第31話 戦争の歯車――崩れ始めた配置図
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【黒帝軍本陣】
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土嚢と黒布で組まれた指揮陣地の中央へ、
破砕の巨鎚・《ドルグ=ハルザード》が戻ってきた。
巨鎚を地面に突き立てる。
鈍い音とともに、周囲の兵が一斉に背筋を伸ばした。
――だが。
「……グラはどうした」
低く、短い問い。
――三眼の暴君・《グラ=シャルン》。
そこに、
“いるべき総大将の姿”はなかった。
一瞬の沈黙。
やがて、包帯を巻いた兵が、よろめくように前へ出る。
「はっ……!
私は、投石器部隊の者です……」
泥と血にまみれた顔。
片脚を引きずり、声が震えている。
「投石器を運搬中……襲撃を受けました。
敵は……一人……」
ドルグの眉が、わずかに動いた。
「一人?」
「は、はい……。
ですが……あれは、人では……」
兵は喉を鳴らす。
「獣のような……凄まじい雄叫びを上げて……
仲間が、次々に……」
言葉が、そこで途切れた。
「自分は……必死で、逃げてきました……」
ドルグは、ゆっくりと息を吐く。
――投石器。
――輸送路。
――そして、一人。
配置図の上で、
ありえない“穴”が開いていた。
「グラ将軍は……
その投石器が襲われた地点へ向かいました」
兵は、それ以上言えず、口を閉じた。
ドルグは、即座に判断を下す。
「レッドバルム」
「はっ!」
黒帝隊統率官・レッドバルムが前へ出る。
「兵を率いて投石器を取り戻せ。
そして――グラを連れて来い」
「了解!」
「投石器が到着次第、
右側城壁へ集中攻撃だ」
レッドバルムが頷く。
ドルグは続けた。
「城壁からの矢が止まったら――
魔翼の処刑者・《ヴァルザーク》に出撃を命じろ」
一瞬、空気が張り詰める。
だが、レッドバルムは迷わない。
「……承知しました!」
兵を引き連れ、走り去る。
ドルグは、
テントの中の将軍用の椅子にどっかりと腰を下ろし、
ベニバラに深く裂かれた左膝を見下ろした。
溢れる血を気にする様子もなく、
腰のポーチから取り出した赤黒く脈打つ魔獣の生肉を、
剥き出しの筋肉と骨の継ぎ目へ、強引にねじ込んだ。
――パチパチパチパチッ!
接合部から魔獣核の熱による白煙が上がり、
焼鉄で生身を焦がすような異音と、
鼻を突く焦げ臭さが指揮所を満たした。
だが、ドルグは眉一つ動かさない。
ただ、壊れた部品を調整するかのように、
踏み込んだ足の感触を無機質に確かめ、立ち上がる。
巨鎚を肩に担ぎ直す。
その瞳には、
痛みに対する怒りも、復讐心すらもない。
「……戦争は、予定通りには進まんな」
損壊箇所の処理を終えると、
彼は何事もなかったかのように、
再び絶望を振り撒くために前線へと歩み出した。
――◇――
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【ルドグラッド砦】
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閉じられた門の内側で、
兵たちは地面に座り込み、荒い息を吐いていた。
そこへ――
王ヴァレンティスが、王館から姿を現す。
戦場から飛び込んできた小馬車の荷台に。
血に濡れた紅髪。
「……ベニバラを」
王に呼ばれて、近衛のロートが即座に駆け寄る。
「王館へ。
すぐに手当てを。
命を最優先だ」
「はっ!」
ベニバラは意識が朦朧としながら、
何か言おうとして――声にならなかった。
ヴァレンティスは、その顔から目を逸らさない。
――言葉はいらない。
生きて戻った、それだけでいい。
二人の近衛が肩を貸し、
ベニバラの姿は人波に消えていく。
その様子を見届けてから、
ヴァレンティスは振り返り、
視線を砦の内へ移した。
倒れ込む兵。
壁にもたれ、肩で息をする者。
脚に刺さった矢を震える手で抜く者。
武器を足元に落としたまま、動けない者。
誰もが、
「もう一度立てるかどうか」ではなく、
「なぜ立つのか」を探している顔だった。
ヴァレンティスは、声を張らない。
「――兵糧係」
「はっ!」
「全兵へ、食糧を配給せよ」
その一言で、空気が止まる。
「腹がすいていては戦えない。
通常の……二倍だ」
ざわめきが広がる。
それは驚きであり、
同時に、胸の奥に澱のように溜まっていた何かが、
ゆっくりと動き出す音だった。
そこへ、ガルデンが歩み出る。
「陛下。
物資が乏しい。
矢も、残りわずかで……」
老将の言葉は、現実だった。
だが――
ヴァレンティスは、穏やかに頷く。
「分かっている」
一拍。
「だが――今、腹を満たさねば、
次の衝撃で、心が折れる」
それは叱責でも、理想論でもない。
戦場を知る者の、静かな判断だった。
「これは浪費ではない。
生き残るための判断だ」
ガルデンは、しばらく黙り込む。
やがて、深く息を吐き、頷いた。
「……承知した」
ヴァレンティスは、兵たちの方を向く。
「……よく耐えてくれた」
一瞬の間。
「――皆、よくやっている」
その一言が、
倒れた背中を、ゆっくりと起こしていく。
「ガルデン、頼むぞ」
老将は、短く頷いた。
王は、それ以上、何も言わない。
励ましも、誓いも、口にしない。
ただ、
“ここにいる全員を、まだ戦える状態に戻す”
そのための言葉と判断だけを残し、
ヴァレンティスは、再び王館へと歩き出した。
その背中は、
自らの覚悟を誰にも悟られず、
それでも先頭に立つ者の歩き方だった。
◆◆◆
少し離れた城壁の陰。
「……だいじょうぶ。
もう、砦の中だよ」
アズは、泥だらけのポコランの顔を、布で拭っていた。
ポコランは壁を背に座り込み、
泣いた跡の残る目を伏せている。
指先は、まだ小刻みに震えていた。
そこへ――
足音も荒く、ニコルが歩み寄る。
「……アズ」
呼ばれても、アズは顔を上げない。
「聞いてるか」
「……今、忙しい」
短い返答。
それだけで、ニコルの眉が跳ねた。
「忙しいじゃねぇ。
お前の、さっきの動きだ」
アズの手が、止まる。
「戦えるのは分かってる。
いや……正直に言う。
想像以上だった」
一拍。
「だがな――
無茶はするな」
アズが、勢いよく顔を上げた。
「無茶するなって、何よ!!」
立ち上がり、ニコルを睨みつける。
「ベニバラ将軍も、命懸けで止めてた!
