ニコルは、
その背中を見送ったまま、
再び、城壁の外へ目を向けた。
沈み込んだ大地の中心。
そこに立つ、
名も、理も、所属も持たぬ“獣”。
(……まだ、終わっていない)
それだけが、
はっきりと分かっていた。




