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第8話『八重の手、茶筅の音』

八女の秋は、静かに色づいていた。

 朝霧が田んぼを包み、すすきが風に揺れる。

 黒瀬家の茶畑の奥、古い木造の家。

 その縁側で、蓮は久しぶりに湯を沸かしていた。


「……八女の風、やっぱり柔らけぇっすね」


 ふと、畳の奥の部屋から咳の音がした。

 祖母・八重の声だった。

 数日前から容体が悪化し、村上宗真や近所の人たちが交代で見守っていた。


「ばあちゃん、起きとるっすか?」

 蓮が襖を開けると、八重は枕元で微笑んでいた。

 細くなった指が、ゆっくりと蓮の手を握る。


「……よう、帰ってきたねぇ。東京、どうだった?」


「熱かったっす。

 でも、茶で“静けさ”を出したら、みんな泣いちゃって。

 “静けさ”も、ちゃんと届くんすね。」


「そうさ。静けさは、心が疲れた人ほど恋しくなる。」


 八重はそう言って、ゆっくりと目を閉じた。

 蓮は膝をつき、祖母の枕元に茶道具を並べる。

 茶碗、茶筅、棗。

 湯気がゆらめき、部屋に静かな香りが満ちていく。


「ばあちゃんの前で、もう一服点てたいっす。

 ……“最後の接客”っすから。」


 八重は薄く笑った。

「茶を“接客”なんて言うの、あんたぐらいだねぇ。」


「俺の接客は、命かけてたんすよ。

 でも、茶は命を整えるもんっすね。」


 蓮は茶筅を取り、静かに動かす。

 シュッ、シュッ――

 茶筅の音が、まるで心臓の鼓動のように響く。


「“心”がない茶は、ただの湯だよ」

 八重の教えが、耳に蘇る。


 あの頃、何もわからず茶を“パフォーマンス”として扱っていた自分。

 けれど今は、湯の音に、人の呼吸が聴こえる。

 香りの流れに、記憶が宿る。


「八女茶入りま〜す♡」

 蓮の声は、どこまでも優しかった。

「ばあちゃん、今日の一服は“風の香り”っす。

 東京の熱を、八女の風で冷ましてきたから。」


 八重は、薄く開いた目で茶碗を見つめる。

 蓮の手から差し出された茶は、湯気の奥で金色に輝いていた。

 ひと口飲むと、八重は小さく笑う。


「……やわらかいねぇ。

 蓮、あんたの茶は、心がしゃべるよ。」


「ばあちゃん、俺、やっと“包む茶”を点てられたっすよ。

 夜の街で磨いた話術も、手の動きも……

 全部、この一服に入ってる。」


「そう……。もう、何も教えることはないね。」


 その言葉とともに、八重は目を閉じた。

 頬には穏やかな笑み。

 茶筅の音が、止まる。


 ――シュッ、……。

 ……静寂。


 蓮は、動けなかった。

 何度も何度も茶を点てようとするが、手が震える。

 茶筅が落ち、茶碗がかすかに鳴った。

 その音が、涙を誘う。


「ばあちゃん……“八女茶入りま〜す”って、

 もう一回、聞いてほしかったっす。」


 膝の上にマメが飛び乗り、喉を鳴らす。

 その温もりに、蓮はそっと手を伸ばした。


 窓の外では、風が畳を撫でていた。

 山の影、茶畑のざわめき、虫の声――

 全部がひとつの“間”になって、部屋を包んでいる。


 蓮は涙を拭き、深呼吸をした。

 茶碗を取り、ゆっくりともう一服を点てる。

 音もなく、ただ“心”で。


「八女茶入りま〜す♡

 ばあちゃん、今度は天国で、ゆっくり飲んでください。」


 風が吹き抜け、湯気が天井へ昇る。

 まるで、それが八重の魂のようだった。


 翌朝、村上宗真がやって来た。

 八重の枕元で、茶碗の香りを嗅ぐと静かに言った。


「……お前の茶、あの人も安心して見とる。」


 蓮は笑った。

 涙はもう、出なかった。

 その笑顔は、夜の街の“営業スマイル”ではない。

 人を包む、茶人の笑みだった。


 その日から、黒瀬蓮は“師のいない茶室”に立つようになった。

 誰もいない部屋で、朝の光を浴びながら茶を点てる。

 茶筅の音が、まるで八重の声のように響く。


「“心”がない茶は、ただの湯だよ」

「“心”を込めた茶は、人を救うっすね……♡」


 蓮は微笑み、そっと目を閉じた。

 外では、八女の風が吹いていた。

 茶の香りと、祖母の声が、その風に溶けていった。

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