第29話 撤退――砕けた誇りの向こう側
ガルデンが体勢を立て直し、
ドルグを見上げた。
その老将の肩に、
そっと手が置かれる。
――ベニバラだった。
「これは、私の戦いだ」
折れた左腕を抱えたまま、
ベニバラは一歩、前へ出る。
「待て!
わしじゃって、消化不良じゃ」
ガルデンは腰の大剣を抜きかけた。
だが、その手を、
ベニバラが静かに制した。
沈黙。
二人の視線が、短く交わる。
やがてガルデンは、
大きく息を吐いた。
「……はぁ。分かった。
――やれるのか?」
「ああ。
足が、少し戻った」
左腕の感覚は無いが、
ベニバラは片足で、
ぽん、と地面を弾ませる。
ドルグが嗤った。
「もういいか?
死にぞこないが二人同時でいいぞ」
ベニバラは背を向けたまま、答えない。
ゆっくりと振り返ると、ドルグを真っ直ぐに見上げる。
ガルデンが一歩、下がった。
それを合図にするかのように、
ドルグが巨鎚を振り上げる。
「お前はもう、終わってんだろ――」
横殴り。
壁を倒すための軌道。
ベニバラは――
胸の激痛に歪みながらも、
わずかに、笑った。
「終わっている? ――笑わせるな」
巨鎚が迫る。
一歩。
ベニバラの足が、わずかに滑る。
剣士ではない。
それは――舞踏。
紅の軍神は、左へ回転した。
風が裂け、
巨鎚が紅い髪を、紙一重で掠めて通り過ぎる。
ドルグの目が、わずかに見開かれた。
だが、
力任せに振り切った巨鎚は止まらない。
ベニバラは、
その回転の軌道のまま、
右手の剣を、握り直し――
前へ、飛ぶ。
「おりゃああああああッ!!」
一回転。
遠心力が、そのまま剣に乗る。
――ザシュッッッ!!
砂が円を描き、
紅雷の軌跡が、一瞬だけ空中に刻まれた。
ドルグの左足。
甲冑の継ぎ目が裂け、
鉄が割れ、
骨が砕け、
血が噴き上がる。
「ぐ……っ」
怪物の膝が、落ちた。
だが同時に、
ベニバラも胸を押さえ、膝をつく。
口から、血の泡。
体内で、
折れた肋骨が、内側を突き刺していた。
その瞬間――
馬の蹄音。
クレセントの馬車が、一直線に突っ込んでくる。
「ガルデン将軍!!」
その一瞬を、
ガルデンは見逃さない。
「行くぞ、ベニバラ!!
――撤収だ!!」
馬車が突進する。
丸太が敵兵を薙ぎ払い、
ポコランの悲鳴が跳ね上がる。
「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬう!!」
よろめくベニバラの肩を、
ガルデンが掴んだ。
「乗るぞ!」
二人は、
馬車の荷台へ飛び乗る。
前で、クレセントが手綱を絞った。
「戻るぞォ!!」
馬が跳ね、
土を裂きながら、ドルグの横を爆走する。
ポコランは口を開いたまま、
酸欠の魚のように言葉を失っていた。
◆◆◆
そのころ、アズと反対側の城壁上。
ニコルが戦場を睨み、怒鳴る。
「マクレブ!
遊撃隊出るぞ!
じいさんたちの帰還路を開ける!」
「了解!」
「他の小馬車も撤退させろ!」
「了解!
角笛を鳴らせ!!」
次の瞬間――
ブオォォォ――ッ!!
ボッ、ボッ、ボォォ!!
全遊撃隊にのみ伝えられた、
《全軍撤退》の角笛。
草原の四方で、
馬車の影が一斉に向きを変える。
五台の小馬車が、
後ろ手に引きずる丸太の綱を切り捨て、
黒帝兵の間を突き抜け、
砦へ向かって走り出した。
「えっ!?
ここで全軍撤退!?
置いてかれるの俺たちじゃん!!」
ポコランの絶叫が、荒野に吸い込まれる。
クレセントは唇を強く噛んだ。
「……最後尾は俺たちだ!
将軍たちを乗せて戻る――
それが、俺らの仕事だ!」
荷台のガルデンが、
丸太の綱を切る。
馬車が、さらに加速した。
◆◆◆
砦の門が開き、
遊撃隊がなだれ出す。
退路を切り拓く、銀の奔流。
「はいはい通りまーす♪
死にたくないやつは逃げてねぇ~!!」
ニコルが黒鎧兵へ飛び込み、
湾剣が舞い、周囲の敵が転がり伏す。
「マクレブ!
