第18話 夜明け前の影――振り返らぬ背
夕食の席には、久しぶりに“いつもの砦”の和やかな空気が戻っていた。
湯気の立つ豆のスープと黒パンの香りが、静かな広間にほのかに満ちている。
「そういえば、昨日さ――固まってたな、双剣姫さんよ」
スープを啜りながら、ニコルがやけに楽しそうにロザリーナを見る。
「そうそう……ロザリーナさんって……」
アズが苦笑しながら頷く。
ポコランが、パンをもぐもぐしつつ続けた。
「あんなに強いのに、小さな子には敵わないなんて……すごかったです!」
ロザリーナは、フォークを置き、わずかに俯いた。
「……からかわないでほしい」
小さな声。
ほんのりと赤く染まった頬が、食堂の灯りに柔らかく揺れた。
「いやいや、からかってないってば」
ニコルが身振りを交えて笑う。
「いつものあんたなら、気配で軽く避けられるだろ? でも昨日はさ――」
「確かに……あれは不思議でした」
アズが目を丸くして言う。
ベニバラが、グラスをあおりながら低く言った。
「殺気の無いものは避けられない。それだけだろ」
ヴァレンティスがゆっくり頷き、穏やかに微笑む。
「だが――あの子はニコルの元には絶対に行かんじゃろうな」
ガルデンが食べ終えた小骨を皿に落としながら、髭を揺らして言う。
「おい待て、なんでだよ!?」
ニコルが椅子から跳ね上がる。
ガルデンは喉の奥で笑った。
「分かっとらんのう、道化」
ベニバラが横目でニコルを見る。
「あの子は、“安心できる場所”にしか行かない」
「はあ!? 何それひどくない!?」
ニコルが立ち上がり、周囲は腹を抱えて笑い出した。
アズは机に突っ伏して笑い、ポコランは肩を震わせ、
ガルデンまで破顔し、ベニバラさえわずかに口元を緩めた。
――その笑いの渦の中で。
ロザリーナだけは、胸の奥にひどく細い痛みを抱いていた。
何も言わない――いや言えなかったことへの後ろめたさ。
そんな思いを押し隠しながら、
食事の終わりにヴァレンティスが席を立つのを見た。
ロザリーナは椅子をそっと離れ、王へ駆け寄って耳打ちをする。
ヴァレンティスの表情が一瞬固まり、深い皺が眉間に寄った。
声にしない二人の影。
王はゆっくりと頷くと、背を向けて歩き出した。
――そして、夜は深まっていった。
――◇――
夜がまだ深い藍色をまとっていた頃。
砦の馬屋から、一頭の栗毛の馬がそっと引き出された。
ロザリーナだった。
高地にあるルドグラッド砦。
夜明け前の冷気が頬を刺し、馬の鼻息が白く散った。
鎧の金具が触れ合う、かすかな音だけが、
静まり返った砦の空気に溶けていく。
――誰にも気づかれぬように。
それだけを胸に、ロザリーナはひとり城門へ向かった。
松明の灯りが、石壁に揺らめきを落とす。
城門の下。
その闇に、ひとつの影が寄りかかっていた。
ベニバラだ。
腕を組んだまま、ロザリーナを見ようともせず、低く言った。
「……やっぱり、行くのか」
ロザリーナは立ち止まり、短く答える。
「すまない。
兄を――」
「言うな」
遮る声は荒いのに、不思議と温かった。
「……見つかればいいな」
その声は、不器用な戦士がやっと絞り出した祈りのようだった。
ロザリーナは深く頭を下げた。
その背後で、城門の番兵が槍を抱えて立っていた。
若い兵――ロートだ。
ロザリーナを見た瞬間、
驚きと、胸を突かれたような敬意が入り混じり、声が震える。
「……ロザリーナ様!? こんな時間に……まさか……」
「い、行かれるんですか……もう……?」
ロザリーナは何も返さない。
代わりに、ベニバラが一歩前へ出た。
「ロート。門を開けろ」
「はっ!」
ロートが駆けていき、
重い城門が、軋みをあげてゆっくりと外へ開き始める。
(……行かないでほしい。でも、俺には止められない)
ロートが胸の前で拳を握った。
松明の火がゆらゆらと揺れ、
開きゆく門の影が、長く地を裂くように伸びていく。
門が開ききる前に、ベニバラの声が低く響いた。
「……ここを出てまっすぐ行くな」
ロザリーナは手綱を握り、静かに耳を傾ける。
「正面は黒帝断罪軍の索敵が巡回している。
左手――北側は崖で、行き止まりだ」
松明の赤い灯が、ベニバラの横顔を淡く照らした。
「出たら右へ。
道がしばらく下りになる。
谷へ降りていけば川沿いの道に出る。
……そのまま川を辿れ。敵の目を避けられる」
ロザリーナは短く頷いた。
「恩に着る」
彼女は馬へ軽やかに跨がった。
冷たい風が、束ねた髪をふわりと持ち上げる。
ベニバラが、その背へぽつりと言った。
「……アズたちが起きたら、泣くな」
城門の下で、ロザリーナの肩がわずかに揺れた。
けれど――振り向くことはなかった。
「世話になった」
その一言だけを残し、
馬の腹にそっと脚を添える。
栗毛の馬は、夜明け前の薄闇へ――風を切るように駆けだした。
振り返らない背。
松明の細い灯りに伸びたその影は、やがて闇に溶けていく。
――そして。
外壁の影、松明の光が届かぬ場所で、
静かに見守るもうひとつの影があった。
顔を覆うハーフマスク。
背には星と月をあしらったマント。
朝風にぴくりと震える猫耳。
松明の赤い炎だけが、
去っていくロザリーナの背と、
それを無言で見送る砦の二つの影を――
揺れる光の中に浮かび上がらせていた。
◇
同じころ。
薄らぐ月を背に、
巨大な竜の死骸の山からひとつの影が立ち上がった。
その男は斧を手に――千切れた竜の首にゆっくりと歯を立て、
赤黒く濁った瞳で滴る血を啜っていた。
「……グルル……ッ……」
喉の奥で、もはや人ではない“獣の唸り声”を繰り返していた。
✦✦✦ 【序章終了】 ✦✦✦
こうして――
《《序章 静かなる残響の夜明け》》は、幕を閉じる。
物資は尽きかけ、
ルドグラッド砦は、確実に包囲されつつあった。
黒帝断罪軍の影は、もはや遠雷ではない。
やっと手に入れた、温かな居場所。
その中心から――
ロザリーナは、兄の影を追い、再び夜へと姿を消した。
彼女が砦を離れたことで、
何が失われ、
そして、何が守られるのか。
その答えは、
まだ誰にも分からない。
一方――
竜の骸を噛み砕く“獣”は、
静かに次なる血の匂いを嗅ぎ取っていた。
それは、新たな火種となるのか?
夜明けは近い。
だが、それは救いか、破滅の始まりか。
次章――
《《破章 ルドグラッド砦の攻防》》
鉄と血と意志がぶつかり合う、
逃げ場なき戦いが、ここから始まる。
引き続き、お付き合いいただけましたら幸いです。




