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第40話 黒い帰還――獣が喰らう戦場

風が、止まった。

雲が、止まった。


血の匂いが――散らない。


黒い巨躯。

その圧倒的な異物に対し、

戦場という“空間”そのものが、

本能で拒絶反応を起こしていた。


ドルグ=ハルザードは、

背中にめり込む異常な威圧に、

――ゆっくりと、振り返る。


黒帝軍本陣の脇。

高台の丘の下。

そこに立つ“黒い巨躯”と、目が合った。


肩まで伸びた、艶を失った黒髪。

赤黒く濁った瞳。

濡れた獣の呼吸。


裂け、歪み、剥がれ落ちた黒鎧の隙間から、

異様に膨れ上がった筋肉が、

脈打つたびに隆起していた。


その右手にぶら下がっていたものが、

ゆらり、と揺れた。


首。


それは、ルドグラッド砦攻めの、

黒帝軍総大将、――グラ=シャルンの首。


視線が噛み合った、その瞬間。

黒い巨躯は、

その首を――足元へ落とした。


ごろり。皮が土に貼りついた。


まるで、喰い終わった肉でも捨てるように。


そして。


一歩。

真っすぐに。


二歩。

土が、沈む。


三歩。

空気が、さらに重くなる。


向かっている先は――ドルグ。

狙いは剣でも、城でもない。


ただ、

“喰えるもの”の匂いへ向かう、

捕食者の歩き方だった。


(この世界には……魔獣が、いない)


ドルグは理解してしまう。


五年前。

《絶界封印の術》。

世界は二つに割れ、

魔獣は獣界へ弾き飛ばされ――

この世界から、ほぼ消えた。


だから、あいつは――

“餌”になるものを探している。


黒い巨躯は、

半獣の血を持つドルグを――


「ただの餌」として、見ていた。



ドルグが、口角を上げる。

余裕の笑み。


「魔物を喰らう――人間か?」


低い声。


「また、面白い奴が出てきたな」


巨鎚を握り直す。

首を左右にゆっくり倒し、骨を鳴らした。


巨鎚を――

そのまま歩いてくる獣へ向けて、振り上げた。


黒い巨躯は、

素手で無防備。


ドルグの前で立ち止まると、

三メートルの巨体を見上げる。


「――潰す」


ゴォォォンッ!!


ドルグの巨鎚が、

真上から落ちる。


脳天へ。

世界ごと叩き割る一撃。


だが。


黒い巨躯は、避けない。


腰を――沈めた。


そして、

両手を交差して、

ガシィッと巨鎚を受け止めた。


――ズズゥン。


足が地面に沈む。

衝撃が腹に落ちる。


巨躯の周囲で土埃が爆ぜ、

粉塵が舞い上がった。


「……くッう!?」


唸ったのはドルグ。


眉が跳ね、

引き上げようとする。

だが――上がらない。


黒い巨躯が、

鎚頭(ついとう)を掴んで離さない。


両腕の筋肉が盛り上がり、指が鉄を噛む。

赤黒い爪が、金属をきしませた。


次の瞬間。


黒い巨躯が、押し上げた。


巨鎚が――逆に、真上に持ち上がった。


「……っ」


ドルグの巨体が、後方へバランスを崩す。


一歩。

二歩。

後退り。


足元が揺らぐ。


黒い巨躯は、

喉の奥で獣の音を鳴らした。


「……グルゥゥ……」


そして――向かってくる。

止まらない。

ただ、ドルグを喰いたいだけで。


(異能は――)


ドルグの脳裏をよぎる。

異能はベニバラに使った。

今はもう、使えない。


ここで削り合えば、

“餌”にされる。


ドルグは決断する。

退くことを。


だが、退くという選択が、

“獣”に通じるはずがなかった。


黒い巨躯はなおも、

まっすぐドルグへ歩いてくる。


「……チッ」


ドルグの口から、

初めて焦りの音が漏れた。


振り向き、怒鳴る。


「おい!! 前へ出ろ!!」


近くの黒帝兵の背を、乱暴に押しやる。


「戦え! やつを止めろ!!」


兵たちをかき分けて後ろへ。


だが、兵たちは凍りついた顔で動けない。

逃げたい。

だが逃げれば、巨鎚で背から叩き潰される。


その時。

ドルグの胸に冷たいものが落ちた。


――恐怖。


それは、彼にとって初めて感じる、

“自分が獲物になる”恐怖だった。


黒い巨躯は、兵たちの前で止まらない。

足元に転がっていた長槍を拾い上げる。


片手で。


槍を――ぶん、と振る。

鋼鉄の柄がたわむ。


ズゴォン!!


理屈に合わない動き。


薙ぎ払い。

黒帝兵が宙へ飛ぶ。


盾ごと。

鎧ごと。

骨が折れる音が、遅れて来る。


その中に――

ニコルの遊撃隊の兵もいた。


敵味方の区別は、ない。

喰えるか、

邪魔か。


それだけ。


「……ッ」



城門を飛び出す、ニコルの白馬が跳ねた。

戦場のど真ん中で、

この戦いの“規格”が変わっていく。


ドルグは、

自軍兵の体を“投げつける”ように、後退する。


逃げる。

災害が逃げる。

はじめて見る顔で。


三メートルの巨体が泥にまみれ、

自軍の兵の返り血で汚れ、

がむしゃらに走りながら、

レッドバルムへ怒鳴った。


「レッドバルム!!」


本陣にいる統率官が振り向く。


「全軍撤退だ!!