弓を手前の黒帝兵へ集中!」
「はっ!!」
号令と共に、
弓兵が一斉に射角を下げる。
――シュシュシュ、シューン!
矢の雨が、城門前を制圧した。
戻ってきた小馬車が、
一台、二台と砦へ滑り込む。
城壁上で、
“遊撃旗”が激しく振られる。
「撤退! 撤退!!」
その叫びと同時に――
石段を、軽い足音が駆け下りてきた。
「……!」
アズだ。
息を切らし、
短剣を両手に、門外へ飛び出す。
視線はただ一つ。
戻ってくる馬車だけ。
その背後から、
黒帝兵の槍が伸びた。
「アズ、危な――」
ニコルが言い終わるより先に、
アズは半歩、背を向けたまま首を傾ける。
槍先が空を切る。
次の瞬間――
後ろ手の短剣が、
ためらいもなく敵の腹へ沈んだ。
アズは、振り向かない。
背後で、鈍い音。
「マジか――」
ニコルが、苦笑する。
小馬車が、三台目、四台目――
そして、五台目。
最後に、
クレセントの馬車が、門をくぐった。
「――ポコラン!!」
アズが駆け寄り、馬車を見上げる。
ポコランが、びくりと肩を跳ねさせ、
板囲いから顔を出した。
血と泥にまみれた顔。
焦点の合わない瞳。
「……え……?
帰れたの……?
僕……生きてるの……?」
言葉が、
ひとつずつ、確かめるように零れる。
「あ……アズ……」
声は震え、喉が引きつっていた。
ニコルは片目だけ振り返り、
「遅いよ紅のお嬢さん!
早くしないと死ぬじゃん!」
ベニバラは左腕を押さえ、
声を返せない。
ただ、眉根を寄せて、
小さく笑った。
すべての馬車が砦へ入る。
遊撃隊も後に続く。
最後に――
ニコルが、閉まりかけた門を片手で止めた。
黒い濁流の奥。
膝をつく巨影が、
こちらを睨んでいる。
破砕の巨鎚
《ドルグ=ハルザード》。
視線が交わり、
戦場が、一瞬だけ静止した。
ニコルは片眉を跳ね上げる。
「……やぁ」
ハーフマスクを下げ、
ベロを――イッと突き出した。
「またねぇーー」
子どもでもしない挑発を、
誰よりも無邪気に。
ドルグの瞳孔が、わずかに縮む。
ニコルはマスクを戻し、
「じゃ、死なないで待ってなよ?
次は俺が相手してやっからさ」
軽く手を振り、
砦へ滑り込む。
門が閉まる。
巨影は、
無言でそれを見つめていた。
(……小虫が……)
怒りではない。
それは――
ただの、興味だった。
救出は間に合った。
だが、それは僅かな猶予にすぎない。
――蒼の閃光が戦場へ戻るそのとき、
ルドグラッドの戦いは“本当の地獄”へ姿を変える。
――◇―― ――◇―― ――◇―― ――◇――
こうして――
《《序章 静かなる残響の夜明け》》に続く
《《破章 ルドグラッド砦の攻防》》は、ひとまずの幕を閉じた。
黒帝断罪軍は、百を超える兵を戦闘不能にした。
だが――
黒帝八将のうち、三巨頭はなお健在。
その戦力は、いまだ一切削がれてはいない。
一方、ルドグラッド砦が誇る最強の矛――
紅の軍神ベニバラは、重傷を負った。
鉄壁を誇る老将ガルデンの切り札すら、
“災害”の前では決定打にならなかった。
この先、黒帝軍に大型投石器が到着すれば、
砦の城壁が崩れるのは時間の問題となる。
矢は尽きかけ、兵たちの疲労は限界に近い。
ロザリーナは、確かに戦場へ向かっている。
だがその身は毒に侵され、
胸には守るべき幼い命を抱えている。
そして――
妹を追うように戦場へ近づく兄、ライザリオン。
その存在がもたらすものは、
果たして救済か。
それとも、新たな絶望か。
砦は、まだ立っている。
だが、勝利には――
あまりにも遠い。
◇
次章――
《《急章 砦の攻防決着――そしてその先へ》》
戦いは、ここから後半へ入る。
生き残る者、失われるもの、
そして“選ばされる未来”が、
彼らを待ち受けている。
年明け頃より、投稿を再開させていただく予定です。
引き続き、お付き合いいただけましたら幸いです。
――◇―― ――◇―― ――◇―― ――◇――




