第21話 夜を裂く蹄――希望が沈む場所へ
◆◇◆
村の中心。
高級娼婦の館──紅灯亭。
深紅の絹幕が壁を包み、
黄金細工の燭台に並んだ百もの蝋燭が、
まるで生きものの息遣いのように揺れていた。
薔薇と乳香の甘い香が空気に溶け、
濃密な夜気は、眠る者の夢まで支配してしまうほど。
その中央には、王妃の寝所にも匹敵する巨大な天蓋の寝台が据えられ、
紫檀の柱から四方に垂らされた薄紗には、
流れる星空を織り込んだかのような銀糸の刺繍が瞬き、揺れていた。
その寝台の上で、
褐色の男の裸の背を、白魚のような指が滑った。
「この盛り上がったところは……どこ?」
女の甘えるような声──その爪が、肩甲骨を優雅に縁取る。
「そこは──悲嘆の丘だ」
低く囁かれた声は、冷たい絹糸のように甘く絡みつく。
「……この窪みは?」
女が肌に唇を寄せた。
「──陶酔の谷。そしてその先は安堵の森……
ひとしずくの幸福へ繋がっている」
男は小さく笑い、
背を起こすと、天井に描かれた天使の壁画を眺めた。
夜を閉じ込めたような瑠璃色の瞳と、
銀砂のように光る長い髪が額に乱れ落ち、
彫像のような端整さが、
かえってその冷酷さを際立たせていた。
その男こそ――
黒帝八将の一人、
無音の狙殺者、
セレファイス=エルド=アルテミス。
「──すべては宿命の糸で繋がっている」
窓の向こうで、絹を裂くようなざわめきが上がり、
燭台の炎が一瞬揺れた。
女が眉を寄せ、囁く。
「外が騒がしいけれど……行かなくてもいいの?」
「構わない。
女が二人、逃げているだけだ」
その声音は、眠りかけの堕天使が吐く呟きのように淡い。
「俺はこの村に──
グラに貸した金を取り立てに来ただけだ」
セレファイスは、女の頬にゆっくりと右手の指を滑らせ、
興味を含む声を落とす。
その小指の爪だけが宝石のように輝き、
誘惑の意図を込めて鋭く尖り、長く伸ばされていた。
「追わないの?」
セレファイスの瞳が、薄く光った。
「どこに逃げられる? ——この世界で。
人生は脆く、儚い。
……生き急ぐ必要はない」
一つ、蝋燭がふっと消えた。
その灯の消えた闇の奥で――
夜はさらに濃く、静かに深まっていった。
◆◇◆
村の外縁――
夜風が、血と煤の匂いを遠くへ運んでいた。
ロザリーナとベルが歩いてきた道には、
倒れた男たちの影が幾筋も横たわっている。
小さな少女は、ロザリーナの胸に顔を埋め、
ただ震えていた。
「……これから、どうする?」
ベルが振り返らずに問う。
「その子がいたら、戦えないよ。
その子を――どうする気なの?」
ロザリーナは短く息を吸い、少女を見た。
「村に頼れる人は?」
少女は顔を上げると、小さく首を振った。
ロザリーナは息を大きく吐くと、答えを探した。
仮面の奥のベルの瞳が細められる。
「私はブルームロアの者。
仲間はここにはいない。
家は最北の地……この子を預けられる安全な場所などはない」
ロザリーナは一拍の沈黙を挟み――小さく呟く。
「——ある」
ベルがわずかに顔を上げる。
「ひとつだけ……
この子を預けられる場所が」
「どこに?」
ロザリーナは目を伏せた。
「それは言えない」
「私は敵じゃない」
「分かっている。
だけど――あそこにいる人たちだけは……、
絶対に守らなければならない場所なんだ。すまない」
強い風が二人の間を裂く。
ベルは長く息を吐いた。
「……いいわ」
少女の泣き声が、ロザリーナの胸元にくぐもる。
ベルは淡く微笑む。
「その子を抱えて、二人で行けるの?
