第19話 朝陽の酒場――隠された顔、潜む罠
――西の果ての地。
夜明け。
山の稜線の向こうから太陽が顔を出し、
薄金色の光が川沿いの道を静かに照らし始めていた。
栗色の髪を風に流しながら、
冷えた空気を切り裂くように馬を走らせる女がいた。
――ロザリーナ・エルデンハート。
川沿いをしばらく駆け、林を抜けたその先で、
彼女は小さな村の入り口に辿り着いた。
石畳の道。
朝市の掛け声。
屋台と旅商人、色鮮やかな布を広げる行商人。
死人の匂いがしない。
血の跡も、吊された死体もない。
この時代では珍しいほどの“生の匂い”が、村全体に満ちていた。
(……活気があるな)
だが、胸の奥に微かな違和感が沈む。
蹂躙の只中にある国で、この繁栄はあまりに不自然だった。
村の一角で――
漆黒の鎧が朝陽を反射した。
胸に刻まれた、禍々しい意匠――
黒帝八将・《グラ=シャルン》の紋。
ロザリーナは目を細めた。
(……こんな辺境にまで兵を?)
黒鎧兵たちは通りを巡回し、村人たちは深く頭を垂れた。
だがその表情は、従順ではない。
――媚びと恐怖が混ざった、歪んだ笑いだった。
この村は、グラ=シャルンの影に庇護され、支配されている。
そしてロザリーナはまだ知らない。
この先の丘を越えた場所に、
グラの居城【ブラストリア城】がそびえることを。
かつてそこはヴァレンティスの父王が治めた王城だった。
追われ、奪われ、血で塗り替えられた歴史の果てに──
彼が築いたのが、今のルドグラッド砦である。
その過去も、いま目の前の静かな朝も、
まだ彼女の知らぬ物語だ。
*
昨夜の夕食はほとんど喉を通らなかった。
妙な静けさが、どこか気味悪かったのだが。
(……考えても仕方ない。まずは腹を満たそう)
朝陽に照らされた木製の看板が目に入る。
《啼くカラス亭》
ロザリーナの喉が空腹を訴える。
彼女は扉を押し開けた。
◆【酒場】◆
朝とは思えぬほど――
この酒場の内側だけは、別の時間が腐っていた。
調律の狂った酒場用オルガンが、
乱暴に鍵を叩き鳴らされ、耳をつんざく。
何日も前から酔いつぶれて床に転がる男。
カードを叩きつけて勝敗に喚く労働者。
鍛冶屋と商人が殴り合い寸前で怒号を飛ばし、
旅の者たちは酒瓶を掲げ、不協和音の歌を吐き出している。
汗、酒、煙草――
それらが溶けあった白濁した空気が、
ひびの入った硝子窓から差す朝陽に揺らいでいた。
油ランプがかすかに明滅し、
壁には歪んだ影が数え切れぬほど蠢いている。
そのとき――
横笛の澄んだ音が、喧騒を断ち切るように流れた。
舞台の中央に立つのは、
宝石を散りばめた仮面を戴き、
顔の下半分を薄布のヴェールで覆った踊り子。
金を含んだ銀髪が、灯りを弾きながら肩へ流れ落ちる。
仮面の奥――
翡翠色の瞳が、油ランプの揺らめきを映して淡く光った。
露わになった脚線は艶めかしく、
その一歩一歩に“狩人の静けさ”が宿っていた。
女の瞳がロザリーナのほうへ向いた。
まるで――
ロザリーナの顔を知っているかのように。
(……?)
ロザリーナは異様な気配に気づき、視線を返す。
舞は風のように軽い。
だが重心の置き方は、踊り子のそれではない。
細い腕や脚の筋肉の使い方には無駄がなく、
一撃に転じられる“準備”が常に整っている。
(……戦士か?)
視線が合った瞬間――
女の瞳が微かに揺れ、すぐに逸らされた。
だがロザリーナは、
その女の背に何か強いものが潜んでいることを感じた。
*
◆【酒場・接触】◆
「へい、お嬢さん。旅人さんかい?」
でっぷりとした腹の出た男――店主ブロソンが、
陽気な口調で近づいてくる。
だがその目の奥は、油膜の張ったように濁っていた。
「座りなよ。朝食かい?」
(この辺境の村に自分を知るものなどはいない)
ロザリーナは特に疑いもせず席につき、短く頷いた。
*
しばらくして――
「……お持ちしました……」
か細い声が震える。
小さな手で皿を運んできたのは、十歳にも満たないような少女だった。
「ありがとう」
ロザリーナが何気なく礼を言うと、
少女はびくりと肩をすくめた。
(怯えている……? 何に?)
