第23話 ルドグラッド砦の攻防 ――門前の紅雷
陽は西の山に沈みかけ、
どんよりとした曇天が砦を押し潰すように垂れ込めていた。
風は鉄の匂いを運び、
鳥すら鳴き声を潜め、砦の空気は――死の静寂に凍る。
城壁上――
鋼の空気が震えていた。
石造りの台座が、等間隔に並ぶ。
その上には黒鉄の大釜が据えられ、
導火の焔で底を炙られている。
中では――
焼け石と濃い塩水が、
白い泡と熱気を噴き上げていた。
ゴボッ……ブウウウ……!
それは湯気ではない。
焼ける塩と燃える油が混じり合った、
肺を刺す“戦の匂い”だ。
*
砦の空気は――
戦いの前特有の、息を潜めた静寂に沈んでいた。
城壁上には、二つの影。
■ 戦術の脳 ― ガルデン
■ 決戦の矛 ― ベニバラ
視線は、まだ血も飛ばぬ戦場の中心を射抜いていた。
砦の中心――王館。
その王室の扉の向こうで、アズは王とともに控えている。
*
そして――
砦の心臓部、城門裏。
そこには、ニコル遊撃隊と、
民からの志願兵二百が並ぶ。
中には女性もいる。
鎧もなく、不揃いの槍と盾。
その列に、緊張した顔のポコランの姿もあった。
だが彼らは――まだ出ない。
城壁越しの外の音と空気に耳を澄ませ、
息を呑み――ただ待つだけ。
「俺たちは門が破れそうになったら出る。
それまでは――動くな」
遊撃隊中隊長マクレブの声が響く。
ニコルは壁にもたれ、片手で剣を回しながら笑った。
「そうそう。
戦場ってのはねぇ――
“出たい時に出る”んじゃなく、
“出たくないけど出なきゃ死ぬ時”に出るもんなのさ~」
民兵の列に、ぎこちない笑いが走ったが――すぐ消えた。
老いた者。
女。
若者。
震える槍を握ったまま――壁を見つめていた。
それは“待つしかない者たちの戦場”。
その空気の中、ニコルが見慣れぬ顔へ声をかける。
「じいさんたちも、志願したのかい?」
グラに襲撃された村から逃れてきた者たち――
その中の七人が槍を握りしめて立っていた。
「勿論じゃ。
わしらを迎え入れてくれたあなたがたに、
わしのこの命を差し出しても足りん。
まあ、わしじゃって……盾くらいにはなれる」
ニコルは眉を寄せ、苦く笑う。
「いやいや、盾になって死ぬのは違うでしょー。
あんた、孫娘もいたよね?」
老人は静かに首を振り、目だけを前へ向けた。
「死にたくはない。
……だが、ここを破られたら、そんなことは言ってられん」
その槍の震えが――決意の重さを物語っていた。
そのやり取りを、
後列のポコランは無意識に胸を掴んで聞いていた。
ぎゅ、と。
(……怖いのは、僕だけじゃない)
老人も、女も、若者も震えている。
それでも――前を向いている。
(逃げてきた人たちまで戦うのに……
僕が怯えてちゃ……だめだろ)
小さく噛みしめた唇が、
白くなる。
ニコルは老人へ一歩近づくと、そのやせ細った肩に手を置いた。
「じいさん、名前は?」
「ダルパスじゃ」
ニコルは何も返さず、目を見てただ微笑む。
――それだけで、その瞳は言葉以上の力を持っていた。
そのとき――
「……来るぞ!」
鉄壁のガルデンの声が、石を震わせた。
両脇の林の奥から――
ドォン……ドォン……ドォン……
大地を噛み砕く地鳴りと、金属が擦れ合う音。
やがてそれは城門前の草原を埋め尽くす影となる。
黒帝断罪軍――四百五十。
その先頭に立つのは、
三眼の暴君・《グラ=シャルン》。
魔翼の処刑者・《ヴァルザーク》。
そして――破砕の巨鎚・《ドルグ=ハルザード》。
巨大鎚を曳くその影を見た瞬間、
紅の軍神ベニバラの胸奥に、古い傷が灼ける。
「――ドルグ!」
かつて恩人を砕き散らした怪物。
だが怒りが噴き上がるより早く――
軍神の瞳は異変を読み取っていた。
「八将が自ら前線に……あり得ん」
稲光のような金剣が抜かれる。
「これは陽動じゃない。
この砦そのものを叩き潰すつもりだ」
ガルデンは巨大な盾と大剣を構え、
城壁上から、静かに砦内を見下ろした。
ヴァレンティス王の祈り――
『もう誰も泣かせない』
それは既に全兵の胸に沈み、砦の風そのものになっていた。
ガルデンの大剣が閃き――命が下る。
「総員、抜剣!
ここが最後の砦だ。
俺たちの後ろには、千の民がいる。
――一歩も退くなァッ!!」
兵たちが吠える。
だがその奥に張り付いた影――恐怖は、消えていない。
双剣の姫はもういない。
砦の切り札は去ってしまった。
それでも――
その心の空席を埋めるように、紅の軍神が前へ出た。
ベニバラの金盾が夕光を弾き、
薄闇へ鋭い閃きを走らせる。
「砦の守りは私が担う。
泣く者は――もう増やさない」
盾の縁が、彼女の掌に食い込んだ。
それでも、握りは緩まない。
◆◇◆
城壁前の草原――
黒帝隊の統率官レッドバルムが腕を振り下ろした。
「――第一突撃隊、前へ!」
四百五十の兵が一斉に雪崩れることはない。
草原の中央で列が裂け、五十の戦列が前へ進む。
だが、第一波は――、
徴募兵と囚人兵。
命の価値が最も軽く扱われる者たちだった。
巨盾を壁のように重ね、
槌兵と梯子兵がその背に張り付く。
全軍の濁流ではなく――
岩を穿つ“破城の波”が一つ、押し出された。
城壁上のガルデンが低く呟く。
「数の暴力ではない……
隊列を刻んで押し込む気か」
その第一の波が、
草原をゆっくり――だが確実に埋めていく。
だが――
この砦も、ただの石壁ではない。
岩山を切り裂いて築かれた、峡谷の喉元を塞ぐ天然の刃。
左右は断崖。
城門は正面の一点のみ。
どれだけの兵を押し込もうと、
力は細い道へ圧縮される構造。
右手の崖下には奈落が口を開け、激流が牙を剥く。
左には谷が落ち、小川がうねる。
城壁上――ガルデンが囁く。
「この地そのものが、王国の刃だ」
そして吠えた。
「西の射出口、弓兵!
一列目、撃ち下ろせ――
狙いは“前”だ!」
それは兵へ「役割」を刻む声だった。
ヒュン、ヒュン――
狭隘な進軍路で密集する黒鎧兵の
肩口と関節を、矢が正確に穿つ。
黒い兜は厚く、鎧は堅い。
だが砦の射手は、脆い場所を知っている。
「バリスタ!
旗印を砕け――撃てッ!」
ドォン――!
巨木の矢が列の先頭を吹き飛ばし、
後列ごと泥に叩き伏せる。
足場に転がる兵の死体が盾となり、
進軍速度は鈍る。
城壁上は静かだった。
恐怖はある――だが誰も手を止めない。
ガルデンが吼える。
「落ち着け!
敵が多いほど狙いは絞れる――
射角を下げろ、継ぎ目を砕け!」
砦は息をしていた。
王の祈りを宿した、迎撃の牙として。
砦の空気は震えた。
そして――
ルドグラッド砦を呑み込む“地獄の一日”が、ここから始まる。




