第9話『八女茶を継ぐ者』
秋雨が、静かに黒瀬家の屋根を叩いていた。
葬儀が終わっても、茶室の湯釜は沈黙したままだった。
――八重のいない茶室。
蓮は、湯のない鉄瓶を見つめていた。
手元の茶碗には、ひびが入っている。
八重がずっと使っていた古い茶碗。
「割れても使えるよ。人の手で、何度でも温まるからね」
そう言って笑っていた祖母の声が、今は遠い。
「……“心”がない茶は、ただの湯だよ、か」
呟いても、返す声はない。
マメが膝に飛び乗り、喉を鳴らした。
その音だけが、今の茶室の呼吸だった。
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夕方、村上宗真がやってきた。
法被の裾を濡らしたまま、無骨な手で線香をあげる。
「……黒瀬の婆さん、ほんとにいい顔で逝ったな」
蓮は小さく笑う。
「最後に一服、点てさせてもらったっす」
「聞いたよ。いい香りだったってな」
宗真は座り込み、湯釜を見た。
「お前、これからどうする」
「……茶室、閉めようと思ってます。
俺がやっても“黒瀬の味”は出せんっす」
宗真の顔がわずかに歪んだ。
「バカ言うな。八重さんの味を真似するんじゃない。
お前の“心”で点てるんだ。茶は人の中で生きるんだよ。」
その言葉に、蓮の肩が震えた。
けれど、まだ答えは出せなかった。
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数日後。
白川美結が、八女市の広報車を降りてやって来た。
雨上がりの茶畑に、白いワンピースの裾が映える。
「……茶室、閉めるって聞きました」
「はい。俺の茶、まだ未熟っすから」
「でも、あの日のあなたの茶で、たくさんの人が泣いたんです。
“静けさ”で人の心を動かした人なんて、他にいません。」
蓮は目を伏せた。
「……ばあちゃんの香りを、俺が壊したくないんすよ。」
美結は、ゆっくりと歩み寄った。
畳の上に膝をつき、湯釜に指を触れる。
「黒瀬さん。茶は、壊れないですよ。
人が飲んで、人の中で、生き続けるんです。」
その瞬間、外の風が障子を揺らした。
茶畑の葉が光り、まるで八重の声が風に混じっているようだった。
――“蓮、茶は場所で味が変わる。それを感じておいで。”
「……場所、か」
蓮の瞳に、少しだけ光が戻った。
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夜。
蓮はひとり、茶室の灯を点けた。
茶筅を握る手は、震えていない。
「ばあちゃん、俺……やっぱ、点てたいっす。」
湯を注ぐ。
音が、心に沁みる。
シュッ、シュッ――
音が蘇る。八重のリズム。
香りが広がる。祖母の息。
「八女茶入りま〜す♡
……今日は、俺の“初点て”っす。」
茶碗を自分に差し出し、ひと口。
渋みと甘みの奥に、懐かしい風の味がした。
――ああ、まだ、ここにいる。
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翌朝。
村上宗真、美結、竜胆、そして町の人々が黒瀬家の前に集まっていた。
宗真が腕を組み、にやりと笑う。
「黒瀬の茶、もう一回飲ませろ」
「俺のはまだ試作っすよ?」
「構わん。お前の“間”が飲みたい。」
蓮は湯を沸かし、静かに言った。
「八女茶入りま〜す♡ 心、あっためますね」
茶の香りが、風に乗って広がっていく。
美結が微笑む。
「この香り、八重さんの香りと同じ……でも少し違う。
優しいけど、少し熱い。」
竜胆が腕を組み、肩で笑う。
「ホスト時代の“落とす香り”が残ってるんだよ。
でも、今はそれが“包む香り”になってる。」
蓮は湯気の向こうで微笑んだ。
「俺、やっと分かったっす。
ばあちゃんの茶を守るんじゃない。
俺の茶で、八女を守るんす。」
その言葉に、村上が静かに頷いた。
「それでいい。お前の“心茶”を、みんなで飲もうじゃないか。」
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翌週、黒瀬家の茶室に新しい看板がかけられた。
──《心茶屋 REN》──
開店初日、町の人たちが次々と訪れた。
蓮は羽織を整え、にこやかに声を上げる。
「八女茶入りま〜す♡ 今日の一服、“やさしめ恋味”っすよ」
笑い声とともに、茶室に香りが満ちる。
外では、秋風が吹き抜け、茶葉がきらめいた。
――茶は、人の中で生きる。
その教えを胸に、黒瀬蓮は今日も湯を沸かす。
茶筅の音が響くたび、
八重の笑みが、風の中で揺れていた。