 太鼓を鳴らせ!!」


レッドバルムの顔が一瞬、凍る。

だが次の瞬間には理解する。


総大将グラは――死んだ。

しかも、

殺したのは味方でも敵でもない――“何か”。


このまま攻め続ければ、

自軍が“砦”ではなく“獣”に蹂躙される。


「撤退! 撤退! 

 ――全軍撤退!!」


黒帝軍の太鼓が鳴る。

ドン、ドン、ドコ、ドコ、

――ドン、ドン。


退却の合図。

黒帝兵の列が乱れ始めた。


だが、乱れた退却の列へ――

黒い巨躯が踏み込む。


槍が唸る。

血が舞う。

兵が吹き飛ぶ。


戦場の中心で、

獣がただ、餌を探して暴れていた。


◆◆◆


ニコルは白馬を蹴った。

アズへ向かう。


その途中、

必死に走るポコランが視界に入る。


「ポコラン!!」


ニコルが腕を伸ばす。

「えっ――!?」


ポコランの身体がぐいっと引き上げられ、

馬の後ろへ乗せられた。


「しっかり掴まれ!!」

「は、はい!!」


二人の視線の先。

血に沈み、倒れ伏す小さな身体。


アズは、動かない。


「アズ!!」


ニコルは馬から飛び降り、膝をつく。


ポコランが転げるように降り、

アズの顔を覗き込む。


「アズ!? アズ!!」


肩を揺する。

反応がない。


その時――

ニコルの視界が、凍りついた。


全てが――

自分のせいだった。


アズを連れて来たのも、

持ち場を離れたのも――俺だ。


色が、止まる。

距離が、壊れる。

剣戟も、怒号も、風の音も――

世界から、音だけが抜け落ちた。


――こんなことに。


無理やり、息を吸う。

胸が痛むほど、深く。


指先が、勝手に動いた。

震えを押し殺すように。


アズの首元へ。


(大丈夫……)

(大丈夫……)


自分に言い聞かせる。

言葉を噛み砕き、

喉の奥へ、押し込む。


――その瞬間だった。


ガァン――!!


遠くで、金属がぶつかる音。


ドン、ドン、と、

退却の太鼓が、耳の奥を叩く。


怒号。

蹄の音。

誰かの悲鳴。


――戦場が、戻ってきた。


「だめだよ……!」

ポコランの声が裏返る。


「アズ! 死んだらダメだ!!」


堪えていたものが、堰を切った。

涙が、噴き出す。


それでもアズは――

白目を剥き、

口元に泡を浮かべたまま、動かない。


ポコランは震える手で、

アズの背に腕を回し、

必死に身体を揺さぶった。


そのたびに、

こぼれ落ちた涙が、

アズの頬に、ばらばらと弾けた。


その時。


蹄の音。


投石器前で戦っていた

遊撃隊中隊長――マクレブが、

馬で突っ込んでくる。


後ろには、

敵兵の包囲がほどけた遊撃兵たち。


「隊長!!」


叫びが、戦場を裂く。

だが――

ニコルは、顔を上げない。


「隊長!!

 黒帝兵が――

 退却を始めました!!」


再び、叫び声。


ようやく、ニコルが顔を上げた。


視線の先。

確かに黒帝軍が退いていく。


――だが、理由が違う。


遠くで。

黒い巨躯が槍を振り回し、

敵味方をまとめて吹き飛ばしている。


ニコルの喉が鳴る。


(……なんだ、あれは)


理解する暇はない。


ニコルは、マクレブへ怒鳴った。


「撤退の指示を出せ!!

 全員、砦へ戻れ!!」


「了解!!」


ニコルは、アズを抱え上げた。


軽い。


――あまりにも、軽すぎる。


それが、胸を抉った。


「マクレブ!!

 アズをお前の馬の後ろへ!!」


マクレブが即座に馬を寄せ、

遊撃兵が無言で手を貸す。


意識のないアズが、

慎重に、だが急いで馬の背へ固定される。


ポコランは、涙を拭い、

アズの短剣を拾い上げる。


そして、ニコルの後ろへ。


「……し、しっかり掴まれ」

「はい……!」


ニコルは馬へ飛び乗る。

振り返る暇は、ない。


背後では、

黒い獣が槍を振り回し、

兵を、ただの塊のように吹き飛ばしていた。


砦も。

黒帝も。


奴にはただの――

“狩り場”だった。


「走れ!!」


白馬が疾走する。

マクレブの馬も並走する。

遊撃隊が散り散りになりながら――砦へ向かう。


城門が、目前に迫る。


その時、背後で――


ギィギルギルギャーンン!!


獣の叫びか。

それとも、世界そのものの軋みか。


戦場の骨格が、

悲鳴を上げた。


次の瞬間。


ボン、ボン、ボン、ボン――!!


背後で爆風が立ち上がり、追いすがってくる。

地面が、撃ち抜かれたように沈む。


一つ。

また一つ。


丸い窪みが生まれ――

それが、“波紋”となって広がっていく。


円。

円。

円。


「逃げ切れるか――!」


地面が、

連鎖するように沈み込み、

土と石が、内側へ――喰われていく。


「門を開けろ!!

 中へ入れろ!!」


ニコルたちは、城門の中へ――飛び込んだ。


蹄が石床を叩き、

ようやく、内側の空気が戻る。


ニコルは――

振り返った。


砦の外。


沈み込んだクレーターの中心に――

黒い巨躯が、立っていた。


仁王立ち。

微動だにせず。


その横顔に、知性はない。

怒りも、憎しみも、ない。


それでも。


世界が――


その存在原理を理解できず、

ただ、震えていた。

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