第36話 魔翼、王館へ――玉座に届く悲鳴
城壁前の上空――
砦を覆う煤色の空を、
ひとつの影が、戯れるように裂いた。
赤褐色の魔翼。
羽ばたきは、一度だけ。
次の瞬間、影は“落ちる”というより――
滑り落ちるように、砦内へ向かう。
「――っ」
ガルデンが、嫌な予感に喉を鳴らす。
視界の端。
夕暮れの空を背景に、
巨大な影が、
あまりにも軽やかに横切った。
(……飛行型、――ヴァルザーク!?)
反射的に盾を構えかけ――
だが、止まる。
正面には、
城壁上を埋め尽くす黒鎧兵。
一瞬でも動けば、
この持ち場が、抜かれる。
影は、
ガルデンの頭上を、
文字通り“飛び越える”ように通過した。
風圧。
魔翼が生む圧が、
老将の髭とマントを、容赦なく煽る。
(……王館……か!?)
喉が、鳴る。
だが――
刃を向ける余地は、ない。
次の瞬間、
魔翼は、王館三階の外壁へ向かって、急降下した。
「王が――!」
叫びは、
戦場の音に――無意味にかき消される。
――◇――
■■■■■■■
【王館・三階】
■■■■■■■
夕暮れの光が、
細長い回廊の窓から、静かに差し込んでいる。
――その窓が。
外側から、蹴り砕かれた。
ガシャァァン――!!
硝子が弾け、
木枠が悲鳴を上げ、
赤褐色の影が、宙を翻りながら侵入する。
着地。
音は、ほとんどなかった。
「……侵入者ッ!!」
近衛兵の叫びが、
階下の回廊に反響する。
魔翼の処刑者――
ヴァルザークは、床に足をつけたまま首を巡らせる。
「へぇ……」
楽しげな声。
「ちゃんと中にも、人が残ってるじゃねぇか。
――良かった、良かった」
◆◆◆
吹き抜けの階段を、翼で滑り降り、
一階へ。
王室へ続く、長い回廊。
その突き当りの重厚な扉の前に、
近衛兵が――十数名。
前列は剣と盾持ち。
後列は長槍。
そのさらに後ろ、
矢を番えた弓兵たち。
全員が、分かっていた。
――ここを突破されたら、終わりだ。
「ここから先は――
王の御前だ!」
声は震えていない。
覚悟は、すでに固まっている。
ヴァルザークは、
その光景をゆっくりと見渡し――
にやりと、口角を吊り上げた。
「いいねぇ」
赤褐色の魔翼が、ばさりと広がる。
「数も、気合も、
……ちゃんと揃ってる」
――一歩。
床を踏み、
次の瞬間、身体が浮いた。
跳躍。
ではない。
舞い上がる。
「――っ、上だ!!」
叫びと同時に、
弓兵が一斉に弦を引き絞る。
――ヒュンッ、ヒュンッ、ヒュンッ!!
連射。
十数本の矢が、
天井近くへ舞い上がった魔翼へ殺到した。
だが――
ヴァルザークは、振り向きもしない。
空中で身体を反転させながら、
細長い双剣を、ただ軽く振る。
キィン。
キン、キンッ。
乾いた金属音。
矢は、すべて空中で叩き落とされた。
斬ったのではない。
弾かれた。
払い落とされた。
床に転がる矢が、乾いた音を立てる。
「……なに?」
「……剣で……?」
弓兵の顔が、青ざめる。
「ほ、包囲だ――!」
その声が、
最初で最後の連携だった。
ヴァルザークは、
天井近くでくるりと回りながら、鼻で笑った。
「弓まで用意してんのは、評価するぜ」
一拍。
「――でも、俺には通じねぇ」
次の瞬間。
ヴァルザークは、
天井近くで身体を反転させ――
「遅ぇよ」
落ちる。
バシュッ!!