ポコランだって、必死だった!
私だけ……私だけ、ダメだって言うの!?」
その眼に、迷いはない。
恐怖もない。
「私はずっと、ベニバラ将軍の背中を見てきた。
あの人が血を流してまで守ろうとした場所で、
私だけが安全なところにいて……」
声が、わずかに震える。
「そんなんで、
どうやって、民を守れるっていうのよ!」
彼女が求めているのは、生存ではない。
自分の中に流れているガルデンと同じ血、
――その誇りの完遂だった。
そしてその眼光は、
紅の軍神が戦場で放つものと、
残酷なほどよく似ていた。
――それが、ニコルには怖かった。
(この子は……
止まることを、知らない)
「アズ。
一人で突っ込むな」
声が、わずかに強くなる。
「お前が死んだら、
ガルデンが折れる。
それだけじゃない……」
一瞬、言葉を選び――
「俺だって、
寝覚めが悪すぎてやってられねぇ」
ニコルは、震える指先を隠すように拳を握った。
「だから次は――
必ず、俺の後ろにいろ。
勝手な真似は、許さない」
アズは唇を噛み、
「……分かった」
とだけ答えた。
だが、その声は、
納得ではなく“飲み込んだ”ものだった。
感情で動く。
正義で踏み込む。
そして――戻れなくなる。
戦場で、いちばん危険な資質。
この少女は、
すでにそれを持っている。
ニコルは目を逸らし、
「……ドルグが来たら、
次は俺が止める」
と、小さく呟いた。
◇
その時だった。
砦の外から、
空気を押し潰すような低音が響く。
――グゴォォォ……ッ!!
「……っ」
ニコルが、反射的に振り返る。
空が、歪んだ。
左城壁(敵右翼)の上空に、
巨大な影が差し込む。
「――来るぞッ!!」
誰かの叫びが、途中で潰れた。
ドォォォンッ!!
大粒の石弾が、城壁を直撃する。
石が砕け、
衝撃が“壁そのもの”を揺さぶった。
「うわあああっ!!」
続けざまに――
二発目。
三発目。
巨大な石弾が、
狙い澄ましたように、同じ区画へ叩き込まれる。
城壁に――
はっきりと、亀裂が走った。
「ひ、ひびが……!!」
その瞬間だった。
城壁上に設置されていた、
熱せられた塩水の釜に――
石弾が直撃する。
――ガツァァァァン!!
ぐらり、と傾く。
「釜が――」
間に合わない。
衝撃に耐えきれず、
大釜は、そのまま――内側へ、ひっくり返った。
「うあああああッ!!」
煮えたぎる塩水と岩石が、
味方の兵へ降り注ぐ。
焼ける音。
肉の弾ける匂い。
砕けた石屑と熱湯が混じり、
城壁上は、一瞬で地獄に変わった。
兵たちはのたうち回り、
転がり、叫び、壁から落ちる。
「助けてくれッ!!」
「足が……足がぁぁ!!」
指揮も、統制も――消えた。
逆側の右城壁から、
必死の反撃が飛ぶ。
「弓兵! 射て!!」
――シュッ、シュッ。
矢の音は、まばらだった。
「……残り、十束もない……」
バリスタが、悲鳴のように軋む。
だが――
「届かない……!
投石器が、遠すぎる……!」
反撃は、届かない。
その“隙”を、
黒帝軍が見逃すはずがなかった。
「梯子ッ!!」
砦の外側。
一斉に、
左城壁へ三基の攻城梯子が掛けられる。
「止めろ!!」
「登らせるなッ!!」
だが、混乱の中では――
統制を取ろうとする声さえ、潰れていく。
黒鎧兵が、
なだれのように城壁上へ流れ込んだ。
砦の中では、
まだ誰も折れていない。
だが――
もう誰も「守り切れる」とは思っていなかった。
戦線は、一本ではない。
左も、右も、内側も――
同時に、崩れ始めている。
倒しても、倒しても、
梯子の先から、黒い影が這い上がってくる。
崩れた城壁の亀裂は、
心臓の鼓動に合わせるかのように広がり、
一歩ずつ、確実に――
砦の寿命を削り取っていた。