ロザリーナの視線が奥の店主へ向いた瞬間、
少女はそれを察して俯き、震える手で皿を置いた。
「これ……これね、とっても美味しいよ……」
声は笑っているのに、目は泣きそうだった。
肉の煮込みは、香りも悪くない。
ひとつ、小さく笑って返す。
昨夜――自分の胸にダイブして、泥の手形を残した子の顔が浮かんだ。
ひと口、食べる。
温かさが喉を伝い、腹に広がる。
(……なかなかうまい――)
数口食べたところで、
少女がまだ横に立っていることに気づいた。
ロザリーナが顔を向けた瞬間――
少女は何か言いかけて息を飲む。
袖の隙間から覗いた細い腕に、隠しきれない紫色のアザ。
視線を逃がそうとした目元は、夜の影を抱えたまま。
そして手首には――縄で擦れたような赤い筋。
(……痛めつけられている……?)
そのとき、急に椅子の背もたれが遠のいた。
(……っ……体が――重い……?)
指が痺れ、スプーンが床に落ちた音が耳の奥を弾く。
少女の唇が震える。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
ロザリーナの視界が歪む。
床が波打ち、呼吸が掴めない。
彼女には、致命的な弱点があった。
――子どもには、無防備になってしまうこと。
(……なっ……?)
視界の端。
薄布の奥から踊り子がこちらを見ていた。
緑の瞳が、静かに揺れていた。
(――どういうこと……だ……)
その問いだけが残り――
彼女の、思考も、世界も、暗い深みへ沈んでいった。
◆ ロザリーナが眠った後 ――
店主ブロソンは息を吐き、
カウンター下の紙束を荒くめくる。
その中の一枚。
粗い筆で描かれた横顔。
栗色の髪。
青銀の瞳。
腰の双剣。
ロザリーナ・エルデンハート。
《――生け捕りにせよ。報酬は想像に及ばぬ額》
グラ=シャルンの命が、耳の奥で甘く囁く。
男はその紙を剥がすと、
眠るロザの顔へ重ね――
口角を裂くような笑みを浮かべた。
「……これで大金だ」
まっ茶色の腐った歯を剥き、
口角だけを、ゆっくりと吊り上げた。
その横で皿を抱えた少女が、
震えながら涙を落としていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
涙をボロボロ流している幼い少女――
その小さな胸は、何も分からないほどに追い詰められていた。
ブロソンは少女を冷たい目で一瞥した。
「裏へ運んで縛れ。
――死なせるな」
その声と同時に、
左目の潰れた用心棒が、奥から現れた。
無言のままロザリーナを肩へ担ぐ。
その動きは、荷物を持ち上げるのと変わらぬ雑さだった。
「ほら。剣もだ。
もたもたすんな、早く持ってけ!」
怒鳴り声が空気を裂き、
少女は皿を置くと、泣きながら双剣を抱え、
暗い奥へと駆けていった。
少しして――
鉄の扉の軋む音が、 酒場の喧騒を裂くように響いた。
◆◇◆
【ザイラス軍・進軍路】
砂塵が荒野を吞み込み、
大地が鈍い呻きを上げて震えていた。
四百五十の黒鎧兵が濁流のように列を成して進む。
まるで夜そのものが、地を歩いてくるかのような影の軍勢。
その先頭には――八将の三巨影。
グラ=シャルン。
ヴァルザーク。
ドルグ=ハルザード。
黒帝八将のうち三人が揃った戦など、
王都陥落のあの日以来、なかった。
風が、重く沈む。
「……ここか?」
グラの声は刃を引きずるように低い。
「はい、ここです」
黒帝隊の統率官レッドバルムが地図を広げた。
「この地点で、村人を追っていた我が隊が――
消息を絶ちました」
ヴァルザークが赤黒の魔翼をわずかに広げ、
紅眼で周囲を舐めるように眺めた。
「ここが村……そして消えた位置……
この線上の先だ」
彼は、爪で自らの頬を裂くと、
地図の上へまっすぐ赤の線を刻んだ。
「潜んでいようが匂いがする。
血のにおいだ」
ドルグは巨大戦鎚を肩に乗せ、
無表情のまま地平を睨む。
鎚がちょっと揺れるだけで――
大地が恐怖を思い出すように震えた。
「砦か。
……この鎚で砕くには、良い大きさだ」
黒鎧兵たちが一斉に足を止める。
風向きが変わった。
荒野の匂いが、戦の匂いへと変わる。
三将はゆっくりと歩みを揃えた。
「では――」
「進むか」
「獲物は近い」
その声に呼応して、レッドバルムが指示を放つ。
地鳴りと砂塵が方向を定め、影を地平へ伸ばしていく。
その延びる先――
ヴァレンティスのルドグラッド砦。
まだ誰も、この死が迫っていることを知らない。
だが、それは静かに、揺るぎなく――砦へ向かっていた。
主人公のいない朝の空へ。
守るべき者たちが――
まだ眠りの中にいるその時へ。
◆◇◆
その頃――
ロザリーナは意識を奪われ、
手足を縛られ、光の差さぬ小部屋に囚われていた。
そのことを砦は知らない。
そして、敵であるグラ=シャルンすら、まだ知らない。
砂埃が再び舞い上がり、
黒い軍勢はゆっくりと、しかし確実に――
ルドグラッド砦へ向かって動き出した。