私がいなくても、戦えるの?」
ロザリーナは、少女を胸に抱き寄せ、
ただ一言。
「大丈夫だ」
その瞬間、小さな手が――
ロザリーナの服をぎゅっと掴んだ。
震えは止まり、熱だけが伝わる。
ベルはその動きを見て、
ふっと肩の力を抜いた。
「なら、その場所へ、二人で行きなさい」
風が、彼女の薄布を揺らす。
一瞬だけ、ベルは手を伸ばしかけたが――やめた。
「……きっとまた、近いうちに会える気がするわ」
その言葉にロザリーナは少女の背を撫でながら、静かに答えた。
「ありがとう」
ベルは背を向け、暗闇へ歩き出す。
「この腐った世界には、もう希望なんて残ってないと思っていた。
……でも、あなたみたいな人がまだ生きていた。
それが――嬉しかった」
そういうと、舞う影のように、彼女の姿は夜へ溶けた。
ロザリーナはその背中を静かに見送り、
少女を抱え直して馬に跨った。
そのとき――
視界が一瞬暗転した。
片腕が痺れ、抱えた少女を落としそうになるが――絶対に離さなかった。
(……これが副作用か?)
夜の風が、二人の頬を切る。
互いの行く先が、
再び交わるのか、それとも永遠に断たれるのか――
誰にも分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
それぞれの戦場へ走り出す、ということ。
ロザリーナの目的はただ一つ。
少女を、安全な場所へ預けること。
――だが、この時、彼女はまだ知らない。
その“唯一の安住の地”が、
今まさに戦火の海へ沈み始めていることを。
夜を駆ける馬の蹄が、
未来を割るように響き渡った。
それは救いの音か、破滅の合図か――まだ誰も知らない。
✦✦✦ 【追加登場人物】Characters ✦✦✦
【◆ ブルームロアの谷 ― 反逆の民 ◆】
✦ レヴァン・サフィール(32) ✦
《ブルームロアの大牙》
ブルームロアの谷の民・二百を率いる若き王にして、
白象に跨り、重戦斧を振るう“谷の覇者”。
褐色の精悍な肉体には無数の戦傷。
片側を刈り上げた黒髪。
獣のような眼光。
大地を踏み鳴らす白象の背に立つ姿は、
まさに《大牙》の名を冠する王そのもの。
だが――
戦場を離れれば、民と同じ焚き火を囲み、
同じ鍋をつつき、
同じ酒をあおる男でもある。
義理人情に厚く、泣き上戸。
戦と戦略においては天才的な嗅覚を持つが、
それ以外は驚くほど不器用で、
よく妹ベルに叱られている。
ザイラスの圧政から逃れた民が集い、
谷は“自然が作った砦”として武装蜂起を進めている。
彼の胸にあるのは野心ではない。
「家族を、生かす」
それだけだ。
◇
✦ ベル・サフィール(24) ✦
《仮面の踊り子・ヴェールダンサー》
ブルームロアの谷王・レヴァンの妹。
谷の理性であり、影の刃。
翡翠のような緑の瞳。
金混じりの銀髪を結い、
仮面と薄布で顔を半分覆う。
酒場では踊り子として優雅に舞い、
情報を集め、
静かに標的を選ぶ。
その腕は舞のためではなく――
《大弓》を引き、短剣を扱う戦士のもの。
兄が炎なら、
彼女は刃。
豪放な兄の無茶を止め、
暴走すれば叱り飛ばし、
酔えば水をぶっかける唯一の存在。
冷静沈着。
判断は早く、感情は内に秘める。
だがその奥底には、
谷と兄を守るためなら手段を選ばぬ覚悟が宿っている。
「……生は儚く、希望は踏み潰され、祈りは無力。
だから私は――せめて華やかに舞う」