一人目。
首。
回る前に、落ちた。
着地せず、
そのまま翼で床を蹴り――横滑り。
二人目。
胸。
鎧ごと、
双剣が交錯して、赤が噴いた。
三人目は、
盾を構えたまま。
ヴァルザークは、
わざと正面に降り立ち――嗤う。
「それ、重くねぇか?」
次の瞬間、盾ごと。
頭から叩き潰す。
骨の砕ける音。
血が、
回廊の壁へ跳ねる。
「陛下ァァ!!」
悲鳴と同時に、
後列から槍が突き出される。
ヴァルザークは、
わざと半歩遅れて躱し――
「おっと、惜しいねー」
大袈裟に。
そして、
空中で一回転。
背後へ降り、
心臓を、抜いた。
回廊が、
一気に阿鼻叫喚へ変わる。
剣が鳴る。
足音が乱れる。
血が、床を染める。
近衛兵たちは、
確かに、精鋭だった。
連携も、
踏み込みも、
覚悟もある。
だが――
「悪いな」
ヴァルザークは、
空を使う。
床を使わない。
「もう少し、踏ん張ってくれ」
「もっと、俺を楽しませろ!」
壁を蹴り、
天井を掠め、
翼で距離を誤魔化しながら、
一人ずつ、
確実に――“楽しんで”潰す。
最後。
重厚な王室扉を背に、
一人だけ残った近衛兵。
剣を構え、
震える手を、必死に抑えている。
退かない。
逃げない。
喚かない。
ヴァルザークは、
その姿を見て、
ほんの一瞬だけ――満足そうに息を吐いた。
「その覚悟……悪くねぇな。
……けど」
一拍。
「――壊れるのが早すぎる」
次の瞬間、
赤黒い双剣が、静かに閃いた。
外で、
何かが――終わった。
そして。
それまで戦場の奥に押し込められていたはずの惨劇が、
ついに――
玉座の、
壁一枚向こうまで、染み込んでくる。
それは、悲鳴だったのか。
断末魔だったのか。
――もう、区別はつかない。
ただ確かなのは。
戦争が、
重厚な扉のすぐ外まで来た
という事実だけだった。
――◇――
■■■■■■■■
【敵・投石器前】
■■■■■■■■
アズは、ゆっくりと立ち上がった。
口の端から垂れた血を、
手の甲で乱暴に拭い――
わずかに、笑う。
「……遅いのよ」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、そう思った。
次の瞬間――
跳んだ。
地を蹴り、
一直線に距離を詰める。
風が裂ける。
両手の短剣が、
交差するように閃いた。
――ザシュッ!
腿。
腹。
脇腹。
連続する斬撃。
浅い。
だが――
確実に、刃は通っている。
血が、噴き出した。
(――入った)
手応えは、ある。
間合いも、速度も、読みも――間違っていない。
……のに。
次の瞬間。
それは、止まった。
血の流れが止まる。
裂けた肉が、蠢く。
傷口が、まるで“閉じる”。
縫い合わされるみたいに。
世界の方が、正しい形へ戻していくみたいに。
アズの喉が、一度だけ鳴る。
(……回復? いや――修復)
理解が背骨を冷やした瞬間。
ドルグが、低く呟いた。
「……軽い」
怒りでもない。
苛立ちでもない。
ただの、感想。
巨体が、ゆっくりと向きを変える。
ゴォォン!!
巨鎚が、真上から振り下ろされた。
間一髪――
アズは、跳ぶ。
叩きつけられる地面。
爆ぜる土砂。
だが、
その爆風を背に――
アズはさらに前へ跳躍した。
速い。
人の動きではない。
思考を追い越して、身体が勝手に動いている。
間合いが、
一瞬で消える。
だが――
「アズ!! 無理だ!!」
マクレブの叫び。
だが、
彼自身も黒帝兵に囲まれ、
一歩も動けない。
「お前の攻撃じゃ――厚い肉は破れない」
声は、
巨鎚の轟音にかき消された。
ドルグの巨体が、前へ出る。
一歩。
地面が、沈む。
踏みしめられた大地が、
耐えきれず悲鳴を上げる。
その“重さ”を、
その“厚さ”を、
アズは理解した。
(……このままじゃ、削り合い)
否――
(削れてる“気になってるだけ”)
アズは、
巨槌の影から半歩、外へ滑る。
いくら斬っても、
決定打にはならない。
――このままじゃ勝てない。
なら。
《届くところに行くまで》。
踏み込む。
「やめろォォォォォ!!」
マクレブの怒号。
だが。
アズは、止まらない。
――ここで退いたら。
もう二度と、
届かない気がした。




